新六郷物語 第六章 二

 満座の席で主君から武功を褒められ、格別の褒賞をいただいたにも関わらず、隆村の心は晴れなかった。父影平久蔵が、隆村の褒賞によって影平家が新たに興されることは、大変な名誉であると言って、親族を呼び宴席を張った。隆村も止む無く家に戻る。諍いの絶えなかった義母も満面の笑みを浮かべて隆村を迎えた。親族の者からは、嫁取りの話が出て、自薦他薦がされた。父は、家を興すのに妻帯が条件だから、できるだけ早く嫁を決めるよう強く勧めた。隆村は、まだその気は全くないと断った。
 戦以来の雑事が終り、一日暇を貰うと、隆村は褒賞の馬に乗って、安岐に向かった。剣の修業で四年いた伯父の家である。伯父の首級は許しを得てすでに届けてあったが、墓前に参り、遺族に詫びなければならないと思っていた。
 同じ家に住み、同じものを四年も一緒に食べた者が、戦で交えることになった。隆村は伯父を救わねばならぬと思いみかたを蹴飛ばした。伯父を見ると、首の後ろにみかたの剣が突き刺されている。隆村は、怒りに任せて剣をそのみかたの胸に突き刺したのだ。伯父の首を渡すわけには訳にはいかなかったが、みかたに剣を刺したのは明らかに軍命に反する行為であった。古傷の痛みに似て、隆村もあの時のことをふと思い出してしまう。
 倒れた伯父に剣をつきたてたのは、隆村の知らない男で、大友義統配下の者と思われた。隆村はその男に止めをしなければと思った時に、後ろから足音が聞こえたので止めた。伯父に声をかけたがもう息はなかった。大事に思う人を目の前で失う悲しみに浸る暇も無かった。まず大将の首級を落とした。次に、人に渡す訳にはいかない思いで伯父の首級を落としたのだ。隆村が涙にくれながら伯父の首を落としていると、
 「兄上、兄上」
 と叫ぶ声が聞こえた。隆村が剣を突き刺した男に取り付き、必死に叫ぶ。胸から血を噴出している男は助からないだろう。目を見開いて必死に何か伝えようとしているのが見えるが、声を出そうとすると、血の噴出しが激しくなり、顔は青ざめていく。言葉になっているのか、ならないのかわからなかった。
 安岐の伯父の家に入ると、四年も居たにも関わらず、全く違う雰囲気があった。敵みかたで交えた事実はそのまま壁になっていた。仏間に入って頭を下げ、やがて伯母や従兄弟の前に座って挨拶をしても、型に嵌った言葉が交わされるだけになった。隆村が、伯父の最後の様子を説明しても、遺族は何の質問もせず黙っているだけだった。隆村は出されたお茶を一杯飲むと、伯父の家を出た。後ろで、塩でも蒔かれそうな雰囲気だった。こんなはずではなかた。ここで剣を学び、任務を得て初めての戦で大手柄を立てた。その恩恵は、自分を支援してくれた伯父にも与えられるはずなのに、恩恵どころか不幸を与えてしまった。自ら殺害したのではないもの、助けられなかたことと、隆村の手配によって首級が届けられたことが、逆に疑念を生じ、僻みを生み出したかもしれない。
 隆村は、父が親族を呼んで隆村の戦功を祝うと言った時、伯父の死をあげて諌めたが、父は、兄は敵の家のことであり関知するべきではないと、言ったのだ。
 「この祝宴は、武蔵田原家に仕える家の任務なのだ。主君に改めて褒賞をいただいた感謝の意を表すに必要なことである。親族を呼ぶのは、影平家の今後に益々協力してもらわねばならぬからであり、親族の中に武功第一の者を出した喜びを享受してもらう必要がある。そのことが一族の栄誉であり利益に供することになるのだ。裏では兄の死は当然悲しい。これは事実であり、武家の矛盾でもある。しかし、それを前面に出していては、表である武蔵田原家に仕える重臣としての影平家は立ち行かなくなるのだ。一家の主となる者は肝に留め置かなければならない」
 隆村は、六坊弥平が、
 「隆村、人は一人では生きていけない。周りの人をお大事に、それがいずれ隆村を助けてくれる」
 そう言ってくれたことを思い出していた。父は、周りの人を大事にしようと、親族を呼んで宴席を張った。でも安岐の家も父の実家ではないか。そこは大事にしなくていいのか。実の兄を亡くしたのに、父は弔問にも行っていない。武家の家の、一旦敵とみかたになってしまえば、もう過去の絆は取り戻せないのか。藤本家とも、六坊家とも通い合うことはできないのか。隆村は自分の拠り所としていたところを一挙に失ったのだと思った。純平はどうしているか。あの時、燃える本堂にはいなかった。純平は無事でいるはずだ。父母の死を知っただろう。武蔵田原家の手勢が放火したことも知っただろう。隆村は、純平に対しても、父母の死へ自分が間接的にでも関わったことで、返しきれない負目を抱えている。会う人は挨拶を交わす度に武功を褒める。その度に隆村は謙遜して礼を言う。繰返すほど寂しさを募らせていく。生まれた家はもう形式だけの家であり、団欒もなければ母の匂いもない。六坊にはもう弥平も仙もいない。安岐には伯父が鬼籍に入って家がまるで変った。妻帯すれば家を興せるが、父が言うように武家の当主となれば外面を気張らなければならない。自分が安堵できる場所になるとは思えなかった。武功などあげなければ良かった。例え、安岐の伯父も藤本の叔父も助けられなかったとしても、これほどのことにはならなかったかもしれない。
 春になり主君の供で府内にやって来た。府内には武蔵田原家の屋敷がある。府内にはしばらく留まるのがいつものことである。隆村は早朝屋敷を出ると大分川まで走り、木刀を振って剣の修業をするのを日課とした。まだ夜が明けない内に出て、日が登る前には戻るのである。
 ある朝、いつものように屋敷を出て川に向かうと、道沿いに立ち並ぶ数軒先の屋敷の一角から、暁闇に白煙が上り、白煙を映し出す赤い点照が出たのが見えた。隆村は走った。近づくと赤い点照は、勢いを増した炎となって塀の向こうの家から立ち上っている。隆村は、
 「火事だ。火事だ」
 と叫びながら、門を叩くが閉まっている。止む無く塀を乗り越え中に入ると、逃亡のためと救援のために門を開く。火の出ている本館へ向かう。長屋から老人の男が一人出て来て、
 「篠様が、篠様があの中におります。どうか助けてあげて下さい」
 隆村に縋ってきた。本館は屋根一面に火が広がり、いまにも崩れ落ちそうであった。隆村は、老人に篠という人がいる部屋の場所を聞きながら、井戸に行って水を頭からかぶると、躊躇せずに走り込んだ。障子を開け、襖を開けて、幾つか部屋を過ぎて行く。煙が立ち込め、熱の壁が立ちはだかるようになった先に、白い蒲団が見えた。隆村は呼吸を止めて蒲団を剥ぎ、横たわる女を抱きかかえて走る。ばりばり燃え盛る音がする。蒲団の部屋を出ると、後ろから梁から崩れていく。家が崩れるのが早いか、外に飛び出すのが早いか。熱くて呼吸もできない。隆村は庭に飛び出すと、やっと酸素を吸い込む。どっと屋根が落ちるのが聞こえる。隆村はその音を聞きながら、さらに井戸端まで走る。井戸端に女を下すと、水を汲み上げ自分と女にかけた。老人が走って来て、
 「篠様、篠様」
 と女の肩に手をかけながら呼んだ。隆村は、女の体は熱かったが、死んではいないと思った。水をかけた時、火の粉を浴びた痕もなかた。煙を吸っているかもしれないが、蒲団のある場所はまだ大丈夫だと思った。
 「正吉」
 押し出すように声が漏れた。
 「篠様」
 老人は涙を零しながら頭を下げる。肩を震わせて泣いている。
 「正吉」
 「申し訳ありません。申し訳ありません。火を出してしまいました。申し訳ありません」
 正吉老人はひたすら詫び続けた。
 「命あってのことじゃ。無事でよい」
 篠は気がつくと、隆村に助けてもらった礼を言った。その時にはもう大勢の人が屋敷に入り、飛び火を防ごうと必死に働いていた。隆村はそのまま館に戻った。着替えをしなければどうにもならなかった。助けた篠という人は、母に面影が似ているように見えた。年は隆村より上か。火を見ると母を必ず思い出す。遣り残したことがいつまで経っても消えないように、篠を助けたのも、あの時のことがあったから、何の躊躇いもなく火の中に飛び込んだのかもしれない。
 数日経って、府内の武蔵田原家に来客があった。安東篠が一人で、田原紹忍にお礼に来たのだ。田原紹忍は影平隆村が火事騒ぎの中、人助けをしていたとは聞いていなかったので、間違いではないかと疑ったが、念のため本人を呼び、同席の上確認させたが本当のことであった。紹忍は隆村が早朝剣の修行で川まで行くのを知っているので、納得した。人命が無事で何よりと言って、見舞いを言った。安東篠は、大友義統配下の安東正勝夫人で、夫は先の田原本家との戦で、安岐城で討ち死にした。安東家は弟の義勝が継ぐことに決まり、篠は子を産めなかったので、一旦実家の小野家に戻り、小野家から臼杵の館に奥方付きの女中として奉公にあがる話になっている。臼杵の奥方は田原紹忍の妹である。思いもかけないところで縁があるものだと双方感心もした。火事の始末と荷物の整理がつけば、小野家に戻るのは形式だけで、そのまま臼杵へ行かなければならない。本来なら、もう行っている予定だったが、火事のために延ばしてもらった。あの屋敷もお返しすることになっていたので、使用人も他へ職を探し、最後の正吉だけになっていたのだった。大殿義統様には、火事が他家へ類焼することなく鎮火したこと、安岐城攻めで安東正勝を失ったことから、全て不問にしていただいた。大殿義統様の配下では、安東正勝に勝る武将はいなかったのに、討ち死にすることが不思議で、残念でならない。そう言葉をかけていただいた。安東篠は田原紹忍主従を前にそう話をした。そして、影平隆村に是非お礼をしたいので、一席設けたい。田原紹忍様のお許しを頂きたい。と頭をさげた。田原紹忍は隆村に、遠慮せず招かれるがよい、と言った。隆村は、気持ちだけで十分ですと、断ったが、安東篠に再び誘われ、田原紹忍に背を押されて了承した。
 その次の日、隆村は安東家を尋ねた。奥まった所にある長屋の前には、辛夷の木があり、白い花を咲かせていた。火事の時はまだ明け方で、花を見るような余裕は無かった。本館は全焼したが、長屋も立木も無事に残っていた。隆村は長屋の一室に招かれた。そこは八畳の部屋で、真ん中に炉がきってあり、炭が熾されて鍋がかけられていた。正吉はいなかった。すでに暇を取らせていた。
 「この屋敷も今日を最後に去ることになりました。何としてもお礼がしたかったのです。わたしができる精一杯のおもてなしがこのような場所で申し訳ありませんが、何卒お寛ぎ下さい」
 篠はそう言った。炉端に全て材料が揃えてあった。鍋は海鮮鍋で、野菜に鯛の切り身や蛤がたっぷり入れられ、柚子の利いた酢醤油につけて食べる。絶品の味だった。酒は炉辺で燗をして勧められる。篠も飲める口のようで、隆村が勧めると、そんなには、と言いながらも杯を空ける。
 隆村は、美味しい、美味しいと言って食べた。六坊弥平の家で、炉辺を囲んで食べたことを思い出した。あの時もいまのような季節だった。辛夷の白い花が誇らしく咲いていた。炉辺に座ると、あの時を思い出す。安心できる雰囲気がある。隆村は初めての家に、殆ど初対面のしかも女を前に、最初こそ緊張していたが、篠が話上手で、いつの間にか、母が火事で死んだことや、父が直ぐに子連れの後妻を入れたこと。家に落ち着けず悪さを働いたこと。安岐で剣の修行をして小姓になり、いまは近習でいることまで話してしまった。篠は、時に涙を見せながら隆村の心情を掬い取るように頷き、母を早くに亡くした生い立ちを労わってくれた。隆村はこれほど酒を飲んだことが無かった。実家で親族を集めて隆村の武功を祝う宴席が張られ、その場で飲んだのが初めてで、それも自分が気乗りしない宴席もあって酒は控えていた。安岐の伯父の家では、時々勧められたが、修行中で尚且つ客人であった。武蔵の今市城や妙見岳城では尚更である。お呼びがあった時、酒を飲んでいたのではどうにもならない。隆村は酒が美味しいと初めて思った。酒が美味しいのは、料理も雰囲気もいいからだ。初めて話をするのに、篠はまるで母か姉のように、隆村を世話してくれたのである。
 隆村にとっては遠慮のない初めての酒席であった。いつの間にか飲み過ぎていた。それでも篠が労わってくれ、気がついたらその場に横になってしまった。隆村は眠ってしまった。夢の中で、母のような優しい面立ちで、姉のような女性に抱きすくめられていた。女のいい香がした。乳房の弾力を感じた。夢の中だと思った。姉のような女性は隆村の隣に横になっていて、隆村の帯を外し、着物を開き胸に顔を押しつけてくる。隆村は女の口の動きに、夢の豊潤さに酔った。女は自分の着物の帯をいつの間にか外し、前をはだけて乳房を隆村の胸に押しつけてくる。女の口は隆村の口に塞がれ、舌が更なる陶酔をかき回した。女の手は隆村の下帯に伸び、下帯の下から男の象徴を手に取られた。隆村の象徴はしっかりいきり立ち、ついに女の口にくわえられた。隆村は夢を喜んだ。声を漏らしてさらに夢に酔った。いつの間にか女は隆村の上に跨り、隆村の硬く屹立したのを自分の体内に取り込んだ。隆村は声を上げ、目を見開いた。優しい人が自分と繋がっている。夢の中で生きている喜びを感じている。豊かな乳房が揺れている。女の腰が動くたびに隆村の快感が高ぶる。隆村は体をおこし、篠を抱きすくめると、そのまま押し倒し、自分が上になって腰を激しく動かした。篠は、隆村の背に抱きつき、顔を揺らしながら腰を連動させ、体をよじって声をあげる。隆村はついに、夢の中で戦絡みの積憤から解放される喜びを発散した。篠は大きな声をあげ体を痙攣させると、静かになった。隆村は喜びを出し尽くすと篠の隣に横になった。息を整えながら満たされた時間を感じた。しばらくお互いの呼吸を聞く。篠が隆村の胸に顔をつけてきた。隆村は、夢が現実であったことを知った。
 「篠さん」
 「いいのよ。よかった。嬉しかった。ありがとう」
 隆村は篠の背中に手を回して優しく抱き寄せると、また酔いが回ってきた。いい時間を大事にしたい。篠も眠って、隆村もまた眠ってしまう。
 どのくらい寝たか、炉の火がすっかり落ちた頃、篠が起きて、炉に炭をくべ、隆村の隣にまた横になった。隆村は篠が一旦離れ、また側に来たことを無意識に感じて、篠を抱き寄せる。柔和な香の優しい感触が堪らない。篠の尻を引き寄せ撫でる。篠の声が漏れる。胸に手を当てる。また篠の声が漏れる。炭の火が勢いを増してくるのと同じように、二人は再び燃え盛り繋がった。前より長く強く。別れを惜しむように離れがたく、しかし別れる前に絶頂は来たのだ。
 「篠さん」
 「ありがとう。嬉しかった。私は助けてもらったことは忘れないけど、あなたは私のことを忘れてね。あなたのためです。もう逢えないから」
 隆村は初めて女人と交わった。夢のような一夜が明けて、そのまま川に走って剣を振った。汗を流して館に帰った。酒がまだ残っていて頭が痛かった。

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