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仏のいえ

無量寺の仁科桜の見頃が過ぎると、畑に撒く種を買いに行き、鍬を構える心持ちになってきます。でも、四月はまだ一桁台の気温の日もあり、天気を見ながら外へ出る、そんな風にして過ごしています。
信州の食卓で欠かせないものとして漬物があります。11月に漬けた野沢菜を3月いっぱいは、切り立てを食べます。去年は15キロのお菜を漬けました。近年は醤油漬けをする家庭が多いそうですが、無量寺は塩4%、生姜と昆布のシンプルな味漬け。そのお菜も四月に暖かくなり始めると酸っぱくなり、「産膜酵母」というシロカビが浮いてきます。毒ではないけれど、そのままではちょっと食べにくい。そこで味付けをし直します。五センチほどに切り、水でさっと洗い、半分はお酢と味醂に漬けました。残りの半分は酒、砂糖、塩で甘く煮直します。生姜やあたりめを入れると尚美味しい。そんな風に、お漬物も冬から春の味に変わっていきます。食卓に限らず、お客様が見えた時のお茶請けにもその時期ならではの漬物は欠かせません。

大本山永平寺顧問であった大洞良雲老師、私は生前お目にかかったことがありませんが、青山先生が修行道場にて大洞老師の思い出話をして下さいました。その一つに、大洞老師は新しい封筒便箋を使わずに必ず裏紙を再利用して手紙を書かれたり封筒をお作りになっていたというお話があります。青山先生も踏襲し、封筒や包装紙を捨てずに再利用をしてお礼状などを出し、紙一枚も無駄にしません。
愛知専門尼僧堂でも、掃除で使用した水を最後は植木の水やりの水となり、本堂で生けていたお花は鮮度が落ちると外のお墓用に生け直します。無地のタオルも、初めは食器用布巾として下ろし、少しくたびれてくると室内床用雑巾へ、もっとくたびれると外用雑巾、と布としての姿が保たれなくなるまで使用します。ビニール袋も破れたり取れない汚れが付くまで洗っては乾かし使い続けていました。一つのお役が終わってもすぐには捨てず、何度も別のお役を務められるように最後まで工夫をするのです。それでも存在意味はある。ありがとう、と言いながら一枚の紙、一枚のタオルに携わった環境や人の姿を思い浮かべるのです。

今年は4月14日にじゃがいもとラディッシュと花の種を蒔き、28日にネギの苗を植えました。こんな小さな畑でも肥料にしているコンポストの臭いを嗅ぎ付けてハクビシンが荒らしていくので暫くはハラハラしながら毎朝確認をしにいきます。それでも鵤(イカル)の声を聞きながら、もうすぐ来るであろうホトトギスの声を待ちながら畑に鍬を入れる喜びは先代から変わらないことだろうと思うとやめることは出来ません。私はただ鍬を入れて種を蒔く。育ててくれるのは太陽と大地と恵の雨であります。その自然の働きに感謝をして生かしていただく我が身。

今出逢っている物にわが生命をうちこみ、神経を通わせて仕事することこそ、心境一如、祇管ともいうのです。(内山興正老師『人生料理の本』)

自分の出逢う世界を生きることがそのまま「仏のいえ」なのでしょう。山内の作務や時折の壇務で坐禅や参学の時間は思うように取れませんが、出会う全てに生命をささげつくす行として精進する。人生を一炷の坐禅とし、瞬間瞬間の出会いを無駄にしないよう大切に頂戴していきたい所存です。

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いつも心温まるお気持ちをありがとうございます。 頂戴しましたサポートは真実に仏法のために使わせていただきます。引き続きご支援のほど宜しくお願い致します。