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青の彷徨 後編 7

 協和製薬の梅木康治が会社にいる周吾の側に来た。研修は長くて辛かったがやっと開放された。蒼井さんはどうか、まだ寂しいか、と聞いて来た。周吾は大分慣れてきたが、どうしようもなく寂しくて落ち込んだり泣いたりすることがあると正直に話した。梅ちゃんは意外なことを言った。高校の同級生で親友だったのが、火事で亡くなった。奥さんと子供を三人残して、地元の消防に入っていた。みんなを救出し自分は最後の見回りに行ったきり戻って来れなかった。見つかった時はもう息がなかった。積る話もあって、夕食を一緒にすることにした。
 夜、城の近くにある小料理屋で落ち合う。梅木康治はもう来ていた。二人で乾杯する。周吾はビールを一杯飲めた。今までこれが飲めなかった。四十九日の日に、小菅友香が来て夕食を作ってくれてから、確実に食が進むようになった。その日はいくつか小皿料理を食べ、日本酒を飲んだ。梅ちゃんは友達の死が残念でならないと言う。いい男だった。裏表が全くない、竹を割ったような性格で誰からも好かれた。頭も良かったのに、地元に戻って農業を継いだ。長崎を守っていく。そういった男が人を守って自分は死んだ。結婚して子供も三人、一姫二太郎だった。毎年家族写真の年賀状が来た。来年から来ないと思うと寂しい。それにあの奥さんは、夫の実家に嫁に行って、子供三人抱えてこれからどうするのだろう。ずっといるのだろうか。それとも、子供を連れて家を出るのだろうか。自分が心配することではないが、気になる。友達も後を考えたら死にきれないに違いない。蒼井さんもそうだけど、この世には、予測できないことが突然起きる。いいことも悪いことも。そのたびに人は振り回されて、それでも生きていかなければならない。
 梅ちゃんは、自分の家庭は円満ではない。夫婦喧嘩はいつもやっている。それでも子供二人抱えて僕も必死で働き、女房は悪戦苦闘して子育てをしている。どっちかが放り出したら子供がかわいそうだから、二人とも我慢している。でも我慢には限界がある。いつ壊れるかわからない。それに三人目が出来る。それはまた夫婦仲が悪いのには早いじゃないか。周吾は皮肉を言った。そうなんだ。夜も一緒に寝てもらえない。僕の鼾が酷いからだ。蒼井さん、僕は何のために生きているのか。家に帰って口を開けば直ぐ喧嘩になる。
 デフレスパイラルみたいだと周吾は言った。悪いように思えば悪くなる。僕とノッピは喧嘩などしたことが無かった。一緒にいるのが楽しくて、二人でいるとテレビも消していたし、話は尽きなかった。僕はノッピの全部が大好きで、どうすればノッピが喜んでくれるか、楽しんでくれるかを思っていたし、ノッピは僕の嬉しいことばかりしてくれる。もう側にいて触れ合うだけでも天国だった。だからそんな夫婦関係は信じられない。もうすこしいいところばかり見たらどうだろう。二人が結婚した時は、いい所と言うか、自分の良いようにしか見なかったのだから、その結果責任は自分にある。責任は全うしないといけないし、子供に転化してはならない。梅ちゃん、あきらめて見るのも方法かも知れないよ。喧嘩を売られても買わない。方目を閉じてみる。もう悪いことを見る目は開けないようにする。いいことや子供のすることには感動する。単純がいいかもしれない。
 僕はまだ寂しくて寂しくてどうしようもない時がある。すごく落ち込んで死んでしまいたくなる。でもそれはノッピが望んでいない。だから我慢している。僕は今何のために生きているのだろう。そう思う。毎日毎日寂しい思いに苦しんで、悲しんで、仕事なんかしたくもないのに、そんな気持ちを隠して働いている。表面はにこにこしながら心はいつも大泣きのままだ。情けないだろう。もう直ぐニヶ月になろうというのに、全然変らない。最近やっとご飯を食べられるようになって来た。毎晩骨壷を抱いて寝てるんだ。おかしいだろう。周吾は涙をこぼす。梅ちゃんには四人もいるんだ。僕にはもう誰もいない。僕が死んだら、ノッピの思い出も死んでしまうから、必死で生きている。苦しい思いをすることがノッピを救えるように思えてきて、最近は苦しいのに快楽を感じることもある。ドストエフスキーみたいで変だろう。 
 アオ!ノッピのアオ!それでいい。苦しめばいい。苦しんでもう二ヶ月経った。今夜も明日も苦しんで、もう一日もう一日と耐える。これがノッピへ、アオの愛だよ。そんな声がどこからかするように思う。
 梅木康治はキョーシンの和田昇に蒼井援助資金の残りを託されているからと言って周吾に支払いをさせなかった。万丈北山病院の薬局も蒼井さんのことを心配していました。そう言ってくれた。周吾は和田昇と一緒にご飯を食べた後、万丈の野崎先生や森山先生には礼状を送った。梅木康治はやっと長い研修から戻ってきたばかりだから、万丈の開業医の最近も話は知らない。それでも和田昇に経緯は聞いているようで、今日のことは今村裕史や和田昇にも伝えるからと言った。周吾は周吾の友達同士が仲良くなるのは嬉かったが、原因が周吾の情けない状態から来ているので複雑だった。でも少しはいいように進んでいると思っていた。
 暑い夏になった。学校の夏休みが近づいた頃、周吾が会社の机で夕方の事務整理をしていると、大日製薬の北島潤一がやって来た。彼は万丈北山病院で一緒に仕事をしたし、妻の葬儀にも来てくれた。周吾が大分の二部一課に来てからは一緒に仕事をすることはなかった。北島潤一は太陽会病院を担当していた。彼は今度太陽会病院の薬局と内科を誘って万丈の海に行く話になっている。メンバーは薬局が宮沢麻美、小野智美、田原茉里、内科が小村樹里、小菅友香、湊紀子の六人に、大日製薬から北島潤一と今村裕史が加わり、蒼井さんに是非入って欲しいという話になっている。一緒に行きましょう。ついでに万丈はどこの海がいいか。蒼井さんなら知っているでしょう。そんな話だった。周吾は参加すると言った。随分お世話になっている方々だった。海は波当津がいい。あの海はこの世界にはないくらい美しいから、すすめるとしたら波当津だ。北島は民宿で一泊して、海と魚と花火を楽しみましょう、そう言った。もう少し男がいないか、というので、荷物運びに周吾の隣の二人を紹介した。北島も賛成し、高山隆介も前田孝志の二人も、是非是非きれいなお姉さんに近づきたいからと言う邪な理由で積極的に賛成した。
 翌日夕方北島潤一がやって来て、民宿は予約できた。随分安く収まるのでびっくりした。あと車と、荷物を運ぶ人員と配車だが、ということで、周吾もスカイラインを出すことになった。乗せるのは内科外来の小村樹里、小菅友香、湊紀子の三人だ。
 北島潤一は薬局の宮沢麻美、田原茉里の二人を乗せる。荷物も載せる。今村裕史は小野智美と二人で行くことになった。
 高山隆介と前田孝志は高山の車に荷物を積んで二人で行く。これでどうか、だ。高山と前田は少々不満のようだがすんなり決まった。
 当日はそれぞれ分担した買物を済ませ、十一時に万丈支店に集合して、方向は違うが鶴見の兄弟船で昼食を食べ、それから波当津の民宿へ行くことになった。周吾は小菅友香にマンションの下の駐車場に来てもらって一緒に小村樹里と湊紀子を迎えに行く。助手席に座った友香の、着ているTシャツに見覚えがあって、周吾は運転の空きを見て横目で友香を見た。ノッピがいるようだった。周吾は、友香に、
 「ノッピに良く似ている。びっくりしている。ノッピと一緒にいるようだ」
 そう思っていることを話した。友香は、
 「お姉さんは憧れだったので、そう見られるのは嬉しい。でも私は私で、お姉さんではないから、ごめんなさい」
 と言った。
 周吾は、
 「失礼なことを言ってすまない。いつまでもこんな状態で申し訳ない。小菅友香は小菅友香だし、でもきれいだ」
 と言った。
 小村樹里、湊紀子を乗せ、たわいもない話が弾む。千葉先生も悪阻に苦労している。いくら消化器内科の先生でもこればかりはどうもできなくてかわいそうだけど、幸せでいい。そんな話も出る。
 小村樹里は彼氏が海外に仕事で行っていて、年末にならないと帰ってこないのだと言う。寂しい?他のふたりからつつかれるが、全然、心は一緒だから、そんな返事をしている。
 湊紀子が蒼井さんは万丈で単身赴任している時、どうだったんですか。やはり毎日帰って来たかったですか、そんなことを聞いてくる。周吾は思い出して、答える。もちろん、毎日毎日会いたくて会いたくて。夜仕事がないといくら遅くなっても飛んで帰っていた。そんな話をする。普段はこんな話をするともう涙がこぼれるのに、今日は出ない。だいぶ慣れて来た。
 小村さんも寂しいでしょう。若い二人に小村がいじられている。幸せは楽しいのだ。
 万丈に着いたのは一番だった。駐車場に車を止めて、当直の顔を見に行くと、佐野新哉と久米一成だった。周吾が他の三人を紹介し、社内のトイレを案内して後の到着を待った。
 久米一成は友香を見てびっくりしている。周吾は久米にノッピの妹だ。血の繋がりはないが、病院で一緒だった。僕も最初はびっくりした。そう説明した。友香には、ノッピが万丈にいた時、周吾と久米一成、それに担当者だった橋田祐太郎とよく飲んだことを話し、ノッピがセイコちゃんをやった話をした。
 佐野と久米は波当津に海水浴に行けて羨ましいと言う。佐野は、
 「配達で北山病院に行くと、蒼井さんのこと聞かれます。元気だろうかって」
 周吾は、
 「ほら、元気だよ、この通りだ」そう言うと、佐野は、
 「でも激痩せじゃないですか。狸の支店長に真似てもらいたいくらいですよ」
 と言う。小菅友香が、 
 「この人、最近まで全然ご飯も食べられなかったんです」
 と言った。
 「蒼井さん、ノッピは幸せだったんでしょう」
 久米一成が言った。
 「それはもう蒼井先生は毎日毎日幸せで、子供が出来たのがわかった時なんか凄かったの。みんなで喜んだわ」
 小菅友香が言った。
 「私達毎日先生のお惚気ばかり聞かされて、耳にたこが出来ちゃったけど、楽しかった。蒼井さんが落ち込むのもわかるわ」
 小村樹里が言った。
 高山隆介と前田孝志が到着した。前田は久米と同期らしい。また佐野も高山と大分の寮で一緒だったと言う。次に今村裕史と小野智美のカップルが着き、北島の車もすぐ着いた。まだ十一時少し前だった。
 周吾は兄弟船に入っても、妻と二人で食べたことを思い出したが、泣かなかった。あの時と同じ海鮮定食は食べきれないと思って、あつめしにしたが、少し残した。元々異常に量が多いのだ。食欲はすこしずつだが戻っていた。友香にしっかり見られているのも承知だった。
 車を連ねて民宿に着く。荷物を部屋に運び、水着に着替えて海へ走る。
 みんな思い思いに浮き輪やボートなど持って来ていた。周吾はゴーグルだけだ。周吾は裸になって太陽の下に出るのは三年ぶりくらいだった。痩せた体がみすぼらしく見えた。
 周吾は泳ぎが得意だった。白鶴高校のクラスマッチでは必ず水泳の選手だったし、当時県ナンバーワンだった水泳部の選手とも遜色ない速さで泳げた。問題は体力だと思った。以前なら三キロメートルまでなら平気だった。でも今は一キロメートルくらいしか泳げないだろう。そう思っていた。
 ノッピとは海に来たことがなかった。海より仏像を見るほうが楽しかった。その次は山だった。坊がつるの空はきれいだった。ノッピの汗もきれいだった。いつかノッピと海に行こう、そう話はしていた。その時にはこの、波当津の海をノッピに見せようと思っていた。海はエメラルドに輝いてこの世の世界ではない美しさだ。海岸の中ほどに行くと、もう人工のものは見えない自然界そのものだ。 
 みんな一斉に海に飛び込む。周吾もどのくらい泳げるか試してみた。沖の方に真直ぐ泳いでいく。百メートル、二百メートル、引き返すことを考えてもう少し三百メートル、四百メートル行って引き返した。合計八百メートル泳いだ。息が上がる。思った以上にきつかったが、みんな驚いて周吾を見ている。
 「師匠、自殺しに行ったんじゃないかって、みんな心配して見てましたよ」
 今村裕史が近づいて来た。周吾は浜に上がって座り込んだ。疲れが気持ちよかった。
 「ばかな、自殺なんかしないよ。どれだけ泳げるか、ちょっと試しただけだよ。思った以上に泳げなかった」
 「あれがお試しですか?師匠は泳ぎのプロですか?」
 「そんなことはない。泳ぐのは好きだよ。前は三キロくらいなら平気だったけど、今は一キロがいっぱいだ」
 「今のが一キロなんですか?」
 「あれは八百メートルだ。余裕を残さないと、何が起きるかわからない」
 「でも八百メートルって言っても、どうして距離がわかるんですか?」
 「五十メートルプールを往復するのに何回クロールするか決まっているんだ。だから今は百メートル、二百メートルだと言うのはわかる。実測とは違うかも知れないけど、手の延びは変っていないと思うから、そんなに狂ってもいないと思う」
 「師匠は水泳部だったんですか?」
 「いや、大学は教育研究会、高校は柔道部、文芸部、郷土史研究会、インターアクトクラブ、時々ラグビー部だよ」
 「何ですかそれ、水泳とは関係ないですけど面白いですね。でもどうしてあれだけ上手なんですか?泳ぐのが」
 「さあ、どうしてか、多分子供時分、万丈川の上流で流れの速い中を鮎と一緒に泳いだからだと思う」
 「羨ましいです。僕は浮き輪がないと沈没してしまいます」
 「智美さんが溺れたらどうする?見ておくだけか?」
 「師匠それは困ります。浮き輪で助けに行きます」
 「そうか、間に合うといいけど」
 みんなは水を掛け合ったりしながら楽しんでいる。周吾は寝転んでノッピの雲を見ている。

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