見出し画像

青の蒼の藍の底

 コンクリート塀の上の金網をよじ登ると、
 眼下にはしいんとした暗い水面が広がっていた。

 私が通う県立東高のプールは今どき珍しい50メートルプールだ。
 時刻は8月1日午前0時。
 背後から届く街灯の光が私の影を水面に僅かに映す。
 夜の闇とプールの端の境界が溶けて消え、延々と水面が広がっているようであり、それが如何にも不気味だが、立ち昇る塩素の匂いがプールだと気付かせて少しだけ安心させる。

 夏の夜は嫌いだ。
 じっとりと粘っこく暑さが絡みついてくる。
 金網の上の空気は、プールの水で中和されたのだろうか、いささか冷んやりとする。
 それを心地よく感じないのは、私がここに来た理由のせいだろう。


 今から一年前の今日、夏休みが始まったばかりのこの時間、親友の田中菜月は確かにこのプールに来た。

 そして消えた。

 「夏の夜のプールサイドには何かあるんだよ。」

 彼女は口癖のように言っていたが、何の説明にもなっていない。
 彼女がどうして消えたのか私は知りたかった。
 何よりももう一度彼女に会いたかった。
 だから来たのだ。


 プール内側のコンクリート塀の上に立つ。
 プールサイドまでの高さは2メートルくらいだろうか。
 目を瞑り、思い切って飛び降りる。
 じんとした痛みが足に響く。

 瞬間。
 身体が前のめりになる。 
 着地の勢いを殺しきれなかったのか。

 いや、そうじゃない。
 プールサイドが水面に向かって大きく傾いている。
 崩れた体勢を立て直す暇もなくプールの中心に向かって転がり落ち、水面に沈む。
 必死で水を掻くが、まるで重石でも付いているように身体は下へ沈む。

 おかしい。

 このプールの水深は1.5メートルのはずだ。
 しかし今、明らかにもっと深いところに引き摺り込まれている。
思わず目を開ける。

 上を見る。
 真っ暗で何も見えない。

 下を見る。
 水底に、ぼんやりと灯りが見える。
 水銀燈のようなオレンジが何かをぼうっと照らしている。

 目を凝らす。

 …あれは校舎だ。
 私が通う、県立東高の。

≪続く≫


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?