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大正13(1924)年12月27日小樽手宮爆発事故

<小樽港内艀船にて火薬爆発の大椿事 多数の艀船は木端微塵 死傷者算なし>
小樽新聞 大正13(1924)年12月28日 日曜日
 二十七日午後一時二十七分小樽市手宮高架桟橋の方面に当たって天地も破れんばかりの一大音響を發して爆發したものがある、同時に全市三万戸の家屋に一大振動を與へ二階墜落したもの、窓硝子を破られたもの等全市に亘り續出して市民はいづれも戸外に飛出した。右は廿五日山口縣厚狭日本火藥会社から札幌三田火藥店及岩見澤川口火藥店に宛て發送したる火藥及ダイナマイト八百六十五箱を正保丸から艀に移し艀から貨車2臺に積込まんとした際俄然爆發したもので折柄積込中の人夫觀戰並に附近にて荷揚中の人夫其他約三百名死傷し機關車は飛ぶ火災は起る附近は勿論手宮町一帶は忽ち阿鼻叫喚の一大修羅の巷と化し宛ら戰場の如き觀を呈した。

今から100年前、大正13(1924)年12月27日北海道小樽市旧国鉄手宮駅構内において、火薬及びダイナマイト600箱(約10トン)を艀(はしけ:本船と波止場(はとば)の間を行き来して乗客・貨物を運ぶ小舟)から貨車に積み込んでいた際に爆発し、死者60人行方不明者約30人負傷者300人、家屋、倉庫、船舶等の被害も甚大で小樽としては未曾有の大事故となった。
しかし、これほどの大事故にも関わらず、なぜか当の小樽市民でさえ、現在は多くの人々の記憶に残っていない。

小樽市史には次のように記録されている。

小樽市史 第六巻
 第二十八章 公    安
手宮駅構内爆発事件(大正十三年)
 同年十二月艀から貨車へ積込中の火薬が大爆発を惹し就業中の労務者其他多数のものが 四肢がバラバラとなって海中又は路上に散乱し、首胴を異にした死屍が各所に横たわって見る者の眼を覇わしめた。この時の死者は六十名、行方不明者三十余名、家屋、倉庫、船舶等の被害も甚大で小樽としては未曾有の大事故で警察は現場の調査、死者の処置、負傷者の手当等を全署を挙げて活動した。この事故は小樽としては稀有のものでこの爆音は札幌まで聞こえ、悲惨事として東京の大地震と共に永く伝へられたが、原因は運搬人死亡のため舟より運ぶとき落としたものか歩み板扱中落下したものか貨車に積込んだ折ショックを与へたものか等々推測されたが結局原因不明となった。

被害者数、被害額、事故原因など「東京の大地震(前年の関東大震災)と共に永く伝へられた」としているが、具体的な状況説明はない。
今回はこの事件の状況を確認するとともに、100年たってもまだ謎となっている爆発の原因も推理してみたい。

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