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アナタハンの女王・比嘉和子|無人島に取り残された32人の男たちは1人の〝女王〟をめぐり殺し合いを始めて……

戦後日本で本当にあった衝撃事件。運命の島から帰還し、上京した比嘉和子は一躍時の人となった。女王蜂の異名をとった彼女を巡るアナタハンの真実とは……朝倉喬司集成「昭和の怪人 47人の真実」よりお届けします。

ひが・かずこ
大正11年沖縄県生まれ。昭和49年没。昭和13年、サイパン島の隣島に出稼ぎに行っていた際に結婚、アナタハン島に渡る。昭和19年、米軍の爆撃にあい絶海の孤島となった同島で、事件は起きる。7年間のサバイバル生活からの帰還後は島での真実を訴えるため上京、映画『アナタハン島の真相はこれだ』に自ら出演、さらには地方巡業にも参加。その後は故郷の沖縄に帰り再婚。夫と子ども2人とともに暮らした。

男を虜にした魔性

 絶海の孤島に33人の人間が取り残された。
 うち、女はたった1人、残る32人全員が男。
 彼らは7年間、島に閉じ込められた。そして救出されたとき、32人いたはずの男の数は20人に減っていた。1人の女の「愛」をめぐって、バトルロワイヤルそこのけの殺し合いが続いて、こんな結末になった。
 どこまでもフィクションめいた、小説の中でしか有り得ないような話だが、何とこれが実際に起きた事だった。
 その「たった1人の女」の名が比嘉和子。
 沖縄出身の和子が、島から帰還したのが1950年だった(当時28歳)のだが、島での「真相」が明らかになるにつれて話題は沸騰、彼女は「女王蜂」だとか「アナタハンの女王」とか呼ばれる超有名人になってしまった。
 アナタハン。これが、サイパンの北にある、和子たちが閉じ込められていた熱帯の島の名。33人(内訳は兵士や漁師など)は、日本の敗戦を知らないまま、米軍の投降勧告に抵抗しながら、島で生き延びていたのである。
「強い男の前に身を投げ出し、『私を自由にしたかったら、あなたの手であいつを…』と、男の獣欲をあおった」
「次々に起きた殺人の背後で糸を引いていたのが彼女だった」
「酒は底無し。上手なワイ談で男の気をひいた」
 こんな「女王」イメージがマスコミに定着した。それに抗議するとて(ほんとは別の目的で)、彼女が沖縄から東京へ乗り込んできたのが52年のこと。VIP扱いで記者会見に臨み、「私のことで殺されたのはほんとは2人だけ」とか「酒は甘いヤシ酒を飲んでただけなのに…」などと噂の真相を明かしたのだが、どうももうひとつ歯切れが悪かった。島のことを思い出すと「ゾッとする」と言いながら、男たちを懐かしがるような素振りを示すのも、何だかチグハグだった。きっとこのとき和子は、「ほんとうに」言いたいことをうまく言えなかったはずであり、それを、その後の彼女の証言等々を総合して推測すると、およそ次のようなことになる。
 自分は男たちの性の飢えを「母親のような気持ちで」(彼女自身の言葉)満たしてやるつもりで、次々と関係を結んだ。それが裏目に出て、男の競争心、闘争心に火がつき、人間関係はもつれにもつれ、こんなことになってしまった……と。

本人主演映画も公開。『アナタハン島の真相はこれだ』(1953年・新大都映画)

 上京した和子は「アナタハン」をテーマにしたショーに出演。当初は大成功で、彼女を沖縄から引っぱり出した興行師はバク大な金を手にし、「アナタハン」は映画化もされた。だが、プロの芸能人でもない和子の人気が長続きするはずもない。やがてはストリップ劇場での南洋踊り。あげく、和子は一人ぼっちで大阪へ流れ、ある夜、泥酔して男と争い、頭に大ケガ。保護された警察署で彼女は言った。「私の顔をしらんの、私はアナタハンの女だったのよ!」。海千山千の山師に使い捨てられた「女王」の、これが最後の叫びだった。
 和子が、野生的なバイタリティに満ちてはいるものの、根は人の好い、不器用なタイプの女だったことが、以上のイキサツに透けてみえる。そんな彼女を「女王」にしてしまったのは、一にも二にも「戦争」だったというしかないが、「女王」はまた、「戦争」をも乗り越えてしまうほどのセックス・パワーのシンボルでもあった。同じ時期に、アメリカで頑張っていたマリリン・モンローと比べると、いかにも戦後日本的な、生きるギリギリのところに妖しく花開いた性の象徴。
 52年に発表された和子の手記を読むと、
「兵隊たちはやせて神経質になってゆくのに、私だけはますます肥って、ハチ切れるように健康だったが……」
 という言葉があった。えっ、トカゲやネズミまで食べていたというあの島の環境で? とビックリしながら私は、そんな和子をやはり「女王様」と呼びたくなった。彼女を「健康」にさせていたのは、まず間違いなく、男たちのギラギラと先のとがった「性」である。
(文中敬称略)

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<著者プロフィール>
朝倉喬司(あさくら・きょうじ)
1943(昭和18)6月23日~2010(平成22)11月末。岐阜県生まれ。早稲田大学文学部社会学科中退。業界紙記者を経て、69年より講談社『週刊現代』社外記者。81年、ルポライターとして独立。『犯罪風土記』『メガロポリス犯罪地図』『涙の連続射殺魔・永山則夫と六〇年代』『都市伝説と犯罪――津山三十人殺しから秋葉原通り魔事件まで』など著書多数。実話ナックルズ連載「栄光なきカリスマ」が遺稿となった。