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本邦初の「ピンク女優」香取環の数奇な人生…伝説の女優は元気な「社員食堂のおばちゃん」になっていた!

「ピンク映画」という言葉すらなかった。裕次郎や小百合が脚光を浴びる日活を飛び出して、初めて主演した映画は映倫から成人指定を受けていたが、上映中に警視庁に摘発された。大蔵貢社長に口説かれたが袖にして女ひとり、わが道を行く。いつのまにかその業界のトップスターとなり、ナイスなボディと艶技力で男たちを惑わす「ピンク女優」になっていた。出演作は600本にも及び、幾多の伝説が作られ、そして忘れられた——!
忘れ去られた映画人や作品を追う傑作ルポ『桃色じかけのフィルム ――失われた映画を探せ』(ちくま文庫)が絶賛発売中の鈴木義昭氏による貴重な記事を公開!

藤純子のお竜さんもマッサオの女やくざを演じて映画ファンを熱狂させた『女地獄唄・尺八弁天』(昭和45年・関東映配)

吉永小百合や浅丘ルリ子に負けないスターを目指して、ハダカに!

 マリリン・モンローが睡眠薬の飲み過ぎで死に、植木等の無責任節が流行している頃だった。映画館で上映中の『肉体の市場』という映画が「猥褻容疑」で警視庁保安課に摘発されるという事件が起きた。一九六二年、オリンピックをめざして東京都内が次第に工事だらけになっていく時代でもあった。

『肉体の市場』は、前の年に六本木で実際にあった婚約者と遊びに来ていた女性がトイレの中で犯され自殺するという事件をヒントに作られたのだった。俗に「ピンク映画の第一号」といわれている作品だ。これに主演したのが、日活ニューフェイス(第四期)出身の香取環。これを皮切りに、急速にマーケットを拡大しブームのようになっていくことになるピンク映画界で「女王」とまでいわれた女優である。「ピンク女優第一号」の栄誉に輝き(?)、六〇〇本にもおよぶ出演作品を持ちながら、彼女はつい最近まで消息不明とまでいわれていた。

 ところが、彼女は生まれ故郷の熊本で社員食堂の「おばちゃん」になっていた。所在を聞きつけた筆者は、往年の名シーン、名艶技を思い出しながら熊本へと飛んだ。謎も多い銀幕伝説のヒロインの直撃取材に成功した!

香取環(カトリ・タマキ)
1939年10月21日、熊本市生まれ。九州女学院高校在学中にミス・ユニバース熊本代表に。58年日活四期ニューフェイスに応募して入社。62年「ピンク映画第一号」の『肉体の市場』に主演して話題を呼ぶ。以降、大蔵映画、国映、葵映画、若松プロなどで多数の作品に主演。演技力と肉体美でピンク映画界のトップ女優として君臨した。72年、人知れず銀幕から消えた。

★ ★ ★

——お会いできて光栄です。伝説の名女優といわれながら、マスコミに一切登場しなかったのは、なぜですか?

「もう引退(一九七二年)して長いでしょう。こっちでの暮らしもあるし、家族や子供もあったから、古い芸能界のことでお話しすることがなかったからよ」

——ずっとお会いしたかった! 赤木圭一郎と同期の日活ニューフェイスでありながら、独立プロの「ピンク映画」に飛び込んでトップスターとなる。まさに「伝説の女優」です。

「ありがとう。もうおばあちゃんになっちゃったけど、何でも聞いてちょうだい(笑)」

——小林悟監督の『肉体の市場』、せっかくニューフェイスとして売り出し中だったはずの日活映画を離れて出演することになる経緯からお聞きしたい。

「当時、もう日活は潰れそうだったのよ。あの頃急に仕事が減って、食べていかれなくなったのよ。チョイ役ばかりだったから、月に五、六本は出ないと生活していけなかったの。そうしないと家賃も払えない。それで日活を辞めたんだけど、五社協定(*1)のあった時だからすぐにはよその映画会社に出れなかったの。そん時、独立プロの仕事を紹介されたのよ。日活のチョイ役で五千円にしかならない時に主演で一本二万円、そいでよしって思ってね。台本見たら、確かに日活の作品よりも薄っぺらいけどドラマはちゃんとなってるわけ。それで何の抵抗もなく最初は出たのよ」

『肉体の市場』(昭和37年・協立映画)より。当時流行の“六本木族”の生態を描いて評判を呼んだが、公開直後に猥褻容疑で摘発された

——当時のピンク映画、いや「ピンク映画」って言葉もなかったはずですが、今から想像できないくらいにSEXシーンも少ないし、露出もなかったようですね。

「そうよ。新東宝(*2)なんかで作ってたお色気映画と同じ。新東宝の社長さんだった大蔵さんが、大蔵映画って会社にしてピンク映画を作らせたわけでしょう。似たようなタッチの映画よね。『肉体の市場』も私以外の出演者は新東宝出身の人が多かったしね」

——『肉体の市場』も協立映画っていう大蔵の下請けプロダクションで作った。しかし、封切り直後に警視庁に摘発されている。

「そうだったの、あんまり覚えてないな(笑)。そんなエッチなことした記憶ないけどね」

——三ヶ所問題になって、監督が再編集して無事に公開は続いたようですが。逆に噂を呼んで、全国的にヒットしたらしい。

「ともかく独立プロっていうのがあるって聞いて、ギャラが良かったから出たのよ。それが最初。大蔵映画関係で何本か続けて撮ったのよ。大蔵さんは凄く気前が良くてね、次の仕事が入るまでお給料みたいなのくれたりもしたのよ。でも、よそへ出ちゃダメみたいなことはあるわけ。自分の女になれみたいなところもあるわけよ。私はそんな気はないから(笑)。それが九州女の悪いところで、金じゃ転ばないって言ったの(笑)。そしたら扇町京子(*3)さんがOKしてね、社長のコレになったのよ。それで私から彼女に大蔵さんの関心が移ったのよ。それからよ。私が他のプロダクションやいろんな監督と仕事を始めるのはね」

『炎の女』(昭和41年・葵映画)より。当時は葵映画に所属し同プロ社長の西原儀一監督作品を中心に活躍していた
葵映画専属時代の(67〜68年)のスナップ。自らのポートレートと

——潔白性というか、仕事と男女関係は混同したくなかった。

「もちろんよ。日活時代もね、プロデューサーに赤坂の料亭に呼ばれたことがあるのよね。最初に大きな役が付くって言われた時ね、準主役で二谷英明さんの妹役で出るはずだったの。それでね、料亭に行ったら風呂敷に包んだお金が置いてあるのよ。紐が二本だから、たぶん二百万でしょうね。今なら、ありがとうっていただくけど(笑)。それでお風呂に誘われてね。『いえ、結構です』って言ったら、『じゃあ、お風呂行ってくる』って出てったのよ。それで襖を開けてみたら、隣の部屋にお布団が敷いてあったのよ、案の定(笑)。お金だけ握って帰りゃ良かったけど、もうそのまんま帰ってきちゃったの。そしたらね、すぐに次の日撮影所へ行ったら、役降ろされてるのよ(笑)」

——日本映画黄金時代の光と影の、まさに影を象徴するような話ですね

「それからよ、なにくそって頑張ってね。誰にでも可愛がられる芝居をしようと思ったの。集合時間には必ず遅れない、準備をしておく、どんな雪の中でも自分でテストをやるとかね……。だから、根性あるってみんなに印象つけてね、日活でも随分監督さんに可愛がられたのよ。本名が久木だから、クッキー、クッキーって言われてね……」

——日活はもちろん、テレビにもたくさん出演してらっしゃるようですね。日活出身の井田探監督が撮られていた『プレイガール(*4)』なんかにもよく出られたとか。

「ええ。『プレイガール』はよく出たわね。テレビはいろいろ出てるのよ」

——日活ロマンポルノがスタートする時に出演交渉があったっていうのは、本当ですか。

「本当よ。だけど、日活育ちでしょう。何で日活がロマンポルノなんてやんなきゃなんないのって怒って、出ないのよ。やっぱり日活に思い入れがあるじゃない。裕次郎さんと一緒に出た想い出があるでしょう。で、日活ロマンポルノに負けまいとしてピンク映画も激しくなって……」

取材当時、2007年の彼女。社員食堂のおばちゃんとはいえ、元女優の貫禄が感じられる(撮影=筆者)

——それで引退?

「他にもいろいろあったけど、もうピンク映画をやり続ける年齢でもなかったしね」

 香取環の恋について聞き始めれば、話はそれだけで一冊の本ができそうな気がする。東宝の二枚目俳優、船戸順との結婚と七年目の破局。ピンク映画の監督や年下の歌手との恋もあった。食堂の「おばちゃん」は六七歳。今では、すべてが伝説。「ピンク映画」という言葉さえ忘れられようとしている——。

★ ★ ★

(*1)五社協定/映画俳優は邦画各社の撮影所に勤務し、演技課に管理されていた。引き抜き合戦によるギャラの高騰防止等を目的に1953年、大映、松竹、東宝、新東宝、東映の邦画五社が協定を結んだ。後に日活も参加した。一部のスターを除いて、退社後3年間他社作品には出演できなかった。

(*2)新東宝/日本映画におけるピンク・ポルノ映画のルーツとなるエログロ路線の娯楽映画を量産した映画会社だが、1955年に興行界出身の大蔵貢が社長に就任する以前は健全娯楽、文芸路線を主軸としていた。47年に労働争議に揺れる東宝から分裂した新興勢力だったが、61年に倒産。

(*3)扇町京子/1960年『〇線の女狼群』で映画デビュー。新東宝末期のエログロ路線で頭角を現して、62年に香取とともに『肉体の市場』に出演した。その後は大蔵映画のピンク作品を中心に活躍した。78年に大蔵貢が死去した直後に、自ら男女関係にあったことを告白した。

(*4)プレイガール/沢たまき、桑原幸子、應蘭芳らを中心にナイスボディの美女軍団が難事件チン事件を解決していくお色気たっぷりの連続テレビ活劇。1969年の放送開始から東京12チャンネル(現・テレビ東京)の看板番組となり、約7年間続いた。近年DVDも発売され人気は根強い。

(実話ナックルズ2007年3月号より)

<著者プロフィール>
鈴木義昭(すずき・よしあき)
1957年、東京都台東区生まれ。76年に「キネマ旬報事件」で竹中労と出会い、以後師事する。 ルポライター、映画史研究家として芸能・人物ルポ、日本映画史研究などで精力的に執筆活動を展開中。 最新刊『桃色じかけのフィルム ――失われた映画を探せ』(ちくま書房)絶賛発売中!


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