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養老院サンバ

それはまだ私が出張に行って行って行きまくっていたころ、ちょうど月イチで大阪のニューオータニに行くのっぴきならない用事があったころのお話である。

自著「餃子のおんがえし」にも書いたが、私は客先と現地のうまいものが完全に紐づいている女だ。名古屋市内の担当先を回る際も「今日はA社とB社を回るから、先にAを片付けてからBの近くでパスタ食べよう」とか「C社に16時か〜。なら直帰することにして近くの焼き鳥行っちゃおう」とかほくそ笑んでいる女である。大阪なんて行ったらさあ大変だ。仕事の動線と食べたい店をどうしたら結びつけられるか、夜しか寝ないで考えているような女でもある。ただニューオータニの日のランチだけは、いつも固定だった。当時のニューオータニのカフェラウンジ「アゼリア」には、それはそれは私好みのパーコー麺があったからだ。

その日もいつものようにアゼリアへ入り、席に着くより前に早口でパーコー麺を注文。ふう。アポの15分前までここでくつろいで…などと段取りを考え、水を飲んでひと息ついていると、ふとこちらを見ている人に気づいた。あ、あの人。ドチャクソ有名な歌手の人じゃないか。めちゃくちゃガン見してくるんですけど?何?何なの?

有名な歌手の人(仮に名前を昴としておこう)は視線をそらそうともしない。ただじいっと、口元にはうっすら笑みを浮かべ、こちらを見ている。いったいどうしたんだろう。昴と私の接点なんて何もない。一方的に私がファンだったことはあるが、そんなの昴が知っているわけもない。耳が悪いからラジオが苦手な私が、中学時代に昴の番組(仮にタイトルを「異才凡才アホ」としよう)だけは必死で聞いてゲラゲラ笑っていたとか知るよしもない。高校の時に彼の曲(仮にタイトルを「近くで警笛を聴きながら」としよう)をギターで練習して妹にコーラスさせてたとか知るよしもない。なぜこちらを見ているんだろう。

まだ見てるかな?と私も見てしまうから、何度も目が合う。やだ、また目があっちゃった。うん、勘違いではない、私を見ている。ニヤリとして見ている。たまに頷いたりして見ている。あの目。そう、あの目は覚えがある。あれはたぶんあれだ。獲物を狙う目だ。私たぶん狙われてるんだわ。

何気ない顔をして、即座に妄想が始まる。え〜どうしよう〜誘われたらどうしよう〜。芸能人と付き合ったことないから怖いなあ。でも美味しいもの食べさせてくれそうだよねー。それならデートしたいなあ。バローロ飲ませてくれるかなー。五木寛之が松坂慶子に言ったみたいに「金沢の雪を見にいこう」って誘ってくれるかなあ。そしたら「香箱が好きだから年内にしよう」って言っちゃうなあ。昴は香箱好きかなあ。

ただ見られてるだけなのにこの妄想。頭の中は「一流芸能人と付き合うと食べられそうなご馳走」でいっぱいだ。最初のデートは和洋中どれにしよう…などと勝手な妄想に目がくらんでるうちに、注文したパーコー麺がやってきた。ひゃあ!相変わらず美味しそう!

ニューオータニのパーコー麺は、お手本のようなパーコー麺だ。透明感のある醤油スープ、品格あるたたずまいの青菜、端正に折り畳まれた麺がうっすらスープに透けて見える。

そしてパーコーである。ほんのりスパイシーな香りのする肉の唐揚げはパリッとした衣に包まれ、まだわずかにぴちぴちと音を立てている。まずは熱々のそれをひとくちで頬張る。ほう、ほう。熱い、うまい、脂、香り、肉の厚み、食感、塩梅、すべてが完璧。すべてが王道。

パリッとパーコーを今度は静かにスープに沈めると、たちまち衣はとろりと変化する。ああ、これもまた良い。そのままでも美味しい衣にスープが参加して、えも言われぬ味わいになる。パーコー最高!ニヤニヤニヤニヤ。

パーコーがラスイチになったところで、忘れてたことを思い出した。そうだ、私は昴に誘われたらどうしようか考えていたところだったじゃないか。今夜は先約があるが、何を食べさせてくれるのか、それ次第では先約はリスケしてもいい。金沢の雪を見に行ってもいい。昴、まだ私のこと見てるかな。まだ獲物を狙う猛獣の目で見てるかな。
そしてラスイチのパーコーをくわえたまま私は前方へ視線を投げた。

あれ

猛獣タイム終わり?

まだ一応、私のことは見ていた。見てはいたがまったく表情が違っていた。明らかに顔に「え、引くわ。キミそんながっついて食うタイプなん?熱々の揚げ肉にはぐはぐ噛み付くタイプなん?肉くわえたままこっち見る女なん?待ってー。引くわー。さっきのなしなし。はい、おしまい」って書いてあった。その後のことは記憶にない。

R.I.P


めちゃくちゃくだらないことに使いたいと思います。よろしくお願いします。