見出し画像

青の彷徨 後編 13

 周吾はその翌日も、その翌日も、どこに行くこともなく、部屋の中でノッピと過ごした。顔は酒量が過ぎて青白く、胃はまた小さくなっていた。秋はノッピが恋しくて恋しくてどうにもならない。苦しい。そうわかっていてもどうにもならない。重い気持ちと、ふらつく足取りで月曜日の朝、仕事に出かけた。
 また一週間が過ぎた。仕事は集中して何とかこなすが意欲がない。成績は上がらない。消化するのがいっぱいだ。このままじゃだめだ。そう思うが、どうにもならない。ノッピ、ノッピと夜は叫ぶ。先週と同じように、酒を浴びる週末になった。
 また月曜日が来た。周吾は気力を振り絞って行く。また体重が落ちた。ズボンが直ぐ落ちる。
 火曜日の朝、今村裕史が周吾の机の隣に丸椅子を持って来て座った。仕事ではもう縁がないのに、何か魂胆があるな、周吾はそう思った。
 「師匠、また痩せたじゃないですか、今晩付き合ってください」
 「ああ・・」
 「だめです、今日は絶対付き合ってもらいます。いいですね、勝手に帰ったらだめです」
 今村裕史は他の今村敏隆課長や初村謙二などびっくりするのを見て、頭を下げ出て行った。今村裕史は何を怒っているのか。周吾は自分が怒られるようなことはしていないはずなのに、と思っている。
 夕方、外まわりの仕事から会社に戻ると、もう今村裕史が周吾の机の隣で待っている。今日は早めに仕事を切上げているな、周吾はそう思った。
 今村裕史にタクシーに乗せられ都町の座敷に上げられた。そこには小野智美と小菅友香がいた。周吾はびっくりした。
 「どうしたの、みんな揃って?」
 周吾はそう聞いた。
 「師匠、どうもこうもないでしょう。友香さんが困っていますよ。このままほっとく気ですか?」
 今村裕史が言った。周吾は友香を見る。友香は周吾を見て泣いている。ぼろぼろ涙をこぼしている。
 「友香ちゃん、どうした?何かあったの?」
 周吾は友香にそう聞く。
 「師匠、何かあったかは、こっちが聞きたいです。この二週間。どうしたんですか?友香さんを無視して、またご飯も食べていないでしょ。痩せ具合を見ればわかります。どうしたんですか?またノッピさんの夢を追っているんですか?師匠」
 今村裕史に問い詰められる。
 そうなのだ。その通りなのだ。でも友香を無視したつもりはない。それは言い過ぎだ。周吾はそう反論した。
 「蒼井さん、友香さんは夜何度もマンションに行ってブザーを押そうとしたんです。でも静かで音もしない。耳を立てると何か一人で喋っているみたいで、泣き声が聞こえたりするんです。それでブザーも押せないで帰って来たんです。何度も、何度も」
 小野智美が言った。
 「師匠、もうノッピさんはいなんです。わかっているでしょ。友香さんがどれだけ苦しいか、知っているでしょう」
今村裕史は周吾に迫る。周吾は黙っている。自分の世界に戻りたい。ノッピと一人の部屋がいい。落ち着いて話ができる。
 「蒼井さん、顔色が悪いみたいです。どこか悪いじゃないですか?」
 小野智美が周吾に聞いてくる。
 「どこも悪くない。僕は元気だ。仕事も行っている」
 周吾は答える。
 「友香さんをどうしてほっとくんですか?」
 小野智美がまた聞く。
 「そんな覚えはない。友香ちゃんとは色々と行ってるし、ついこの前も国東に行った。別に何もないよ。僕も仕事あるし。友香ちゃんだって仕事あるから」
 周吾はそう言う。そこに、和田昇と梅木康治が一緒にやって来た。周吾はびっくりした。
 「和田さんに梅ちゃん、どうしたの?」
周吾は驚いてそう言った。
 「蒼井さん、みんなまた心配して、前に戻っているって、そう言ってましたよ」
 和田昇がそう言う。
 「要は、ぶり返しでしょ。これはもう、活を入れないと」
 梅木康治はそう言った。
「ぼくは、みんなに心配かけるようなことをしているつもりはないのに」
 周吾はそう言う。
 「師匠、この二週間、ご飯食べていましたか?」
 今村裕史が言う。
 「朝は食べられない。昼は高山隆介と前田孝志が週一度か二度集まるから、サンドイッチを少し食べるし」
 周吾が説明する。
 「夜は?」
 周吾の弟子が尋問する。
 「・・・」
 周吾はそうだ、まともに食べていない、そう思った。
 「食べていないでしょ。酒飲んで、チーズかなんか摘まむだけでしょ」
 弟子は怖い。
 「友香さんは師匠が会社に行く姿とか、帰ってくる姿とか、見ているんです。ゴミ出しに出すのも、ウイスキーの空瓶だけでしょ」
 弟子はまだたたみかける。
 「友香さんをなぜ遠ざけるのです?あれだけ師匠に立ち直って欲しいと尽くしているじゃないですか」
 怖い弟子を持ったものだ。
 「師匠、友香さんが師匠のところに行きたいと言うのを断ったそうじゃないですか。どうしてですか?」
 「そんなことはないと思うよ。友香ちゃんには、助けてもらったから、それで今生きていられる」
 「そうです。友香さんのお陰なんです。師匠が今こうしているのも、友香さんのお陰なんです。でも師匠は断っています。ほっといてくれ、って。覚えていますか?」
 「そんなことあったか?」
 周吾は友香に聞く。
 「ありました。十月二六日です」
 友香が言った。周吾はその日付を聞いて思い出した。その日は特別なんだ。その日から周吾はノッピに戻ったのだ。
 「蒼井さん、思い出しましたか?」
 和田昇が言った。周吾ははっきり思い出した。あれから友香も連絡してくれないのだ。すっかり友香を忘れている。二週間か。半月でもある。友香は仕事の行き帰りに周吾の部屋を見ているはずだ。どんな思いをしていたか、すっかり忘れていた。
 「ああ、思い出した。僕はあの日相当飲んでいた。十月二六日はね、友香ちゃんごめんよ。友香はとっても好きだよ。でもその日はまだ、絶対に忘れられない日なんだ。ほんとうにごめん。二年前のその日に、僕は初めてあの部屋に行って、初めてノッピと心も体も確かめあったんだ。仕事で遅くなって帰って来て、カレンダーを見て思い出した。それからはもう覚えていない。友香ちゃんには悪いことをした。あの日はどうしてもノッピと一緒にいたかった。二年前も万丈から一緒に来たから、遅い時間になった。だから余計に思い出して、ごめん、邪魔されたくなかった。友香が悪いんじゃない。まだ、どうしてもノッピが恋しくて寂しい。僕は友香ちゃんを利用しているだけじゃないかって。酷く悪いことをしているようで、とてもじゃないけど、僕から友香ちゃんに連絡できない。まだ無理だよ。友香ちゃん、今まで利用したみたいでごめん、ほんとうに悪かった。僕は友香ちゃんの気持ちを利用してたんだよ。ごめんなさい」
 周吾は友香に謝った。
 みんな言葉もない。
 「これはまだ重症です。小菅さん、重病人のうわごとは本気にしない方がいい。熱が冷めたらまた気がつきます。今はどうしたら熱が下るか、みんなで水かけるしかないですね」
 梅木康治がそう言った。
 「そうです。梅木さんの診断は正しいです。うわごとの世界には生きていられませんから、時間が経てばよくなるでしょうが、そうのんびりもできません。何とかしないと」
 和田昇が言った。
 「そうです。まず食事です。今日はその食事で来てもらったんですから、師匠、食事をしないから、いつまでも夢の中にいるんです。しっかり食べてください」
 みんな食事を始める。周吾はやはり少ししか食べられない。元に戻っている。友香はそんな周吾を見ていた。周吾は友香に、
 「時間ができたら服持って行ってよ。鍵ももう一つあるから、これ渡しとくよ。友香ちゃんのいい時に、もう冬物もいいんじゃないか。友香ちゃんところも少し置ける場所ができれば、全部もって行ってもいけど。少しずつでも、どっちでもいいよ。好きにして。僕もいつまでも持っているのはおかしいと思っている。もらってくれるのも友香ちゃんしかいない。だから鍵あげとくから」
 周吾はそう言って友香に鍵を一つ渡した。友香は黙って受け取った。小野智美はこれを見て微笑んだ。和田昇も友香に目配せをしている。
 その日周吾は酒を勧められることもなく、食事を少ししただけで、ほとんど友達から、しっかりしろ、立ち直れ、友香を大事にしろ、など注文をつけられた。
 翌日仕事を遅く終えて帰ると、ダイニングのテーブルにご飯の用意がされてあった。白いご飯が炊かれ、つみれ汁は温めるように、煮物はレンジを使えばいいように揃えて、メモがおいてあった。友香だ。
 「お姉さんのお洋服少し頂きました。温めて召し上がってください。友香七時三〇」
 とあった。七時半にここを出たのだ。周吾は友香の作ってくれたご飯を食べた。美味しかった。少し残ったので、冷蔵庫に入れた。風呂に入って、どうしようか考え、結局電話もかけず、ウイスキーも飲まず寝た。
 次の日周吾は早めに仕事を終え帰って来た。友香は居なかった。周吾は昨日の残りを温めて残さず食べた。酒は飲まなかった。
 次の日周吾はまた早めに仕事を終えて帰って来た。まだ七時前だった。友香が居た。友香はピンクの雲のエプロンをしていた。周吾が大好きなピンクのエプロンだ。愛しくてたまらなくなるノッピがそこにいたのだ。
 「ノッピ」
 周吾はそう言うやノッピに抱きついた。抱きしめる。ただ抱きしめる。そして目を見る。友香だ。
 「友香」
 「私ノッピでいいの」
 友香はそう言ってキスをして来た。
 周吾はもう抑制できなくなっていた。友香をベッドに運び、エプロンを外す。ブラウスを脱がせる。胸を包むブラジャーを外す。スカートのホックも外す。あくまで優しく。大事なノッピと合体する。久しぶりのセックスだ。興奮して二人同時に達した。放心から戻って周吾は、友香を見出す。
 「友香」
 周吾は友香を抱きしめる。
 「友香、ごめんよ、友香は大好きだよ。まだ錯綜しているけど、友香はとっても大事だ」
 「私、ノッピでもいいの。あなたが生きて立ち直ってくれるなら、私はノッピでも友香でもいい。私は急ぎ過ぎたと思った。あなたの食欲が戻って、お姉さんと一緒のところに行っても大丈夫にみえたから。でも私がきつかった。やっぱりお姉さんはなれない。私じゃ無理かしら。そう思ったの。それで落ち込んで、何度も来たけど。一週間連絡もしないで、それで心配でたまらなくなったから、行こうと勇気を出して電話したら・・・」
 「友香、ごめんよ。ほっといてくれ、なんて。よく覚えていないが、そう言ったんだ。あの時はおかしかった。自分でもわからなかった。僕も国東から帰って、友香を助けないといけない、そう思った。でも、どうすることもできないとも思った。僕は友香を利用しているだけみたいだから。こんな、心の中にはまだ死んだ妻がいっぱい詰まっている。ご飯とセックスだけじゃ、友香にすまない。でも友香はとっても大事だよ。それもわかっている。友香がいないとどうなるかもわかっている。僕は周吾という名前だ。一人でまわっている。毎日彷徨ながらもがいている。よくなったり落ち込んだりしながら、いつか友香にお返しをしないといけない。それはわかっている。毎日真っ赤になりながらもがいている。でもまだ苦しい」
「私はいいのよ。あなたのほんとうの気持ちがわかるから。いつか立ち直ってくれる。それまで私は戦争中なの。それを忘れてしまおうとした。私に罰がくだったの。だから私はノッピでいいし。友香でもいい。大事なのはこういう時間が過ぎることだとわかったの。お姉さんとは二年でしょ。私もまだ半年。追いつきたい。まずお姉さんに追いつきたい。そう考えたの」
 周吾は友香が愛しくなった。そこまでひたむきになぜ自分を支えようとしてくれるのだろう。
 「友香、友香はとっても愛しい。かわいい。矛盾してるかも知れないけど、友香を大事にしたい。愛したいと思う。でも友香はどうして僕にそこまでしてくれるの?そんなに魅力ある男じゃないと思うけど」
 「わからない。あなたはお姉さんをいっぱい愛していたわ。お姉さんもだけど。とても羨ましかった。誰かを真剣に愛することに徹していることは、その人の人格だし人間性だし魅力だと思うの。あなたはだから間違いない人だと思う。いつか私がお姉さんの代わりになる。そうなりたい。あなたが苦労しているのは、それまであなたが真剣にお姉さんを愛していたからだわ。だからいま苦しんでいるの。私を私として見て愛して欲しい。私をお姉さんと同じように真剣に愛して欲しい。あなたの、お姉さんへの愛が深い分、浮き上がるのに時間がかかる。私は待つ。もう何があっても待つわ」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?