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【短編小説】納屋を焼くひと

 納屋を焼く。
 その短編小説を読んでから、三郎は自分のなかに何か得体の知れない、抑えられない欲望があることに気づいた。
 納屋を焼くという行為は、大きな火が燃えるのを見るという自己の純粋な喜びと、他人の納屋に放火するという他者への罪悪感が内在している。
 でも、その二つの要素があるからこそ、誰にも知られずに納屋を焼くという行為は、得体の知れない欲望に膨張するのだろう。
 その短編小説で、人知れず納屋を焼いているという男性は銀色のスポーツカーに乗っていた。おそらくお金持ちなんだろう。この小説が韓国で映画化されたときには、納屋がビニールハウスになったのと、韓国にはギャツビーがたくさんいるという設定になった。
 納屋を焼く。それはビニールハウスではいけない。そう三郎は思う。
 小説の男性は納屋を焼いては遠くから双眼鏡でのんびり眺める。それも違うのではないか。肉眼で燃える炎、ぱちぱちと燃える木の音、立ち上がる白い煙、それらを感じることこそが人に眠る狂気を蘇らせる快楽なのではないか、と三郎は思う。
 焚き火、キャンプファイヤー、京都の五山の送り火、鞍馬の火祭り、若草山の野焼き。
 三郎はどれも心躍る。

 納屋を焼く。
 三郎のなかで、その欲望は日に日に増し、今では抑えきれないくらいの大きさに膨らんでいた。短編集の文庫はいつもポケットに入れている。
 三郎が住んでいる住宅街の郊外にも納屋はある。このあたりは市街化調整区域で住宅や工場が建てられないところらしい。知り合いの設計士がそう言っていた。
 三郎は一週間に一度五キロを走っている。その途中にも納屋はたくさんある。
 でも、コンクリートやブリキのトタンに覆われた納屋が多い。三郎のイメージに合う納屋がない。でも、ひとつだけあった。大きな通りからあぜ道を入っていったところにある木造の納屋だ。一部がトタンで細工されていたが、それ以外はイメージ通りだ。
 問題はどうやってそこまでガソリンを運び、着火して、見つからないように戻ってくるかだ。ガソリンは車からポリ容器に移せばいい。
 ちょうどその頃、妻が電動機付き自転車を買い換えたいと言っていた。
 けっこう高価なので、働いていない妻が買うのは気が引けると言う。
「ああ、いいよ。誕生日のプレゼントで買ってくるよ」
 三郎はそう言った。あれがあれば前の大きなカゴにポリ容器を積んで、速く往復できる。
 自転車屋はマンションからほんの百メートルくらいのところにあった。
 かなり長くやってそうな自転車屋だ。店主はたぶん六十歳は超えている。
「ああ、これ、古いね。二十年くらい前のものだね」
 古い自転車を持って行くと、店主がそう言った。
「これ、もうバッテリーの代替品がないね。この前メーカーがそう言ってた」
「ええ、買い換えようと」
 店には展示用の電動機付き自転車はなかったが、店主はカタログを見せてくれた。
「これだとどれくらいになります?」
 三郎が尋ねると、店主はあちこちの書類を見ていた。
「この古い自転車は、そこのマンションの奥さんが乗っているもの?」
「ええ、そうです」
「この前、パンク直しに来たね」
「へえ、そうですか」
「いい奥さんだね。明るいひと」
「あっ、ああ、ありがとうございます」
「処分料、保険代、登録料すべて込みで十二万円にしとく」
「そうですか」
「これ、ぎりぎりの値段。おれ、嘘をつくのが下手なんで」
 店主はそう言った。
「だから店が大きくならない」
と店主は苦笑いのような笑顔を見せた。
「連絡先をここに書いて」
 店主は鉛筆と広告を切ってクリップで留めたメモ帳を三郎に渡した。
「自転車が入ったら連絡するから」
 三郎はマンションまで歩いて帰りながら、店主が、おれ、嘘をつくのが下手なんで、と言ったのを思い出していた。
 あの人はギャツビーではない。ギャツビーにはなれない。

 納屋を焼く日を決めた。
 夜中に行って、帰ってくる。三十分くらいの仕事だ。
 ジッポのライター、新聞紙、ポリ容器に入れたガソリンも用意した。
 決行の当日、まだ新しい電動機付き自転車でポリ容器を運んだ。街灯があったので自転車のライトは消して走った。
 あぜ道に入るところに大きな樹があり、その陰に自転車を停めた。
 すると、そこには一台の車が停まっていた。夜中の田んぼには不釣り合いな銀色のスポーツカーだ。
 あぜ道をこっちにポリ容器を持って歩いてくる人がいる。
 あっ、彼だ。
 小説で納屋を焼いていると言っていた彼だと三郎は思った。
 三郎は見つからないように自転車を大きな樹の陰に隠した。
 そのとき、あぜ道の向こうの方で炎が見えた。
 納屋が燃えている。
 炎はだんだん大きくなり、暗闇に白い煙がもうもうと立っている。
 ぱちぱちをいう音も小さく聞こえた。
 彼の顔は見えなかった。
 銀のスポーツカーに乗ると、すぐに彼は車を出した。車は大きな通りをまっすぐ猛然と消えていった。
 三郎は炎に気を取られていたが、逃げなきゃ、と思った。
 ポリ容器のガソリンをカゴに入れたまま、無灯火の自転車をこいだ。自転車は風のように加速する。対向車は一台もなかった。
 路地を抜けて、河原に着いた。そこでガソリンをほとんど捨てた。 
 三郎は上着のポケットに入れていた短編集を取り出した。
 少し残ったガソリンをそれにかける。
 ジッポのライターでそれに着火した。
 ぼっと火が付く。想像していたより大きな火だ。
 その炎は三郎の涙で歪んで見えた。
 小説が燃えるのといっしょに、三郎は狂気が縮んでいくのを感じた。

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