氷山は溶ける。濱松哲朗、中島裕介に

「詩客」「短歌時評alpha」の濱松哲朗「氷山の一角、だからこそ。」と中島裕介「権威主義的な詩客」を折に触れて読んでいる。
二人の論考は自らの心身を削ったものである。私は骨身にこたえた。
「文芸の社会や歴史の理解が適切にアップデートされているか」(中島裕介)の指摘どおり、私自身の怠りが不用意な言動の根源にある。
その叱咤にどう報いたらよいか。私はそれを助言と受け止め、自分を変えてゆく。
その第一歩を「短歌往来」の「ニューウェーブ歌人メモワール」で示すことが直近の道だ。
連載は、1985年のライト・ヴァースから1987年の『サラダ記念日』に進んでいる。まもなくニューウェーブについて書くことになる。

ただし、回想録自体の問題は、すでに斉藤斎藤が指摘している(「歌壇」2019年7月号)。「実在の人物を巻き込みこみながら書く」ことの危うさである。難しい。
「他者の主体性を踏みにじらない方法での回想だって可能だったはずし、そういうものを読みたいです」(濱松哲朗)という声に応えたい。

「最前線に立つ者であれば、常に批判の矢面に立ち続け、自身を解体し再構築し続けていってほしい。あなたは氷山の上に立っていて、私はその氷山の海中に隠れた部分についてあなたに伝えるために、ここまで海を泳いで渡ってきた」(濱松哲朗)

氷山は既に溶け始めている。
濱松は、1988年生まれである。これから書く時代だ。

濱松の声は、未来から届いたのだと思う。

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