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経歴も供述も、ぜんぶ嘘…「死刑になっても、娘を手放さない」|姫路2女性バラバラ殺人事件・高柳和也

2005年1月、高校の同級生だった畠藤未佳さんと谷川悦美さん(ともに当時23)が、兵庫県相生市に住む無職の男、高柳和也(同39)に約1.4キロのハンマーで頭などを殴られ殺害された。2人の遺体は高柳の自宅でバラバラにされ、姫路市の播磨港や山中に捨てたとされる。高柳の供述から白骨化した遺体の一部は見つかったが……。
週刊誌記者として殺人現場を東へ西へ。事件一筋40年のベテラン記者が掴んだもうひとつの事件の真相。報道の裏で見た、あの凶悪犯の素顔とは。

経歴も供述も、ぜんぶ嘘

 2005年4月6日の新聞各紙夕刊は「姫路女性2人不明 交際男性宅で血痕」と報じた。2人は「風俗店の従業員」と書いた新聞もあった。週刊誌が飛びつく格好のネタだった。当然、デスクに命じられたわたしは兵庫県姫路市に飛んだ。取材先の住所や事件の背景をレクチャーしてもらうため、すぐに旧知の県警担当記者に連絡を取った。新聞記者の話。
「記事は被疑者の弁護士の話とサツ情報。裏の取れている情報ではないが、ほぼ間違いないでしょう」
 記者クラブがない週刊誌記者は、直接警察から情報を取れないために周辺取材や県警担当記者からの情報で記事を創る。それが、被害者や遺族の名誉を傷つけ、苦しめていたことをわたしはこの事件取材で初めて体験したのだった。

 雑誌が店頭に並んだ数日後、姫路の知人から電話が入った。
「畠藤未佳さんの両親が、あなたと会って話をしたいと言っている」
 わたしは怒鳴られるのを覚悟して5月9日正午、姫路市内の和食レストランで、未佳さんの父親・通保さんと母親、元刑事の3人と対面した。この元刑事こそ1ヶ月前に兵庫県警を退職したばかりの飛松五男さんだった。連絡が取れない娘を心配した通保さんが現職だった飛松さんに相談、高柳和也を追い詰めたのである。現在、テレビでお馴染みの飛松さんなくしてこの事件の解決はなかっただろう。憔悴しきった表情の通保さんが重い口を開いた。
「記事を読んだ方から『お前の娘は風俗嬢か』と嫌がらせの電話がたくさんありました。本当のことを書いてくれませんか」
 報道被害の現実を突きつけられたわたしは動揺した。しかし、通保さんはわたしを叱責するでもなくそれから約3時間、愛娘への思いの丈を語った。
「姫路署に捜索願を出しましたが警察は動いてくれませんでした。娘が失踪直前に会ったという高柳の住居を飛松さんと突き止め、娘の行方を問い詰めたのです」

 その時のやりとりはこうだったという。
ーー娘はどこにいるのだ。
「ホンマ、知りません」
ーーなぜ偽名を使っているのか。
「いや、それは……」
 こんな押し問答が一日中続き、未佳さんについてはシラを切り通した。翌日、覚醒剤取締法違反で逮捕された高柳は、2人の殺害を供述し殺人事件が明るみになった。

逮捕直前、飛松元刑事とともに犯人の家
をつきとめた畠藤氏だったが、高柳(写
真左)は「知らない」とシラを切り続けた。
写真は同行した畠藤夫人によるもの

 高柳和也は地元の高校を卒業後、鉄工所や左官など職業を転々とし、事件直前まで赤穂市の金属加工会社に勤めていた。
「彼は02年秋から約1年間、ウチで働いていましたが、死亡事故を起こし刑務所に入りました。出所後は去年の12月までアルバイトとして働いていました」(工場長)
 高柳は01年に起こした交通事故の民事訴訟で04年、損害賠償金130万円を受け取っていた。その金を未佳さんに貢いだと高柳は供述。通保さんが怒り心頭で語る。
「2人が風俗で働いていたと言ったのも高柳です。娘はわたしの会社で事務員をしていました。あいつの嘘が弁護士の口から語られ、それが報道されるのです。正月に未佳が初めて連れてきたときは、高柳は上田幸一と名乗り、年も29歳と偽っていました。親がボイラーの会社を2つ持っていて、自分のボーナスは1千万円。家2軒とクルーザーも持っていると。すべて嘘なんです。殺害の動機は、未佳との金銭トラブルなどではなく、嘘がバレそうになったので娘を殺害したのだと思っています」

 高柳は一審で死刑判決を受け控訴したが10年10月15日、二審の大阪高裁で棄却された。通保さんが言う。
「裁判の傍聴をずっと続けてきましたが、まともに証言したことは一切ありません。しかし、棄却された瞬間あいつは初めてわたしを見て、頭を下げました。心境に変化があったのかは分からないが、死刑が確定したら、わたしは高柳に面会をして、未佳の頭をどこに隠したのか聞き出します」
 母親はぽつりと言った。
「未佳ちゃんは『彼の執着心は怖い』と言っていました。死刑になっても、高柳は娘を手放さないと思う」
 高柳のくるくる変わる供述に翻弄された遺族や捜査員。2013年11月、死刑が確定した。

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小林俊之(こばやし・としゆき)
1953年、北海道生まれ。30歳を機に脱サラし、週刊誌記者となる。以降現在まで、殺人事件を中心に取材・執筆。帝銀事件・平沢貞通氏の再審請求活動に長年関わる。