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「本家に見下されていた。恨みを晴らすには殺すしかなかった」|加古川親族7人殺害事件・藤城康孝

2014年8月2日未明、兵庫県加古川市の民家が次々に襲撃され、2家族7人が殺害された。逮捕されたのは隣に住む親戚の藤城康孝。逮捕後に語った動機は本家分家の序列による恨みだった。
週刊誌記者として殺人現場を東へ西へ。事件一筋40年のベテラン記者が掴んだもうひとつの事件の真相。報道の裏で見た、あの凶悪犯の素顔とは。

親族トラブルが虐殺を呼んだ

 2004年8月2日未明、兵庫県加古川市の藤城康孝(47)は「長年の恨みを晴らすにはこれしかなかった」と近くに住む親族7人を殺害した。男の〝積年の恨み〟を追った。

 約300戸の集落の周りには、稲穂が頭を垂れる田園地帯が広がっていた。闇夜を切り裂く女性の悲鳴が響いたのは午前3時過ぎ。康孝の隣に住む伯母の藤城とし子さん(80)が血塗れで見つかり、二階ではとし子さんの長男(55)と次男(46)が刺殺されていた。
 斜め向かいの親戚宅では、夫(64)と妻(64)、長男(27)と長女(26)の一家全員が殺害されていた。兵庫県警担当記者の話。
「凶器は、刃渡り15センチの骨すき包丁といわれる鋭利な牛刀2丁と金槌1本。数年前からガソリンも備蓄していた。藤城は完璧な殺害を狙ったのでしょう」
 約40分間の犯行後、康孝は自宅にガソリンを撒き火を放った。「古い家をマスコミに撮影されたくない」との理由だった。就寝中だった実母(73)を起こし、屋外に避難させていた。自家用車にガソリンを積み逃走した康孝は、パトカーの追尾に気づき現場から約1キロ離れた国道バイパス高架の橋脚に衝突して炎上、病院に搬送された。火傷が回復した8月31日、殺人容疑で逮捕され、犯行動機をこう供述した。
「自分と母親は、本家の伯母や親戚に見下され、邪魔者扱いされていた。恨みを晴らすために数年前から殺すしかないと思っていた。死刑は覚悟していた」

 康孝の自宅建物は父親の所有だったが、土地(約140平方メートル)はとし子さん名義だった。両家を知る男性が言う。
「年数万円の固定資産税を長年とし子さんが負担していて、その支払いを求めたら康孝が激怒したそうです。分家の僻みがあったのかも知れない」
 この手のトラブルはよくあること、人を殺す動機たり得るのだろうか。康孝の人生を辿ると何時も「刃物」が付きまとうのだ。小中学校の同級生が言う。
「カッとなりやすい性格で、キレると何をするかわからない。小学生の時からカッターナイフを持ち歩いていた。中学3年の時にはナイフで同級生を斬りつけた」

 粗暴な息子をいつも庇ったのが母親だった。高校は三重県内の全寮制。卒業後、故郷に戻った康孝は、夢だった調理師を目指し県内の洋食店や、海外まで修行に出たがどこも途中で投げ出した。その後、トラック運転助手など職を転々。石を投げつけ、鎌を振りかざすなどご近所トラブルは日常茶飯事。パンチパーマの康孝に震え上がった。住民の話。
「10年以上前に、父親が『あいつに殺される』と定年と同時に家から逃げたんだ。包丁を投げつけられ、息子に怯えていたからね。収入が無くなった母親は靴下工場で働き、牛乳配達の集金もしていた。敷地にプレハブを建ててパン屋を開いたのが3年前。あいつが焼いて、母親が売り歩いていたが、結局長続きはしなかった」
 この頃から周辺住民との軋轢が激しくなり、加古川署に複数相談が寄せられた。
「『包丁を持って徘徊し、大声を出すなど何とかして欲しい』と相談はあったが『仕返しが怖い』と被害届は出されなかった。立件は出来なかったが、要注意人物との認識は警察にあったはず。事件後の記者会見は、各社警察の対応の拙さを追及した」(県警担当記者)

 裁判は、康孝の責任能力が争われた。一審は死刑。二審の大阪高裁は、妄想性障害だったとしたうえで責任能力を認め弁護側の控訴を棄却した。弁護側は控訴審判決を不服として最高裁に上告したが棄却され、2015年5月に死刑が確定した。

親族大量殺人は現代の「八つ墓村」とも。
2021年12月死刑が執行された

 閉店したプレハブ小屋の窓はカーテンで閉め切られ、隙間には内側から新聞紙が貼られた。夜の帳に包まれると、康孝はカーテンの隙間から親族の動向を伺っていたという。引きこもる息子に母親は食事を運んだ。10畳あまりの密室で、康孝の妄想はパンのように発酵したのだろうか。

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小林俊之(こばやし・としゆき)
1953年、北海道生まれ。30歳を機に脱サラし、週刊誌記者となる。以降現在まで、殺人事件を中心に取材・執筆。帝銀事件・平沢貞通氏の再審請求活動に長年関わる。