中島裕介に応えて(4)
「詩客」に掲載された「短歌時評alpha(3) 権威主義的な詩客」について述べたい。
1. ミューズ発言について
シュルレアリスムという文学運動が女性アーティストに与えた影響は、功罪相半ばするものであった。女性アーティストの社会・家庭からの自立の契機となりながらも、一方で「ミューズ」という語に象徴されるように女性を過剰に讃美し、それが芸術における自立の妨げになった。概括すればそうなるが、個々のアーティストの相互関係は多様である。両大戦間の混乱の時代において、多彩なアーティストが相互に影響を与えながら豊かな作品群を遺したことは疑いようもない。
創作活動において、他者の存在にインスパイアされることはあり得ることだ。しかし、そのメタファーとして「ミューズ」という語を選んだことは、現在の状況において配慮に欠いたものであったと言わざるを得ない。
2.ハラスメントについて
「問題点3~6については究極的には、加藤と、水原や大塚との、ネットを介した直接のハラスメント(後で詳述する)であり、他人が口を出すべき段階に至る前に当事者間で謝罪等のやり取りが行われるべきものである」という指摘について述べる。
水原さん、大塚さんには、お詫びした。両者とも和解している。大塚さんは「気にすることはないよ」と笑ってくれた。私は、安堵すると同時に心底申し訳ない気持ちになった。不愉快だったことは容易に想像できる。それでも、私に配慮してくれたのである。
しかし、今回の発言は「加藤の書き振りが、大塚個人の内面や性格に対して断定的に(乱暴に)語るものであったため、同様の目線が加藤から(そして、加藤以外の者からも)向けられるのではないか、という恐怖を、読者・フォロアーに招いた」と中島が指摘するとおり、個人間の問題に止まらない。誰でも読むことができるネット上(Twitter)の発言だったのである。
全ての人の尊厳を尊重すること。全ての人と対等な関係であること。言うのは容易いが、いついかなるときもそうであることは容易くない。今、私は、失言を繰り返しながらも、自分を変えてゆく途上にある。時間がかかることなのだ。
3. 権力について
「加藤が列挙した事例だけでも、有償無償を問わず、『選をする』という、権力の典型的発露ではないか。政治家や資本家として人に指示できる関係のみを〈権力〉と呼ぶのではなく、『世に出ることばやヒト』を選ぶことで『世に出ないことばやヒト』を区別できるのもまた権力である。
出版社が新人賞を開催し、特定の歌人が協力するというのは、出版社とその歌人たちが新人賞受賞歌人に対して権力を再分配することに他ならない」
という中島の指摘は、歌壇・結社構造の根幹を問いかけるものである。私は、選が権力であるという問題意識は薄かった。36年間、結社に所属し、それを当たり前の仕組みとして受け入れてきた。また、16年間、結社における選者という立場にあり、毎月、選を実施してきた。選をされる/選をする環境の内側に居たのである。選という行為のもつ危うさを深く顧みることはなかった。結社のヒエラルキーが本質的に現代に相応しいものかという危機感を持つべきであった。
若者の結社離れが言われて久しいが、根本にあるのは、結社のヒエラルキーへのNOではなかったか。作品の発表の場は、ネット上に数多くある。紙媒体への展開もネットプリントという安価で簡便な手段がある。信頼できる仲間と同人誌を発行することは意義のあることだ。結社に所属する必要はないと考える人がいても不思議ではない。
しかし、一方、ネットにアクセスできない人々は数多くいる。同人誌に参加できるのは、ごく少数である。また、伝統的な師弟関係を尊ぶ人もいるのだ。
一つの苦い出来事があった。同じ短詩型の結社で起こった高浜虚子と杉田久女の件である。久女は「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」という句を残した俳人である。久女にとって、俳句は自己の存在を発揮する詩型だった。久女は、虚子を敬愛し精神を捧げた。「ホトトギス」において虚子は絶対的な存在だった。典型的な権力者と言ってよいだろう。虚子は、久女の才能を認め同人とした。しかし、やがて排除すべき存在となった。虚子は、久女が懇願した句集の刊行を拒絶した。そして、1936年、虚子は何の予告もなく「ホトトギス」同人から久女を除名した。結社においては死刑宣告に等しい。久女は奈落に落とされたのである。師弟関係が絶対となったときこういう悲劇は起こり得る。
私は、選が最も単純で厳しい批評であることを望む。また、結社が多くの人々へ作品発表の場を提供する組織であることを望む。そして、結社の師弟関係がこの伝統詩を未来に繋げることを望む。そして、不当な力を自分から遠ざけたい。道半ばであるというほかないが、光の差す方向に歩いていきたい。
(了)
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