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ライター根本直樹 『ザ・スペシャルズ』を知ってるか……1980年7月2日 中野サンプラザ事件に震えた夜7時

ギャングスターズ

 ラジオから不意に流れてきた、ポップだけれど、どこか不穏なダンスミュージックを耳にしたときの衝撃は、齢50を超えた今も脳裏と体に貼り付いたままだ。

 酒もクスリもセックスもまだ知らない12歳の私は、人工甘味料たっぷりのジュース、チェリオを啜りながら、体を揺らし、鳥肌を立たせ、すっかりハイになっていた。そして曲が終わった後のナレーションに耳をそばだてる。
 それは、英国“2トーン”ブームの立役者、ザ・スペシャルズのデビューシングル『ギャングスターズ』だった。そのシンプルでイカしたバンド名と謎の曲名にまずはズドンとやられた。当時の私はアバやイーグルスなんかに夢中だったが、これを聴いたとたん、すべての音楽がダサくて陳腐なものに思えたものだ。

 裏打ちのスカビートに乗せた、どこかエキゾチックな香り漂う怪しげなメロディー。そして何よりガキの私を虜にしたのは、テリー・ホールのハイトーンだけれど、翳りのあるクールなボーカルと、その鋭くも憂いに満ちた顔貌だった。

 参考書を買うと親を騙してファーストアルバム『The Specials』を手に入れると、毎日、気が触れたように聴き込んだ。当時テリーはまだ10代後半の若者だったが、その抑制の効いた醒めた歌声と、バンドが奏でる明るく軽快なビートとの対比に心底痺れ切った。また、アルバムジャケットに写るメンバーたちの、パンクの過剰さとは違う、“ルードボーイ”スタイルの粋なファッションにも心躍らされたものである。

 彼らには、明と暗、陰と陽、光と影が綯い交ぜとなった独特な魅力があった。それが他の多くのスカバンドとは一線を画す部分だったと思う。陽気なビートの裏には、鈍色の冷たさがあった。

工業都市コヴェントリー

 ザ・スペシャルズは英国の工業都市コヴェントリーで70年代後半に結成された白人黒人混成のバンドである。メンバーたちが育ったエリアは、日本で言えば川崎のディープな工場地帯のような労働者階級の人々が暮らす街で、ボーカルのテリー・ホール自身、15歳で中学を辞め、その後はまるで氷河期世代の日本人の若者のように、レンガ職人、自動車工、測量技師の手元など、非正規の肉体労働を転々としていたという。他のメンバーも似たようなものだった。

 日々の鬱屈、イライラ、憤慨、絶望。そこから逃れるように、彼らは音楽にのめり込む。格差が広がり、ところどころにゴーストタウンが生まれていた当時のイングランド社会への怒りを内包する歌詞と、パンクとスカを融合させたスピーディーなビートに、底辺の若い労働者たちは熱狂し、ザ・スペシャルズは英国のヒットチャートを賑わすまでになった。ピストルズにはじまるパンクバンドの多くは、暴力的な表現で社会に抵抗する姿勢を見せたが、スペシャルズは違った。洒落のめして、バカのように踊り狂うこと自体が、牢獄のように息苦しい英国社会に対する彼ら流のレジスタンスだった。

 そしてその独自の音楽とスタイルは、熱病のように欧米、南米、そして日本にも伝染していくのである。

伝説の中野サンプラザ事件

 1980年6月末から7月頭にかけて、ザ・スペシャルズの初来日公演が実現した。当時はネットなどないので、来日情報自体、ロック専門誌などを購読していなければ掴みづらい時代だった。そしてチケット発売情報は新聞の社会面下段に掲載されることが多く、私もそれを見て、スペシャルズの来日を知った。

 しかし当時の私は地方都市に住む田舎のガキである。ルードボーイを気取って、白と黒のストライプシャツを着て、駄菓子屋で杏アイスなんかを食うような日々を送っていたが、数千円もするチケットなど買えるわけもないし、まして東京へなど行けるわけもなかった。だから、スペシャルズの来日を知ったときは、嬉しいよりも悔しくて、歯ぎしりしたものだ。

 そんなある日の晩、たまたまNHKの7時のニュースを見ていたら、スペシャルズが取り上げられていて驚いたのを今もはっきりと覚えている。

 テリー・ホールやリーダーの“歯っ欠け”ジェリー・ダマーズらが、テレビのインタビューに対して怒りをぶち撒けている。

 「踊っちゃダメだなんてあり得ない。どうかしてるよ」

 テリーはガムをくちゃくちゃ噛みながら、そんなことを捲し立てていた。

 前代未聞の事件は来日ツアーの最終日、7月2日に起きた。

 スペシャルズのライブはもともと観客が勝手にステージに上がり、メンバーとともに皆で踊りまくることで知られていた。それは日本公演でも変わらず、大阪ではヒートアップした観客が暴力沙汰を起こしたり、客と揉めたマネージャーが逮捕されるなど、波乱に満ちたものだった。

 そして、最終日の会場となっていた中野サンプラザはスペシャルズに対してこう通達した。

 「観客が立ち上がって踊ったら、即刻コンサートは中止とする」

 90年代以降、日本でもオールスタンディングのライブが普通になったが、80年代までは何かと規制が厳しかった。スペシャルズのメンバーはすぐに反発した。当然、こうした状況の中、双方で公演実現のための折衝が行われただろうが、結果は決裂。こうして中野サンプラザ公演は直前で中止となってしまったのである。

 しかし、スペシャルズ側は諦めない。すでにチケットはソールドアウトとなっており、このまま帰国するわけにはいかなかった。彼らは代替の会場をギリギリまで探し続け、最終的に新宿のディスコ『カーニバルハウス』が快諾。観客に新宿まで移動してもらい、2回に分けて、オールスタンディングのライブが実現した。

 NHKのニュースにぞろぞろと駅に移動する客たちの姿が映し出されていた。

 今だったら大炎上していただろう直前での会場変更だったが、ファンたちの多くは、怒るよりも、むしろ喜んでいるように見えた。その気持ちは当時の私にもよくわかった。

https://youtu.be/LyPTGkUODUA


 私は地団駄を踏むような思いにかられた。なぜ俺は今あの場にいないんだ。あまりにも悔しくて涙が溢れてきた。

 私は自室にこもり、大音量でスペシャルズの名曲『You're Wondering Now』を聞きながら、マスターベーションに耽り、尽き果てるといつの間にか寝てしまった。

 昨年12月18日、闘病の末、テリー・ホールは世を去った。享年63。安らかに眠れ。

【著者プロフィール】
根本直樹(ねもと なおき)
1967年前橋市生まれ。函館市立柏野小学校卒。週刊宝石記者を経てフリーに。在日中国人社会の裏側やヤクザ、社会の底辺に生きるアウトサイダーを追い続ける。アル中、怠け者、コドナ(大人子供)、バカ