「何事も穏便に」は愛のなさの表れ
前回の投稿、「カオス化する幻想世界をどう生きるか」について、フェイスブック上で一言つぶやきコメントしたところ、この表紙の質問をもらいました。
中田のコメント
「何事も穏便に済ませようというのは、愛の無さのあらわれ。なので、私は誰が何を思おうと大切なことを伝え続けています」
ひょっとすると、この質問をくださった方は私の投稿を頻繁にシェアしてくださっているかな。だとしましたら、いつもありがとうございます。
違っていても、ご質問頂けて嬉しいです。
そうですよね。「穏便に済ませるのがいけないこと?」と思われる方、意外と多いと思います。今回はそのあたりを書いてみよう。
まず、「穏便」という用語には、穏やかという漢字が含まれるので、かなり誤解しやすいのです。
そもそも穏便と温和は全然意味が違います。
穏便とは、荒立てないこと、騒ぎにしないで処理すること、という意味があります。ですので、事なかれ主義と同じ。
よくドラマの台詞で、「頼むから、穏便な態度でやってくれ」と上司から部下にありがちですね。あれです。
穏便という用語を使う時、その意図は自分(達)の都合のいいように物事を進めていくためであって、さらにいうと自分(達)さえよければいいという思いが根底にある場合がほとんどです。
つまり、「何事も穏便に」というのは3次元的で自己中の強いあり方であり、4次元的な真の愛と調和のあり方ではないということ。相手の魂のことを真から考えていないんです。
相手の魂のことを真から考えているあり方とは、たとえば「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」ということわざがそれにあたりますね。
愛をもって我が子を崖から突き落とすという試練をわざと与えて、魂の成長を促します。
愛って様々な表現がありますが、高尚な愛ほど実は厳しい傾向があります。手放しの愛がまさにそうですね。手放すためには、相手(それは結局のところ自分になりますが)を深く信頼していないとできないので。
そういう意味では、どちらかというと私はこの獅子のように厳しい方だと思います。たまに耳障りのいい甘い言葉を言うこともありますが、大体が辛口です。ブログを読んで、ビビる人がいるかもしれないなぁと思いながら、いつも書いていますし、統合セッションでも、私のコメントを聞いて「痛い!」という方も中にはいます。しかし、そこに嫌味はなく、相手を傷つけようという意図がこちらにないので、ストレートに言葉が入り、そしてエゴが降参するようです。
それらは私なりの愛の表現であり、必要な方に届くと信じています。
このようなお返事となります。少しでも役に立てれば嬉しいです。
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