加速する口語


                

 短歌に口語が透して三十年余となる。短歌史としては、ライト・ヴァース期すなわち一九八五年以降ということになる。現在では口語は当たり前の表現となった。それゆえ危うさもある。

 もともと口語の歌が求められたのは、自分の感情・気持ちを的確に表現するという真っ当な願いによる。文語では叶わないのである。口語への熱意があった。口語化と同時に新しい詩想を獲得したのである。新しい詩想のない口語短歌に魅力は乏しい。難しい時代になった。

 口語の韻律の一番の特徴は促音である。「っ」で表される。弾ける感じがある。それによる躍動感が自分の感情に相応しい。そう思うことがある。促音による新しい韻律の獲得が口語短歌の財産である。

  風が麦にすこし遅れて胸に吹くわらっても黙っている 君ばかり  

平井弘『顔をあげる』(一九六一年)

 麦が揺れている。風が見える。すこし遅れて風が胸に届いたのだ。視覚から触覚に転じている。きめ細やかである。ぼくと君は田園のなかにいる。君は笑っても言葉を発しない。黙っている。微妙な心情である。そんな君がぼくの心を占める。この歌では「わらっても」「黙っている」という二ヵ所の促音が響き合う。上句からリズムが転調している点も見逃せない。

  なめらかな肌だったっけ若草の妻ときめてたかもしれぬ掌(て)は

佐佐木幸綱『群黎』(一九七〇年)

「若草の」は「つま(妻・夫)」などにかかる枕詞である。若草の柔らかく初々しいイメージは妻に相応しい。音優位ではなく実感的な枕詞と言えよう。「だったっけ」という促音の畳み掛けが強烈である。揺さぶられる韻律だ。恋人のなめらかな肌を思い出している。失恋の歌だろう。自分が振ったのかもしれない。実らなかった恋だが、何やら充足感がある。妻と決めていたかもしれない人の掌と幾分寂しげに振り返るのだ。現代の恋が枕詞によって千年の時空を越える。ここには既に口語だけでは足りないという判断があったのだろう。

  水風呂にみずみちたればとっぷりとくれてうたえるただ麦畑

          村木道彦『天唇』(一九七四年)

 水風呂だから夏なんだろう。旅先の歌だ。自宅の風呂ではない。どこか開放感がある。大浴場である。サウナがあって、その後の水風呂である。水・みず・みち、というミの音の連なりが心地よい。水とみずの表記の違いも周到だ。みずには柔らかい質感がある。一首の要は「とっぷり」である。特異な量感がある。口語ならではのオノマトペだ。日が暮れて空が紺色に深まる。なにか歌いたくなるような気分だ。旅先の風景である。麦畑は実景かもしれないし、幻影であればなお美しい。

  「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの

俵万智『サラダ記念日』(一九八七年)

 短歌におけるライト・ヴァースを象徴する歌である。会話体を取り込んでいる。〈なれよ」だなんて〉と巧みに韻律に乗せている。「嫁に来ないか」(新沼謙治)を思わせる愛唱性。缶チューハイというコマーシャルな大衆性。いずれも軽い。「二本で言って/しまっていいの」という連続する促音がリズミカルである。句跨りで少しハラハラしながら、ぴったり着地するところも上手い。この歌から現代短歌の口語化は進んだのである。

  雨だから迎えに来てって言ったのに傘も差さず裸足で来やがって

盛田志保子『木曜日』(二〇〇三年)

 弟だろう。私は電話かメールで「雨だから迎えに来て」と頼む。現れたのは傘を差さずに来た弟である。姉の傘を持ってくるのが普通だ。しかも裸足だった。呆れて物も言えない感じだろう。あまりに自由でお笑いの世界でもここまでは行けない。「来てって」「言った」「来やがって」と促音が三回出てくるのは珍しい。一首全体が跳ねている。それにしても「来やがって」は荒っぽい。口語ならではの感性である。文語では表せない。

 現在、口語はますます加速している。口語の韻律も多彩になっている。どう詩想を保持するかがポイントだ。

「歌壇」2022年11月号掲載

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