思い通りならないことを山菜は教えてくれる。

山菜料理を量産するのは良いんだけど、妻は味見程度。子どもは苦味がダメで食べない。結局のところ食べるのは俺だけで自分で自分の首を絞めている。山菜料理が冷蔵庫の容量を占めて行くにつれてストレスも増えていく。毎年の悩み。

週に一回採れるかどうかの山菜だから、ついたくさん採ってきてしまうけど、こう毎日山菜を採りに行けるようになると、どうせ家族は食べられないのだから、ちょっとだけで良いということに気付く。それに芽を採り過ぎてしまうと枯れてしまい、来年の芽が生えて来ない。まさに足るを知る境地。

逆を言えば長期保存できないからこそ、その旬でしか食べられない価値がある。山菜は出会いのものであり一期一会。大切に、少しだけ、ありがたく味わおう。

一方でワラビ、ゼンマイは長期保存出来る。薄っすらと産毛に覆われ、綿毛を取ると母胎にいる赤子のようにはちきれんばかりの赤々とした裸体が現れる。最初に生命が誕生した約 38億年前のそのままの姿のよう。茹でると生き生きとしたエメラルドグリーンに変色して美しく輝くから不思議。

しかしそのままではアクが強くて食べられない。自らが毒をまとい他の生き物に食べられないための自己防衛手段である。山ウドなどは皮を剥かないでかじると苦味で口の中がビリビリと痺れるほど。

ワラビ、ゼンマイに話を戻すと、それを食べられるように木灰でアク抜きしてさらに天日干しして、何度も何度も揉んで、完全に乾燥させてから、水で戻して食べる。保存が効くのでお祭りや正月などのお祝いごととして料理する。

発ガン性があるような中毒性のある植物を食べられるようにそこまで手間暇を掛けて食べるのだから人間はすごい。地球外生物の何者かから食べ方を教わったのではないかと思うほどだ。

ワラビ、ゼンマイは収穫したその日のうちに処理をしないと針金のように硬くなって食べられなくなる。そのことを「山に帰る」と表現する。山のものだから里に持ち帰ると嫌がって山に帰るのだ。その前に茹でて処理をしろという教え。そして、ざっと茹でてから荒熱を取ることを「息抜きをする」という。これらは生き物としての敬意の表れなのではないかと思う。

山菜は思い通りにならなかったり、欲張ったり、利己的な考えでは持続可能な社会を維持することが出来なくなることを教えてくれる。

抗うことのできない自然に生かされているという原点。それに対する畏怖の念を教えてくれる。

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