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【短編小説】たゆたう我がままな白いけむり(8) 夜の月に抱かれて

 地下鉄の電車で、ドア上のデジタルサイネージに『夜の月に抱かれて』という映画の予告が流れていた。
 友樹はホダカとM教団のエム病院に行く途中だった。
 映画予告は音がなく、編集された映像が次々に映っていた。
 『夜の月に抱かれて』はMIYUKIという女優が主演をしていた。最近、週刊誌でM教団の信者であることが報じられた女優だ。
 赤いロングドレス。赤というより濃い血の色だ。そのロングドレスを着たMIYUKIが映画のポスターになっている。
 若くして両親を失った幸(さち)という主人公の女性が地を這うように生きるストーリーだ。主人公の幸をMIYUKIが演じている。万引き、買春、詐欺。血のつながっていない幼い妹のために殺人以外の犯罪も厭わないという幸。貧しい者はより貧しくなる。お金は集まるところに集まる社会。闇を支配する者と闇に紛れる者。
 政治家や社長たちや美しい女性たちが集まるパーティーに幸は潜り込む。そこである企みが暴かれる。
と、音のない画面に文字が流れていた。
 この女優もM教団の組織に何らかの力を与えているんだ、と友樹は思う。
「大丈夫? 顔色が悪いけど」
 ホダカが車両のドア付近に立ったまま友樹に話しかけた。
「ええ、大丈夫です」
と友樹は答えた。
「昨日、失業しちゃって」
「えっ、失業? 何かあったの?」
 友樹はどう話したらいいのか分からなかった。考えるのも面倒だった。
「ええ、まあ、いろいろ」
 友樹は無言のデジタル広告を眺めながらそう言った。MIYUKIがうっとりとした視線をこちらに向けていた。赤いドレスに血が飛び散って、予告が終わった。飛び散った血は赤いドレスの上で黒い模様に染まった。

           *

 エム病院は地下鉄の駅からバスに乗り換えて、さらに30分ほどのところにあった。
 その隣にY7と呼ばれるM教団の施設があった。施設は神殿の建築だった。
 病院は600床を超える大きな病院だった。建物は鉄筋コンクリート造りだが、傾斜の緩い屋根、外壁の色と入り口の柱だけが古代ギリシア風の意匠だった。
 隣の神殿と屋根と外壁、柱のデザインが似ている。
 アリシマが紹介した原田医師からの依頼状がエム病院の院長に送られていた。
 原田医師はそっちの方面では恐れ知らずのようだった。原田医師とアリシマとは教団の被害者対策で繋がっているらしかった。
 ホダカと友樹はエム病院の総合受付で友樹の母の主治医に会いたいと言った。
「伺っております。院長のテラダがお会いいたします」
 受付の女性はそう言って、隣にいた青い服を着た女性に目配せした。
 青い服の女性は「ご案内いたします。こちらへ」と言った。
 ホダカと友樹は青い服の女性に付いていった。
「院長室」というプレートのある部屋に通された。
 だだっ広い部屋だった。
 部屋の奥の壁に抽象的な線が引かれた絵が飾られていた。黒と暗色のカラーの線だった。
 レプリカなのだろうか? とても価値のありそうな絵画だ。
 真っ白い壁の部屋。フランスの音楽家が作曲したような繊細で透明な音楽が静かに流れている。
 60歳過ぎくらいの男性がひとりで入ってきた。
「院長のテラダです。ご用件は依頼状で伺っています。どんな持病があったかというお尋ねですね」
 黒いめがねを鼻のところで少し上げながら、そう言った。テラダという院長は名札を付けていなかった。
「あなたは心臓内科医でも心臓外科医でもないですね。遠藤さんのお母様の主治医に会いたいという依頼状だったはずです」
 いきなりホダカがそう言うと、テラダはちょっと戸惑ったようだった。
「私は院長です。病院で起きたことのすべてに責任を負っています」
「院長の専門は精神科だとホームページで見ました。主治医に話を聞きたいのです」
「カルテもすべて見ました。それに・・・」
 テラダはそこまで言って、黙った。
「それに、何ですか?」とホダカが聞いた。
 テラダは続きを言おうか言おまいか考えているようだった。
 しばらくして、話し始めた。
「それに、お母様の最期にも立ち会っていました」
 ホダカは意外だという表情をした。
「どうしてです? 主治医でもない院長がどうして立ち会ったんですか? よほど気になることがあったとか」
「神殿で心肺停止になるなんて、普通じゃないですからね。何があったのか、すぐに知るべきだと思ったのです」
「あなたはこの一件を持病が原因の急性心不全に仕立て上げるために関わったんじゃないですか」
 ホダカは挑発しているようだった。
 テラダはそれに答えず、
「まあ、お座りになってください」と八人掛けのテーブルの真ん中の椅子を二人に勧めた。
 ホダカは興奮を抑えられないようだったが、椅子に腰掛けた。友樹も座った。
「お母様がこの病院に運ばれたときにはすでに心肺停止状態だったのです。手を尽くしましたが、心臓の鼓動は戻らなかった。お気の毒です」
「心臓の持病があったと報告しましたね。でも、心臓の薬はほとんど処方されていなかった。この病院が二度ほど渡しただけです。たくさんの薬といっしょにね」
「検査で不整脈があった。だから処方したのです。カルテもあります」
「そのカルテも改ざんしたカルテでしょ」
「改ざん? どうしてそんなことをする必要があるんですか? ここは病院です。健全に運営している病院です」
「診療報酬の不正受給で問題になったこともありますよね」
 不正受給? そんなこと初めて聞いた、と友樹は思った。
「もう10年も前のことです。今は関係ありません」
と、テラダが言った。
「関係ないわけないでしょ。今も続けているかもしれない」
 ホダカがそういうと、テラダは何も言わず、にやけた笑みを浮かべた。
「不正を行った元弁護士にそんなことを言われる筋合いはないと思いますよ」
 ホダカの表情が変わった。
「な、何のことです」
 ホダカの声が少し震えた。
「5年前、住居に不法侵入し、未成年を誘拐した。クライアントから預かったお金を返さなかった。それで懲戒処分を受け、弁護士資格を失った」
 ホダカは黙っていた。
「穂高慶子さん、あなたのことは知っています。遠藤友樹さんとの関係をあえて聞かなかったのもあなたのやることはだいたい想像がつくからです」
 何のことか? 友樹はわからなかった。
「ホダカさん、あなたは弁護士だったんですか」
 ホダカは黙って、テラダの方を見ていた。
「この教団のことじゃないのに調べたのね」
 テラダもホダカから目を逸らさなかった。
 ホダカは友樹の方を見て話し出した。
「別の教団のことよ。5年前、信者の母親に連れられて教団の施設に監禁された女の子がいた。その女の子を救出したのよ。私しかそれができる人がいなかった。だからやった。住居侵入は教団の施設に入ったこと。お金はその教団から返還させた献金よ。母親に返すとまた献金に使うので預かっていた。それを母親が横領だと騒いだ」
 友樹はホダカをじっと見ていた。
「警察は法に従って私を逮捕した。法に従って裁判があり、私は有罪になった。それだけ」
 友樹は何と言っていいのかわからなかった。
「国が決めた法律より大事なことがあるわ。私はそれをやっただけ」
 テラダは、またにやけた表情になった。
「私は法を犯していません。カルテも改ざんしていないし、不整脈の検査結果もあります」
 ホダカは勢いを失っていた。
「医師としての良心もあります」
 テラダはそう言った。
 誰も何も言わなかった。
 しばらくしてテラダが話し出した。
「お母様のことは本当に気の毒に思います。けれど、こう考えてはどうでしょう。我々は自殺以外の死について前向きに捉えます。誰もいつか向こう側に行く。遠藤様のお母様は向こう側に行かれた。遠藤様が思っていたお母様、それはどんな姿だったのでしょうか」
 友樹はテラダが何を言い出すのだろうか、と思った。
 テラダは医師ではなく、何か別の顔に見えた。
「現実のお母様は遠藤様にとって理想のお母様じゃ無かったかもしれません。それは我々のせいだと言われればそうかもしれません。でもそれはお母様が選ばれた道です。その選択が終わり、お母様はあなたの元に還られた。あなたの記憶のなかだけに残るお母様になった。あなたの思い通りにならない現実はなくなった。お母様はあなたの理想のお母様になられたのではないですか」
 友樹は思った。テラダは友樹が見る夢のことを知っているのではないか。橋の向こうで友樹を待っている母を見たのではないだろうか。
 友樹がほんの幼い頃に父は自殺した。それから母は何かに、誰かにすがるようになった。そうしなければ生きていけなかったのかもしれない。脳に障害のある兄のためだと、教団に献金をするようになった。父の生命保険も何もかも、財産のほとんどを献金した。
 友樹は母に愛された記憶がない。母は昔、山羊に草をやる話をしてくれた。いくらでも付いてくる山羊の話を。それは、実は母自身のことではなかったのか。
 テラダが言うとおり、もう友樹を苦しめる現実の母はいない。それでよかったのかもしれない。
「遠藤さん、騙されてはダメよ。こういうふうに自分の責任は棚上げにして、すべてを信者のせいにするのがM教団なのよ」
 ホダカがそう言うと、テラダは不意を突かれたような表情をした。
「じゃあ、どこでどうやって心肺停止になったのか見せてもらうわ」
とホダカが言うと、テラダは、ためらいながらも「い、いいですよ」と言った。
 第六感を鍛える行だと、アールは言っていた。
 それがどんなものか友樹も見てみたかった。


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