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デグーとの馴れ初めとペットの幸せについて日記


デグーと暮らすと幸せになる10の理由
という記事を読んだ。
多分そんな感じのタイトルだったと思う。
仕事で病み、体がボロボロになった頃にせめてもの救いをとお迎えしたハムスターがあっけなく死んで、無の状態でネットを見ていた時に見つけた記事だった。
デグーの存在はSNSから情報を得ていた。
「少し可愛めのネズミ」その程度の認識であり、次々と情報が流れるSNSの海に沈んでしまうほどの印象でしかなかった。

来年やめる、来月辞める、と先延ばしにしていた仕事とようやく決別した日、家に迎えてから2ヶ月ほどのハムスターを膝に乗せ、これからは毎日一緒に過ごそうねと泣きながら健やかなハムライフを夢見ていた私は膝にいるハムスターが命を蝕むほどの腫瘍を抱えているとも知らず、鬱々とした日々の終止符を夢見ていた。
1ヶ月後にハムスターは死んだ。何もしなかったわけではないし、なんなら異変に気がつくのも結構早かった方だと思う。しかし弱ったハムスターの小さな身体にメスを入れられるはずもなく、日々大きくなる腫瘍と命の火が弱くなっていくハムスターを1日中家で眺めては泣いていた。そうして健やかとは程遠いハムライフはたったの1ヶ月で終わり、程なくして無職の女と空のケージだけが残った。
当時彼氏だった旦那は、まだ家庭感もなく外の世界に大忙しで、内側に篭ってしまっていた私はますます寂しさを募らせていた。

ハムを失い、虚無の日々。そんな時に見つけた冒頭の記事。内容は、デグーの可愛さについてひたすら述べているだけのものだった。可愛いイコール幸せ、は少し安直すぎでは、と思った。でも、デグーの魅力を伝えるには充分であり、デグーについて考える機会をくれた。
そういえば以前、ハムスターの砂を買いに行ったアングラなペットショップにデグーが1匹いた。滑車をストイックに走り込む姿を30秒ほど眺めたが私のアンテナは反応せず、そそくさと砂を手に取り会計し店を出た。生のデグーとの初対面はその程度のものだった。
デグーって知ってる?不思議な生き物だよね、と彼に写真を見せると「こいつ、いいな」と食い気味に興味を示した。ペットショップで見かけた話をしたところ、次の休みで行こうと強引に話をつけられ、気がつくと私は砂を買ったペットショップにいた。そしてあの時滑車をストイックに走っていたデグーが値引きされ、下段の隅の方にいた。相変わらずデグーは1匹だけだったので、同じ子だとすぐに分かった。前回ショップを訪れたのは2ヶ月前で、その時はわりと目立つところにレイアウトされていたのに次々と入荷する新入りたちに隅へ追いやられてしまったようだった。
すでに生後半年経ち、餌箱で丸まって眠るぼさぼさのデグーを見るや否や店員さんに声をかけた彼は、かわいいかわいいとデグーを見つめていた。対して私はそんなに興味が持てずにいた。
すぐにやってきた店員さんがデグーを出してくれた。怯える様子もなく、彼と店員さんに撫でられて腕をピンと伸ばしニヤついたような顔をするデグーを見た瞬間、ハムと共に止まっていた私の時間が少しだけ動いた。全てを遮断していたアンテナが反応した。
「この子はきっと君の友達になってくれるよ」と言う彼の言葉が後押しとなり、あれよあれよとデグーを飼う流れになっていた。

そうして始まったデグーライフ。
実家で犬を飼っていた経験はあるけど、お世話は母の役目であり自分で育てるのはハムスターが初めてだったので、このデグーは2匹目のペットになる。2匹目なので、名前は次郎にした。ペット保険に記入する名前は彼の遊び心で慈郎になっていた。保険証には慈郎と書かれている。
デグーについて何も知らなかったので飼育書やブログをたくさん読んだ。どの記事にも「デグーが来てくれてから毎日が幸せだ」という飼い主の言葉が添えられていた。
その意味はすぐに分かった。先日読んだネット記事"デグーとくらすと幸せになる10の理由"もあながち間違いではなかったなあと反省した。もう、とにかく可愛い。むしろ10どころではない。
次郎は人に慣れていて、迎えた初日からピルピルと鳴いていたし、触らせてくれた。
可愛がれば可愛がるほど信頼してくれる存在にずっと沈んでいたこころが救われた。
次郎を迎えてから1ヶ月後、色々あって泥酔して家に帰ると、次郎がケージからのそのそと出てきて私の腕に乗り、洋服を握りながら眠った。初めて抱っこしたまま眠ってくれた日だった。愛おしすぎて酔いも冷めた。小動物とは名前の通り小さい動物だが、自分の何十倍もの大きさの人間(しかも雑食獣…獣?)に身を委ねてくれる。その無防備さと天真爛漫さは人間社会に疲れている私に大きな幸せをくれた。また、彼氏が旦那になるときも同じ時間を過ごしてくれ、旦那と喧嘩したときも次郎がいてくれて助かったことが何度もある。私や旦那にとって潤滑油のような次郎の存在は生活そのものに大きな影響を与えてくれていた。病めるときも健やかなるときも慈しむことを誓いますか、とわざわざ契りを交わさなくとも全て受け入れ側にいてくれるのだ。
次郎がくれる幸せはたしかにある。しかし果たして私たちは次郎に幸せをあげられているのか?そんな疑問がふと沸き起こる。
この子はうちに来て幸せなのだろうか、という根暗なペット飼いあるあるの悩みだ。時間を共に過ごせば過ごすほど、病気や怪我などに直面するほどその思いがチラつく場面が増えてくる。先代のハムスターなんて特にそうだった。彼女はうちに来て幸せだったのかな。
私たちは数いる動物の中から個体を選んで、意思を持ってお金を払い、ケージに入れて家に置いている。行為だけ取るとものすごいエゴだ。
先日、お腹にできた腫瘍切除の手術をし、傷が治るまでエリザベスカラーをさせて、自由が効かないことや術後の痛みから元気がなくなる次郎を見たときは本当に、マジで私は何をしてるんだ、と悲しい気持ちになった。手術が次郎のためなのか自分のためなのか分からなかった。今はすっかり治ったが、本来なら自然の中を駆け回り、弱肉強食の中で理を持って生きていくはずの動物を、自分の、しがない人間のエゴに付き合わせていいのか?そう思ってしまう。愛でるということは食物連鎖ですらない。だからなるべく動物に対して適切で快適な環境を整え、心を鎮めるのだ。自分の身勝手な振る舞いを肯定するかのように。まるで贖罪だ。それが飼い主の務めだということは間違いないはずなのになんだか自信が持てない。
でも、今目の前にいる次郎はそんな事どうでもよさそうに眠っている。
エゴに対して罪の意識や責任感を持つことは決して悪くないけれど、それが、この寝顔に対して誠実な態度なのかと言われると少しわだかまりが残る。とはいえ、難しく考えすぎなのでは?とこの思考を放棄してあるがままを楽しむだけというのも性に合わない。
共存、ギブアンドテイク、義務、なんとなくわかるけれど、私にはまだ腑に落ちるほど理解はできない。
今はただ健やかに過ごせる"今この瞬間の時間"と、これまで蓄積してきた"過去の時間"に感謝して大切にしていくことしかできないのだ。

今、家には次郎と、モルモットが一匹いる。
ロン毛なので名前はロン。穏やかで大人しく、動く毛玉のようで見てるだけで心から癒される。
次郎を迎えた時は多少なりとも必然性があったように思えるが、ロンは少し欲張って迎えた存在なのでますますエゴみが強い。
それでもロンは少しずつ、飼い主という存在を認識し、歩み寄ってくれている。
彼らは純粋に生きている。
その純粋な生き物を守るという意味で私はまた心が救われる。この喜びそのものが、彼らの幸せに繋がってくれるのだろうか。そもそも、純粋な彼らを幸せという概念に囚われる人間に寄せて考えること自体がおかしいのかもしれない。
理屈を越えた、幸福の循環の中に身を寄せられるようになるまで、もう少し時間がかかりそうだなあ。今はとにかく愛情を注いで、環境だけでもちゃんと整えよう。


大好きな2匹へ

2021.4.20

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