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青の彷徨 後編 6


 大分営業部はさすがに大人数だ。営業だけで四十、推進部や管理職を含め一階だけで五十名になる。メーカーも卸の朝礼後を狙って押し寄せてくる。 
 周吾が今村裕史に会ったのは五月も第三週になってからである。周吾は妻の葬儀に参列してくれたお礼をいい。今村裕史はお悔やみを言ってくれた。彼は仕事も彼女も順調で何よりだった。万丈の得意先が、周吾は元気にしているか、妻を亡くした悲しみから立ち直れているだろうか。随分心配している。すっかり痩せて、以前の元気さが見られないのが辛いが、何とか立ち直って欲しい。そう言ってくれた。
 和田昇も同じ頃会った。彼も周吾を心配していた。万丈の野崎医院に行ったら、いきなり、
 「お前、蒼井の友達か? と聞かれたのでびっくりしました。蒼井さんは、野崎医院は担当ではなかったし、野崎医院自体キョーヤクさんと取引がなかったと、聞いていましたから。先生から経緯を聞いて納得しました。蒼井さんが開拓したんですね。野崎先生も心配してましたよ。蒼井は、飯、食えるようになったか、聞いて来い。お前、友達なら何とかしろ。奴は今大変なんだ。支えてやってくれ。そう言われました。森山先生ご夫婦にも、大手門の先生にも。皆さん心配しています。随分痩せたという話が広まっています。今日夜、飯食べに行きましょう。厭は言わせないです」
 和田昇と朝そんな話をして、夕方戻って事務整理をしていると。和田昇がやって来た。彼もこの課の担当になったので、初村謙二や蒲田清人、幸野友義などに挨拶をしている。キョーシンは昨年の四月から取引が始まったばかりで、みんなも馴染みが薄い。それでも今まで直販でやっていた実績がいきなりキョーヤクに回ってくるのだから、悪い話ではない。高山隆介や前田孝志にはキョーシンなら周吾に聞くよう話していた。周吾は延岡にいた頃から特に馴染みの深いメーカーだった。また和田昇は格別でもあった。和田昇が周吾の隣に丸椅子を持って来て座った。
 「野崎先生がいきなり去痰剤を採用してくれました。あれ入れていい。それだけなんです。前の担当者も野崎先生には随分かわいがってもらいました。それでも去痰剤だけはまだいい。断られていたんです。僕が引継ぎして、何度か伺って薦めましたが、まだいい、でした。それが、お前、蒼井の友達か、その理由だけで、あれ入れておけ、ですよ。それもいきなり三千錠ですよ。前任者に言ったらびっくりしていました。俺があれだけ苦労したのに、お前は友達だけでいきなり三千錠新規受注か、って。蒼井さんありがとうございます」
 和田昇は、正直で、丁寧で素直だから、こんなところでお礼を言うのも平気だ。それを聞いていた今井敏隆課長が、
 「和田さん、その先生は蒼井の得意先で、一日何回も行く先生か?」
 と聞いて来た。
 「いえ、課長、その先生は西谷先生と言って、うちが使う薬は蒼井君に聞いてくれ、です。蒼井さんと一緒に行って採用していただきました。いきなり月に三千錠が最低三本出ます。でも今日のところは全然違います。キョーヤクさんが、取引がないところだったんです。しかも蒼井さんは担当者でもありません。私も今年から担当になりまして、まだ三回しか行けてないので、詳しくはわかりませんでした。キョーヤクさんと取引を始めさせたのは蒼井さんなんです。先生から詳しく聞いて納得しました。昨日先生から、お前、蒼井の友達か?はい、と言うと、色々話がありました。心配していました。最後に、あれ大きいのを入れておけ、そう言うのです。あれとは去痰剤でしょうか、そう聞くと、そうだ、と言うのです。そりゃ嬉しいですよ。それも三千錠でしょ。僕はまだ商品の説明もしていない内に、ですよ。説明しようとすると、蒼井に聞いている。よく知っている。また情報を持って来てくれ。蒼井の情報だぞ、そう言われるんです。僕はもう宮崎から蒼井さんとは一緒で、寮に泊まって話し込んでいましたから、もちろん任せてください。必ず元気にさせますから、そう言うと先生は、頼む。蒼井を頼む。そう言われるのです」
 和田昇は話をした。
 「わかったようで、わからんが、蒼井はその担当でない先生とえらい仲がよかったんだな」
 今井敏隆課長が和田昇に言った。
 「僕は蒼井さんをよく知っていますからわかりますけど、先生も同じだったんです。蒼井さんは野崎先生に会っても仕事の話は絶対にしなかったそうです。先生が聞けば答えるが、ご自分からはなかったそうです。でも蒼井さんは物凄い商品知識を持っています。メーカー顔負けです。どこから聞いても簡単に答えてくれます。野崎先生も重宝されたようです。それに担当ではないし、仕事で来たのではないから。だから先生は気軽に蒼井さんと話が出来るし、趣味の世界の楽しい話で盛り上って、蒼井が来ると、新曲のいいクラッシクを聞いたような気分になる、のだそうです。わかるようで、わかりませんが、つまりすっきりする気分になって、さあ仕事をしようか、となるらしいのです」
 和田昇はそう言った。
 「ようわからんが、なんか凄い話だな」
 今井敏隆課長は首を傾げた。
 「それで、野崎先生から蒼井さんに元気をつけさせてやってくれ、と頼まれて来ました。これから飯を一緒にします。実は蒼井さん、野崎先生から軍資金を預かって来ました。この話を森山先生にもつい話してしまいましたら、森山先生からも軍資金を預かって来ました。キョーシンだって予算はありますから、と断っても、蒼井のためだ。キョーシンとは関係ない。そう言われました。うちだってお礼がしたい。三千錠新規受注のお礼を、予算はたっぷりあります。蒼井さん美味しいもの食べに行きましょう。みなさんも良かったらどうですか。ご一緒しませんか?」
 和田昇は他の課員を誘った。だが、もう一係の三人は帰宅していた。今井敏隆課長と、二係の高山隆介と前田孝志しかいなかった。今井敏隆課長は、自分は今日予定があるから行けない。高山、前田の二係で行ったらどうか、とすすめた。二人は蒼井係長と一緒なら是非行きたい、と言った。
 鰯専門店に行って新鮮な鰯を食べようとなった。周吾はまだ食が細かった。肉は辛いし、鰯なら食べられそうに思えた。鰯の刺身を食べながらビールを飲むが、一杯のビールがきつい。周吾は焼酎のロックにしてもらった。これなら飲める。ここの鰯は美味しい。周吾も久しぶりに食べた。それでも若い二人や和田昇には適わない。 
 和田と延岡にいたころの話をした。
 よくリゾルートには行った。十人も入ればいっぱいのスナックで、いつ行っても客は少なかった。静かで落ち着いて飲めた。和田と話が弾んだ。マスターも熊のような顔をしてかわいい目をしていた。余談なことは言わない。でも話かければ面白い話が返ってくる。芯のあるマスターだった。周吾も和田もリゾルートが一番好きだった。何で店の名前がリゾルートなんて変な名前なんだ。熊のマスターはパーカッションをやっていて、演奏する時はいつも、リゾルートだ、と思ってやっていた。音楽用語なんだよ。アンダンテとかダ・カーポとかフォルテシモなんかと同じだ。意味は「きっぱりと、決然」だ。パーカッションはそうでないとやれないから。小さいけどいい店だった。
 二人でおでん屋に行って、行った時間も遅かったけど、全部食べたことがあった。後からお客が来ても在庫がない。仕込んだのはあっても、煮込みの時間がない。それでもう店じまいになって、店の女将さんも店員さんも一緒になって飲んだ。店の女将さんもお酒の御代は要らないからと言って、サービスしてもらい、それでまた盛り上って、結局僕ら二人に店が三人で、一升瓶四本空にした。店員さんも飲みましたけど、あんな時もありましたから、蒼井さん、だんだんでいいですから戻って来てください。
 高山隆介も前田孝志も周吾はまだ本調子じゃないようだから、どうすることもできないが、待っている。それに話を聞くのが楽しみで、営業の仕事がよくわかるのだ、と言う。周吾はまだみんなに迷惑をかけている。このままじゃ良くないとはわかっている。でもまだどうにもならない。妻のいない空白は埋めようがない。
 二次会に行く。スナックで周吾はウイスキーをロックで飲んだ。酔いたいし、酔ってノッピに会いたい。毎日そう思う。和田昇は周吾の寂しい気持ちを吐き出させようとした。寂しくないですか。恋しいですか。一人家に帰ると悲しいでしょう。そんな意地悪な質問をしてくる。周吾は和田昇に泣かされに来たようだと思った。気の会う和田昇だから、周吾は本音をそのまま言う。ついまた悲しくなる。涙が出る。アルコールが感情を高ぶらせる。和田は我慢せずにどんどん吐き出すべきです。誰にも救いようがないですから。和田は高山隆介と前田孝志に周吾の妻がどんな人だったか説明した。飛び切りの美人で優秀な内科医で患者の評判は良くて、何より最高の夫婦でした。お互い人目ぼれ、喧嘩もないし、趣味も食べ物の好みも一諸で、あたり構わず愛し合っている夫婦でした。由布院の披露宴の話も二人にした。ノッピは料理が得意で、あの鍋の味は忘れられないし、ほんとうに羨ましい夫婦でした。蒼井さんが落ち込むのは当然です。僕らが少しでも支えてやらないといけないと思います。協和製薬の梅木さんから電話もらって、千葉先生が心配しているから、今日はよろしく頼む。そう言われて来ました。彼は今東京で研修中です。今村君も小野さんから連絡があるみたいで、太陽会病院の内科外来の看護婦さんも心配しているって。自分は予定が埋って今どうにもならないから、和田さん誘ってあげてください。もう随分前に頼まれていたんです。みんな信枝先生や蒼井さんが大好きなんです。元に戻れ、は無理でしょうが、少しでも立ち直って欲しい。みんな、そう思っています。周吾は醜態も我慢せずに泣いた。まだいくらでも泣ける。ノッピに会いたい。ノッピに会いたい。寂しいよう。ノッピ寂しいよう。声には出さずとも、ぼろぼろ涙があふれる。寂しいのだ。これから帰っても、部屋は暗いのだ。ノッピはいないのだ。いやノッピは骨壷にいる。ノッピの元に帰らなくては、ノッピは一人なんだ。周吾は立ち上がる。
 「帰る」
 そう言って出ようとする。和田昇が引き止める。
 「蒼井さん、どうしたんですか?」
 「ノッピが待っている。帰るよ。ありがとう」
 周吾はそう言って出ようとする。
 「蒼井さん、落ち着いて下さい。ノッピは亡くなったじゃないですか?」
 「いや、今部屋にいるんだ。僕を待っているから、帰らなくてはいけないんだ」
 「部屋には誰もいませんよ。もうお葬式もしたし、火葬にもしたでしょう。それに、蒼井さんの首にはノッピがいるでしょ!」
 和田昇は周吾の胸を指した。
 周吾は胸を押えた。そうだノッピだ。ノッピはいつも一緒だ。また座る。
 醜態を晒した周吾は、和田昇に送られて帰った。
 五月三一日、五月度の締め日だ。いつもより遅い帰宅となる。今日は妻の四十九日だった。家に帰り着くと電話が鳴った。出ると小菅友香だった。四十九日なのでお参りに行きたいと思って、何度も電話したが、出なかったので、これを最後だと思ってかけたら出てくれた。これから行ってもいいか、と言うことだった。周吾は仕事が月末最終日で遅くなって今戻ったばかりだが、是非お参りしてくれと頼んだ。周吾はとりあえずリビングを片付け、上着をしまい、手と顔を洗った。五分もしたかと言う頃にブザーがなった。小菅友香一人だった。
 「一人?」
 「そう、みんな待っていてくれたんです。でも遅くなって来れませんでした」
 「それは申し訳ない。月末は普段もっと遅いんだけど、今日はそれでも早かった方なんだよ。お待たせして申し訳ない」
 「いえ、お仕事なら、誰だって文句はありませんよ」
 小菅友香はそういって小さな仏壇にお参りをした。周吾は水と菓子を添えた。そして周吾もお参りをした。
 小菅友香はお参りを済ませると周吾に向き直って、
 「蒼井さん、お食事は?」
 と聞いた。
 「今帰ったばかりなんです。ドアを開けたら電話が鳴っていた」
 周吾は答えた。
 「それで、どうするお積り?」
 「どうするって?」
 「今夜の夕食は何か召し上がる予定ですか?」
 小菅友香は畳み掛けてくる。顔立ちはノッピに似ているが、性格は違うようだ。
 「いや、急にそう言われても、今帰って来たばかりで考えてもいなかったから」
 「でしょう。今から考えて、ああ面倒臭い。それでもういいや。飲んで寝よう、でしょう」
 「小菅友香は心理学者ですか」
 「ぴしゃり、ですね。最近外でご飯食べることが多いんですか?」
 周吾はメーカーの友達が心配して誘ってくれるから、時々外でご飯も食べると答えた。小菅友香は仕事が遅くなって帰る時に、この部屋の明かりがついてないことが多いのでそう思ったらしい。前より食べられるようになったか、そう尋ねられても、少しだけとしかいいようがない。今日もウイスキーにチーズとパンで済ませるつもりだったのだ。小菅友香は、私が何か作りますから食べてください、そう言った。周吾は断った。それはあまりにも申し訳ない。自分でするから、そう言ったが、じゃ何を作りますか?そう聞かれて返答に困った。ですから、遠慮しないで下さい。お姉さんに頼まれて来たんです。
 「友香、アオがまだ立ち直れていない。友香行ってあげて手伝って」
 昨日も夢に出ました。昨日はここでウイスキーを飲んでチーズを摘まんだだけでしょう。周吾はびっくりした。まさにその通りなのだ。ノッピはここに来て周吾を見ているのか。それならなぜ周吾の前に出てくれないのだ。周吾はがっくり頭を下げた。
 小菅友香がキッチンに立っている間、周吾は風呂に入った。ゆっくり浸かって出ると、キッチンに背中を見せたノッピがいた。ピンクのエプロンをつけた。楽しそうなノッピだ。
 「ノッピ」
 周吾はつい声を出した。ノッピは振り返った。が振り返ったのは小菅友香だった。周吾は、
 「あ、」
 と言って
 「ごめん、びっくりさせてしまったね。ノッピがいるはずないよね。でも似てた」
 「おねえさん、このエプロン持っていたでしょう。私と一緒に買ったの。でも少し違うのよ。私は胸のプリントがお花なんだけど。お姉さんは雲なの。なぜかわかる?お姉さんはね、私はアオの空に楽しく浮かぶ雲なの、そう言ってたの」
 周吾は寝室にいって妻の箪笥の中からエプロンを取出してきた。小菅友香と並べて見る。ほんとだった。ノッピの雲だ。白い優しそうなふわふわした雲だ。色も形も一緒の、ほんとうの姉妹のようだ。このエプロンを妻がしている時、周吾はたまらなくかわいいと思った。見とれてしまって、どうしたのって、聞かれたことがあった。それだけ妻はかわいかった。ピンクの雲のエプロンが特に似合った。周吾の大好きなノッピだった。周吾は小菅友香にその気持ちを話した。いつでもどんな時でもノッピは大好きだったが、このピンクの雲のエプロンは周吾には特別お気に入りだった。だからつい間違えてすまないと言った。小菅友香は意外な言葉を返した。
 「間違えてもいいのに、私をお姉さんだと思って、ご飯を食べてくれたら、嬉しいです。お姉さんのお役に立てるから」
 周吾は困ってしまった。返事のしようがない。いくら似ているとは言っても、妻は妻だし、小菅友香は別人だ。周吾は、ありがとう、と言ってエプロンをしまった。周吾は小菅友香の作ったご飯を食べた。無理して食べた。周吾の前にピンクのエプロンのノッピがいて、周吾を見ているようだった。妻を亡くしてこれほど食べたのは初めてだった。軽い量だったにしても、一食完食したのは、そうだ五十日ぶりになる。周吾は小菅友香にお礼を言った。友香も嬉しそうだった。後片付けを一緒にして、お茶を二人で飲む。周吾はもう夢の中に出てきてくれと、小菅友香に頼まないことにした。人に内証にした方がいいのではと、ふと思ったからだ。それに周吾はとんでもないことを考えた。ノッピが小菅友香に変ったのではないか。まさか。同じところで、医者と看護婦で働いていたと言うし、姉妹のような関係だったと言うじゃないか。でもあのエプロン姿は信じられないほど似ていた。
 友香は千葉先生が妊娠したと言った。もう確実にわかったことだとも言った。小村樹里の婚約も近いらしい。小野智美は毎週毎週デートばかりしているし、相手は蒼井さんのお弟子さんだって、そんな話をした。たわいもない話に楽しくなり、気がついたら周吾はウイスキーも飲んでいないのに気づいた。
 「友香さんのお陰で、僕は今日始めて夕ご飯を完食したし、ウイスキーも飲まなかったし、ほんとうに美味しいご飯をありがとう」
そう頭を下げた。
 「ほんと、そうね。飲まないで済んだのよね。良かった。お姉さん喜ぶわ」
 周吾は友香に、お参り客用に買ってあるコーヒーとジュースがいっぱいあるので半分持たせた。そしてそれを周吾が抱えて送っていった。ほんとうに直ぐ近くだった。友香のアパートの前でもう一度お礼を言って帰って来た。

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