言葉を危機に 『びあんか』をめぐって

『びあんか』(一九八九)は、水原紫苑の処女歌集である。

    水槽の魚運ばるるしづけさを車中におもへばたれも裸体なり
    菜の花の黄(きい)溢れたりゆふぐれの素焼の壺に処女のからだに
    浴身のしづけさをもて真昼間の電車は河にかかりゆくなり

 のびやかな調べで言葉に無理がない。が、力強い。リラックスしている感じを共有できるだろう。偶然だが、一首めと三首めは「しづけさ」を軸に裏返しの構成になっている。
「水槽の魚運ばるる」という動的状態を「しづけさ」の中でとらえるのは、詩の質だろう。それを、揺れ動く「車中」で思っている。すると、車という器は、水槽に等しく感じられるのだ。
「裸体」という言葉の出方は唐突である。しづけさを打ち破るようなアクセントがある。「たれも裸体なり」という発想は、水槽の魚と車中の乗客、そしてすべての生きものとを重ねあわせたのだろう。車中の自分もそうなのだ。魚と裸体が遠く響きあっている。
「浴身」は、水滴のしたたるような裸体をイメージさせる。電車が肉体をもった何か艶(なまめ)かしいものに感じられるのを止(と)めることはできない。「河にかかりゆくなり」が実に危うくて、ぞくぞくする。神経の細いところにするすると入ってくるような感じである。
 二首とも比較的アプローチしやすい作品だ。『びあんか』を通読するとわかるが、「車中」とか「電車」という語彙は、歌集の中では雅語から遠い例外的な存在である。仮に俗語と言っておいていいだろうが、このあたりが『びあんか』の語彙の限界点であろう。それ以上は、俗に傾かない。
 もう一つ言えば、「車中」という他者と接触するような場も、例外的なのである。その電車に高校生やらサラリーマンが乗っているわけではない。高校生とかサラリーマンとかの猥雑さを排除するかどうかは詩的決断であるが、ともかく『びあんか』の電車にはそういった人たちはいない。ただ、「車中」というのは、象徴的にこの歌集の入り口になっているだろう。この場合の入り口というのは、外界との接触点というほどの意味あいである。

    坂下るわれと等しき速さにて追ひ来る冬の月の目鼻や
    佯狂(やうきやう)はさびしからずや噴水の白きわらひも雲にとどかぬ
    殺してもしづかに堪ふる石たちの中へ中へと赤(あか)蜻蛉(あきつ) ゆけ
    六月は水仙の花咲かぬ朝、象(ざう)といふ字のおそろしきかも
    にんにくと夕焼 創りたまへれば神の手うすく銀の毛そよぐ

「月の目鼻」とか「噴水の白きわらひ」というように無機物を擬人化するのは、普通だと幼稚になってしまうところだが、この場合、何とも薄気味悪い実感がある。石を殺すという発想も同様だろう。ちっとも作者は面白がっていない。無機物だけでなく「象」という文字にまで、それは及んでいる。文字を怯える感性とは、ひどく細くて危うい。
 にんにくと夕焼という取り合せは詩的直観が選択したものだが、尋常でない。このあたりに作者の内側から滲み出たものを感じる。そういったものが出てしまぅ点において歌をつくる行為は、精神的なリスクを引き受けるものであった。神経の束が差し出されているようで、痛々しく感じられる。
 何か内部では破綻している。あるいは、バラバラになろうとしている。それを鋼(はがね)の意志でぎゅっとつなぎとめている。そんな印象を受ける。崩壊とか破綻は最も恐れるものであった。ほとんど定型を遵守している歌の端正さがそれを示している。『びあんか』には強靭さと臆病さが同居しているように思われる。
『びあんか』からは「碧空」「炎天」「先の世」「方舟」「桜の森」「断崖」「蒼天」「天界」「天上の淵」「夕虹の彼方」といった詩語を立ち所に拾うことができる。それは、城壁のようなものだ。
 水原の言葉は、そういう場、つまり詩語の体系では決して傷つかない。自分の言葉を危機に晒すことがないのである。

 つまり、水原の詩語は、きわめてクローズドである。もちろん純度の高い佳品を生むだろう 一方、詩としてはフラットな感じをもたらすリスクが常につきまとう。歌集マクロで視たとき 「天界」「天上の淵」といった水準の場においては、言葉が本来もっている輝きが喪われてしまうのだ。

    いちにんを花と為すこと叶はざる地上をりをり水鏡なす
    青空に煙が似合ふ不思議さをいつの紅葉(もみぢ)の世に誌(しる)せしか
    木枯は追ふのみの生(せい) わたくしが逃げし孔雀のやうに追はるる
    たそがれの鏡音(おと)なく泡立ちぬ 逢ひて逢はざるわたくしのため

 花と水鏡のイメージは平坦である。「青空に煙が似合ふ」というポエジーが「紅葉の世」とう典雅な世界によって消失してしまっている。「逃げし孔雀」という美しいイメージがいっこうに立ち上がってこないのは「木枯は追ふのみの生」という観念に潰されているからだろう。鏡が泡立つという幻想も、下句の決り文句によって壊されている。
 本来なら喩として機能するはずの言葉が、喩にならない。ポエジーとしてフラットな感じなのである。これは、一首の内でもそうだが、水原の詩語の体系の中では、より深刻な問題であろう。言葉を危機に晒さないということが、逆に詩を危険な所に追い詰めているのだ。
「水原さんの歌にコカ・コーラの瓶が出てきたらおもしろいよ」といった意味のことを告げたことがある。『びあんか』においては、コカ・コーラの瓶が喩として機能することは疑いない。

   蒼天ゆ非在のさくら落ちにけり鋼(はがね)のごとく魚(うを)のごときか

という歌がある。歌の姿としてはほぼ完璧な出来だろう。ここでいろいろ操作するのが適切でないことはわかる。敢えて言えば、こういうことだ。
さくらがもっと別なところから落ちてきたらおもしろいし、蒼天からだとしたら何か違うものが落ちてきたら楽しいだろう。高層ビルからさくらが散ってきたり、天からコカ・コーラが降ってきたらどうなるか。一首の中でなくてもよい。この歌の隣にハンバーガー・ショップの歌が出てきたら、どうだろう。そんな空想をしたくなる。
  そして、そんな異物が入り込んできたら、『びあんか』的な世界は崩壊するだろう。ダイアモンドがたった一点からの一撃で粉々になるように。雅語が都市の空気に触れたらどうか。一本のコカ・コーラによる世界の崩壊。その後に始まるものを熱烈に待つ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?