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仏のいえ(2024年2月)

2月3日は節分の山内全員でお経を読み、本堂から自室まで全てのお部屋に豆を撒きます。「鬼はうち、福は内」と言いながら豆を撒き、鬼役の一人がスリコギを持って「ごもっとも、ごもっとも」と合いの手を打ちます。「このからだ鬼と仏と相住める(死刑囚の遺句)」私の中にいる鬼も、たくさんの気付きを与えてくれる大切な存在です。節分の翌日は二十四節気の「立春」。地面からはスノードロップ(雪の雫)が顔を出していました。

スノードロップの蕾

立春の翌日、信州では大雪が降りました。せっかく顔を出したスノードロップも雪の下。2月の雪は水分が多いために重く、雪かきも一仕事でした。それでも、雪は景色を白一色に変え、交通量も減り、車も減速して走り、朝になっても夜のような静かに包まれた数日でした。

2月15日は仏教における三仏忌の一つ「涅槃会」ですが、冬の長い信州では「涅槃会」も旧暦にちなんで三月に行うため来月のご報告となります。

私ごとのご報告ですが、1月18日から28日までアメリカに渡り、「嗣法(しほう)」をして頂いてきました。
アメリカ合衆国インディアナ州に一年間滞在したのは2012年9月、もう12年も前のこと。アパートから歩いて10分のところにあった三心寺へ暁天坐禅に通い、また毎月の接心(1日14時間、3日間もしくは5日間坐禅をする無言接心)にも時間が許す限り参加し、帰国の際に「機が熟したら出家得度をしたい」と奥村老師にご相談し、2017年9月17日に得度させて頂いたのでした。
それから、二年間愛知専門尼僧堂で修行をし、送行(そうあん、卒業のこと)後は信州のお寺のお手伝いとして住みはじめて4月で丸4年となります。得度をして約6年半、自分の修行がどのようなものであったかと自問すればするほど恥ずかしいものであり、2013年の授戒会でも2017年の得度式でも戒律についての誓いを立てていても、それに従っていない自分しか見当たりません。そんな中で「嗣法」を受けることは自分の身に余ることでしかなく、申請をしたもののアメリカに入国する直前まで引き返した方がいいという気持ちに揺れていました。

三心寺境内の観音様

インディアナ州ブルーミントンにある三心寺に着き、翌朝の暁天坐禅から参加しました。わずか2炷(二時間)の坐禅でしたが、2012年に坐っていた自分に戻り、なぜ出家をしたいと思ったのか、その気持ちが身体に満ち戻りました。存分に迷っていましたが、ここに坐っていることに安心している自分がいました。思い返すと、信州のお寺に来てからは、忙しさと身体の疲れを言い訳にし、坐禅に集中する時間は皆無でした。「坐禅こそ正師である。この正師に仕え、また再び十年坐禅しなさい」という内山老師の言葉が、今私に最も必要な言葉として響いていました。
19日に奥村老師から「嗣法」の説明を受け、20日から8日間、暁天坐禅、巡堂、法衣看経、仏祖礼を行うことから1日が始まりました。私はお釈迦様から
数えて85代目となり、仏祖礼ではお釈迦様から奥村老師まで84人全員のお名前を唱えながら85回のお拝(五体投地)をします。最初の三日くらいは筋肉痛と喉の痛みでお唱えに精一杯でしたが、4日目からは、それぞれの祖師方一人一人について学び直さなければと思い改めながらお名前をお唱えしていました。朝の一連が終わると、三日間は師匠の三物(嗣書・血脈・大事)を書き写すことに時間を要しました。尼僧堂の先輩から、「嗣法は手続き上だけ。書類に印鑑を押すだけで加行(けぎょう、修行・儀式)をやってもらえなかった」という話を聞くことは一人二人ではありませんでしたので、こうして丁寧に嗣法に専念させていただくことは有り難いことでした。(尼僧堂ではそのような方のために、青山老師が加行のみを行い、勉強の場としてくださっていました。)6日目の夜に伝戒式、7日目の夜に伝法式を行っていただき、最終日は方丈の間で無住拝(謝拝・便宜的に25拝であるが108拝など様々な説がある)をして終了となりました。

嗣法が終了した際、奥村老師(右)と私

冬ということもあり、三心寺は地元のお弟子さんの出入りしかなく、接心のような静かな時間を過ごすことができました。到着した日は大雪で気温もマイナス10度以下でしたが、三日目から帰る日までは小雨ながらも雨が降り続き、暖かい日々でした。アメリカ大陸は、風を遮る大きな山がないため、カナダの方から風が吹けば寒くなり、メキシコの方から風が吹けば暖かくなる、風によって気候が左右されると教えてもらいました。嗣法期間中、集中するためには恵みの雨のようでした。

伝戒式では、お師匠様から三度目の十重禁戒。今回は一対一で、初めて日本語で行ったことも私はやっぱりまだ浅い理解なのだと認識しながら、お師匠様の一言一句を重く受け止めるのでした。

「自分がどれだけ役に立っているかではなく、自分がどれだけ人に支えられているかを知ることが大切だ」

これは、尼僧堂の山門に度々掲示されていた言葉です。「こんなにやっているのに、、、」と日常生活の中でつい思ってしまう驕りですが、どれだけ多くの方に支えられているかを思い改めると恥ずべき私しか見当たりません。アメリカに暮らすお師匠様、共に生活をさせて頂いている三名の老尼僧、兄弟弟子や隣の単で並んで坐った法友のみなさん、そして両親や日常で触れる在家の方々、会うことがなくても関わりがあるすべての方へ、ただただ感謝の気持ちを持ち、皆様への報恩を行じることができるように、一日一日を無駄なく、と改めて心しております。

最後に自戒の念も含めて、「内山老師の安泰寺の最後のご提唱」を引用し今月の終わりと致します。

1 人情・世情ではなく仏法のために仏法を学し、仏法のために仏法を修すべきこと。
2 坐禅こそ本尊であり正師である。
3 坐禅は具体的に「得はマヨイ、損はサトリ」を実行し、二行(懺悔行、誓願行)、三心(喜心、老心、大心)として生活の中に働く坐禅でなければならない。
4 誓願を我が生命とし深くその根を養うこと。
5 向上するのも堕落するのも自分持ちであることを自覚して修行向上に励むこと。
6 黙って10年坐ること、さらに10年坐ること、その上10年坐ること。
7 真面目な修行者達が悩まないでいいような修行道場であることを願って互いに協力すべきこと。

内山老師の最後の提唱(1975年2月23日)

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