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「朝日新聞 それぞれの最終楽章」(1)「悼亡詩」について

6月1日から、朝日新聞の「それぞれの最終楽章」紙面で、「妻への十戒」(ブックマン刊)を連載で毎週、紹介してもらいます。朝日新聞デジタルでも読めます。(デジタル版は毎週日曜日午前9時にアップされ、24時間は全文を無料で見ることが出来ます。デジタル版の方が写真も文章量も多くなっています。原稿は朝日新聞・高橋記者の署名原稿です)
 せっかくなので、新聞の連載に合わせ、単行本で触れられなかったことについて、毎週、書いていきたいと思います。
……と、こういうことじたい、なかなか悩ましいことではありますが。
今回はそんな「悩ましさ」を解決するための中国人の知恵について――。

かつて、辛口コラムニストとして知られた山本夏彦さんは「人みな飾る」という言葉を残しました。自分の事は、それがどれほど誠実・正直に書いたと本人が思っていても「飾っている」から、人は自分のことは語ってはいけないというわけです。
 それなのに、本書をひとことでいえば「亡き我が妻は、強く賢く美しかった」という自慢話です。ちなみに、本書を読んだ義妹(妻の妹)には「本の中でお姉ちゃんは美人だ美人だと、書いてるけど、それは惚れた欲目。世間から見ればただのオバサンだからネ」と、笑われました。(多分、本当はそうなのでしょう)。
この意味で、私も死んだ妻を「飾って」語っているのです。

ただし、私が「飾る」程度なんて、実は甘い。
中国に「悼亡詩」という分野があります。
中国では、妻への愛情を公に表すことは忌避されましたが(男子がそんな軟弱ではダメということでしょうね)この悼亡詩として著すことだけは許されたと言います。
例えば北宋の詩人・梅尭臣は「人間(じんかん)の婦を見尽くすも,かくも美にかつ賢なるなし」と思いっきりノロケています。
「世界中のすべての女性を見わたしても、ウチの死んだ奥さんは一番キレイで賢かったんだから」というのは、そりゃ飾りすぎです。

なぜ亡き妻を語るのが「悩ましいのか」。山本夏彦さんに言われるまでもなく、自分自身でもそれが冷静さと客観さを欠いた「飾った」ものになるからです。他者に対し公にすることではないと、頭では分かっているからです。それでも、やはり、その人がいたことを書き残しておきたい。
そんなジレンマが悩ましいのです。
逆に言えば、だからこそ「どんなに人に笑われても、この中では、思いっきり亡き人を飾って詩に詠んでもいいよ」という詩のジャンルも生まれたのでしょう。「悼亡詩」というのは中国人が考えた、弱虫な夫のためのグリーフワークだったのかもしれません。

あなたがもし、喪失の悲しみの中で今、動けないで居るなら「書く」ことはその人に対する最大の追悼にもなるかもしれません。「悼亡詩」と思って書けば、どんなに「飾って」も許されるはずです。




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