吉川宏志『雪の偶然』書評


加藤治郎
 
 
 本書は著者の第九歌集である。二〇一五年から二〇二二年の五五五首が収録されている。現実と修辞が高い次元で融合した歌集である。

  言葉より狂いはじめし世にありて紅葉は何の内臓ならむ

「時代の危機と向き合う短歌」というシンポジウムに深く関わった吉川だから説得力がある。思いつきの発想ではない。思想+景という短歌の様式を踏まえている。言葉に先導されて世界が狂い始めた。政治家の欺瞞に満ちた言葉で現実に人々は死に追いやられている。共感できる。が、歌はそこで止まってはならない。その先が歌人の本領なのだ。紅葉という和歌の美意識の精粋である歌語を現実に引きずり降ろしている。その紅は血を喚起する。何の内臓だろうか。鹿や猪ではあるまい。言葉に関わる生き物すなわち人間の内臓である。戦争やテロで爆発に遭遇して噴出した内臓である。伝統的な美意識と現実の陰惨さが凄まじく照応している。この歌を読むと言葉は決して無力ではないと分かる。言葉から狂い始めた世界ならば、言葉から世界を再生できるのではないか。吉川の歌はそう語っている。
ところで「内臓ならむ」は現代仮名遣いでは「内臓ならん」である。この歌に限ったことではないが「ん」では違和感がある。吉川にはそういう判断があるのかもしれない。言葉の混淆する現代短歌的表記と言うべきか。

  一生があの樹なら葉のいちまいの今日が暮れゆくシャツ買いしのみ
  吹雪からはぐれし雪は家裏をただよいながら草に消えゆく
  草枯れし川原を来たり重なりし山が二つに分かれはじめる
  氷雨降る 人をあきらめさせるため〈偶然〉という言葉使いぬ

「雪の偶然」一連から引いた。長谷寺の歌もある。ロシアのウクライナ軍事侵攻直前の歌もある。日常と旅先と世界がシームレスにつながっている。こういう計らいのない構成が面白いのである。
一首め。一生と樹・今日と葉という比喩が明快である。シャツを買うという日常性でまとめたところが巧い。二首め。緻密な写生だがそれゆえ幻像を思わせる。あるいは奇跡的な風景なのだ。三首め。歩いてゆくにしたがって山の見え方が変わってくる。身体の移動と視界の展開に妙味がある。四首め。偶然の前に人は無力である。氷雨が痛切である。

初出 角川「短歌」2023年8月号

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