見出し画像

概念戦争について

 メモのつもりで書いていたら、なんか長くなってしまいました。

概念戦争は、概念闘争の歪んだ形

 「概念戦争」という言葉は、好木陣太呂氏が『ユークリッド空間の焚き火』という哲学書で提唱した概念である。
 しかし、この言葉はすでに『終わりのクロニクル』というアニメで使われていたらしい。
 その時の意味はこういうことのようだ。

========
『終わりのクロニクル』(おわりのクロニクル)は、川上稔による日本のライトノベル。イラストはさとやす。電撃文庫(メディアワークス)より2003年6月から2005年12月にかけて刊行された。

○概要
著者による架空の世界観「都市世界」における「AHEAD」時代を取り扱った作品。
最終巻の出版を作中の決着の年月に合わせるという手法がとられている。

○あらすじ
第二次世界大戦という歴史の裏側にもう1つ、決して表に出ることのない戦争があった。平行して存在し干渉しあう性質を歯車に例えてギア(G)と呼ばれる11の世界が生き残りをかけたその戦争は、全ての物事の究極の理由「概念」を奪い合い滅ぼすことから概念戦争と呼ばれた。そして概念戦争に勝利した最低の世界、「Low-G」に全てが隠蔽されてから60年、ある問題が起きた。

Low-Gのみが所持する「マイナス概念」の活性化。それにより、今や唯一のGとなったLow-Gは再び滅びの道を歩み始めた。滅びを回避するには、かつて滅ぼした10のGの概念の力が必要だった。概念戦争を知り、10のGを滅ぼした組織「UCAT」は、各異世界の生き残り達との交渉のための専門部隊全竜交渉部隊(チームレヴァイアサン)を編成する。

1人の少年は祖父からその代表たる役目と権利を譲られ、「自分が本気になるために」交渉役を引き受ける。自ら悪役を名乗る少年、その名を佐山・御言。全ての遺恨を収め世界を救うための交渉、全竜交渉(レヴァイアサンロード)が、

「佐山の姓は悪役を任ずる」

その言葉とともに始まる。

Wiki「終わりのクロニクル」より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%AB
========

 だから、概念戦争という言葉は使わない方がいいかもしれない。好木陣太呂氏が使っている「概念戦争」という意味とはまったく別物だからだ。
 好木氏は、むしろ概念の「戦争」というより、言葉と概念の間の「闘争」という意味に重きを置いている。だから「概念闘争」と呼ぶべきなのかもしれない。
 概念闘争の状態が抑えられなくなると、それが膨張して、武器を持って人を殺すことを国家の名前で行うことに何の抵抗もなくなる。ニーチェが言う所の普通の人ならなしえないことが国家の名前で普通の人になしえてしまう状況。それが概念戦争の状態である。概念闘争の歪んだ変形としての概念戦争。それは、本末転倒、倒錯とも言える。
 人の命を奪うことに抵抗がなくなる倒錯までは、むしろ「概念闘争」と呼ぶべきなのかもしれない。ただ、概念闘争は概念戦争を準備する可能性があるものだ。
 しかし、概念闘争に人びとが勝利すれば、敵をも同人として平和に暮らすことができるだろう。
 「同人」というのは、ドジャレ句会の同人というときの「同人」である。趣味で繋がる関係になる。そこには裏切りはほとんどない。趣味に芸術性を持たせると、句を一行で書くのか、三行で書くのかで句会が分裂したりする。これ、ほんとにあった俳句の歴史。
 同志とか親友なんて関係は危なっかしい。裏切りや過剰な依存関係が待っている。概念闘争の後は、同人がいいんじゃないかと思う。

概念闘争

 概念闘争という言葉を使った哲学者はこれまでないようである。
 なぜかはわからない。
 概念闘争を簡単に言葉で言えば、ソシュールのシニファンとシニフィエを人びとが共有するときに生まれるコンフリクト(葛藤)とその克服ということだ。簡単な意味。
 例えば、今、学術会議の6人の会員を首相が任免拒否した問題がある。
 そのときに菅首相は「総合的、俯瞰(ふかん)的な活動を確保する」ためと改めて述べたうえで、「(学術会議は)広い視野に立って、バランスの取れた活動を行い、国の予算を投じる機関として国民に理解される存在であるべきだ。こうしたことを念頭に置きながら判断を行う必要がある」と説明した。
 このとき菅首相が使った「総合的、俯瞰的な活動」「バランスの取れた活動」という言葉とその意味。首相が使った言葉の文字、発音は国民の受け取るものと同じだろう。しかし、その意味はどうか?
 首相は「総合的」「俯瞰的」「バランスの取れた」という言葉をどのような意味で使ったのか? それが国民と共有されていない。
 むしろ首相の使った意味によっては激しい闘争が起きることが予想される。
 「総合」とは、大辞林によると、「ばらばらのものを一つにまとめあげること。 ⇔ 分析<みんなの話を-して判断する>すべてを合わせ持つ」という意味だ。
 「俯瞰」とは、大辞泉によると、「高い所から見下ろし眺めること。鳥瞰。<ビルの屋上から市内を俯瞰する>」という意味だ。
 「バランスを取る」とは、精選版 日本国語大辞典によると、「物事をほどよい状態に保つ。調子を取る」という意味だ。
 首相は、バラバラのものをまとめあげ、高い所から見下ろし眺め、物事をほどよい状態に保つような活動をするために、学術会議の6名の任命を拒否したのか?
 では、どういうバラバラものをまとめあげようとしているのか。
 高い所から見下ろしているというのはわかる。一国の首相だから。では物事をほどよい状態に保つ活動とは何なのか?
 こう考えると、これまで起きてきた事象、6人の社会的な発言から安保法案や機密保護法への反対、軍事研究への反対声明こういうことがバラバラであり、それをまとめあげ、ほどよい状態にするために6名を外したということになるのではないか。政権の都合のよいようにバランスを取るってこと?
 違うなら、どういうことがバラバラであるものをまとめ、物事をほどよい状態にすることなのかを説明すべきである。
 これは避けられない概念闘争なのである。
 言葉とその意味。人類は言葉を発明したが、それは類として意思疎通するためなのである。
 概念闘争を避けていけないのだ。わかり合うために言葉を尽くさないといけないのだ。

闘争理論

  しかし、これまでの哲学者は「概念闘争」という言葉は使っていないが、「闘争」という言葉で似たことを考えてきた。イデオロギー闘争と言う言葉をマルクスやエンゲルスは使っているようだが、好木氏の使う「概念闘争」と意味が違う。
 闘争の概念は古くは、ヘラクレイトスの時代からあった。
 ホッブスは、「万人の万人に対する闘争」という言葉で、市民社会を考える思考実験で、自然状態における人間の有様を表すために持ち出した。
 ヘーゲルは意識と自己意識において「闘争」を考えた。『精神現象学』では、生死を賭けた闘争として、内面性と外面性との相克について描写する。
 マルクスは階級間の闘争を重視し、それがイデオロギーの闘争として現れると考えた。経済が下部構造として、すべてそれに規定されると考えた。好木氏はそう考えない。それは心理学的に考えると簡単だ。優柔不断なのは滑り落ちるプチブルジョアだからではない。その人の性格形成で、家庭環境は要因の一つにすぎない。優柔不断な人の多い家系ならそのほうが強い要因になる。プロレタリアに優柔不断な性格の人が少ないってことはない。

 ニーチェは文化間の闘争や生きる上でニヒリズムとの闘争の重要性を語った。その後もブルデュー、レヴィ=ストロース、レヴィナスなども「闘争」概念を使った。
 好木氏が問題にしているのは、むしろ言語論における「対立」の問題に近いのもしれない。
 ソシュールは《現象》と《単位》をほとんど同義で使っていた。
 例えば、英語のfoot/feetの対立関係を考える。feetという語に複数なる概念を与えるものは、footとの対立現象以外の何物でもない。feetに内在するいかなる特質とも無関係である。体系に依存する価値とは、これらの辞項間に《対立》を生ぜしめる《差異》である。
 ソシュールはこれを形相と実質の関係で言語学的に分析した。
 しかし、これは言語学の問題ではなく、哲学の問題だと思う。形相が実質的にはゼロであるとか、二つの実質をもつものがあるとか、ソシュールはデンマーク語とかも研究したらしいが、そんなことはどうでもいい。むしろ、ソシュールがそういうことを言葉で説明していることが重要なのだ。みんなに小難しい言語の世界をソシュールの言葉で理解してもらっている。そのことが天才ソシュールを人類に返す試みなのだ。
 対立は避けられない。いつでも起きる。言語でも国家間でも夫婦間だって。
 でも、克服できる。いや、それはほとんどの場合ということかもしれないが。粘り強く、言葉で、絵で、歌で、身振りで、ときには沈黙によってお互いが理解できるのだ。
 好木陣太呂の概念闘争、概念戦争とはそういうことだ。
 「フェイクニュース!」と切り捨てるのはもってのほかである。それは人類の築き上げた遺産をすべて捨てることを意味している。そういう行為は壊滅的な戦争を準備することになるのだ。アメリカ国民はどんな理由であっても中国国民の命を奪っていいわけないのだ。
 そのことは日本国民にもいえる。
 学術会議の資格を誰かが勝手に、勝手な理由で奪っていいわけないのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?