悪魔の棲む家 中編

高瀬 甚太

 丸物不動産の専務取締役、橿原暎二から、芦原が橿原の祖父に送ったという手紙を手渡された井森は、その場で一気に読んだ。
 手紙には、橿原に対する日頃の謝礼から始まり、内装工事についての内容にその多くが割かれていた。
 『洋館の南側の壁面を特に丁寧に塗装して欲しい。少し厚めにしてもらった方がいいと思う。北側の壁面には窓とベランダがあるので、そこはそのままにしてもらっても構わない。二階にフロアを増やす予定でいたが、それを取りやめて、吹き抜けにし、空調をよくしたいと思っている。また、西側に入り口を作りたいので、現在ある東側の扉を封じて、西に付け換えてもらいたい』
 手紙を読んだ井森は、槇原専務に問うた。
 「橿原専務、この手紙の内装工事についてお聞きしたいのですが、すでに出来上がっている部屋を芦原氏がどうして改造しようとしたのか、ご存じありませんか?」
 橿原専務は、少し考えた末、井森に答えた。
 「何分、祖父の代のことですからね。その頃、私はまだ学生で、祖父が行った芦原家の内装工事については、あまり詳しいことは存じていませんが……」
 「少しでも結構です。何か思い出すことはありませんか?」
 橿原専務は、宙を見上げ、何かを思い出そうと頻りに太い首を捻った。
 「確か、家の半分を取り壊して、その取り壊した半分を洋館にした後のことだったと記憶しています」
 橿原専務に井森が確認するように聞いた。
 「それは元愛人の息子と言われる青年が消息を絶つ前の話ですね」
 「確か、そうだったと思います。洋館が完成してしばらくして、芦原氏の要望もあったのでしょうが、突然、祖父が内装工事についてくちばしを入れて来たと父が愚痴っていたことをおぼろげに記憶しています」
 その時、それまで橿原専務と井森の話を聞いているだけだった小林が突然、口を挟んだ。
 「井森さん、その手紙を私にも見せていただけますか?」
 井森が小林に手紙を渡すと、小林は、その手紙を凝視した。そして叫んだ。
 「井森さん、やっぱりこれ、おかしいですよ!?」
 井森と橿原専務、二人が驚いて小林を見た。
 「小林さん、どこがおかしいのですか?」
 井森の問いに呼応するかのように、小林が手紙の文面を指さして言う。
 「ここに書かれている内装工事ですが、通常、リフォームを行ったら、購入する際、教えていただけるはずですが、そういった説明は一切、ありませんでした」
 橿原専務が声を上げた。
 「確かにその通りです。小林さんがおっしゃったように家を購入する方にリフォームをした部分を告げないはずはありません。おかしいですね」
「と言うことは、橿原専務の祖父が書いたこの手紙の通りに内装が実施されていないということですか?」
 井森の問いに橿原専務が慌てて答えた。
 「いえ、祖父が口を出せば、業者は異論を挟むことなく実行します。これだけ丁寧に指示しているのですから、業者はそれに従って工事を実施するはずです」
 橿原専務が腕組みをしてじっと考えている。だが、すぐに腕を解き放ち、井森に答えた。
 「多分、文書から感じるほど大げさなリフォームではなかったと思いますよ。壁を塗りかえたぐらいで、購入者に伝達などしませんから」

 結局、井森と小林は何の収穫もないまま、丸物不動産を後にした。
 「井森さん、この後、どうしたらいいでしょうか? 私、何だか怖くて自分の家に戻れませんよ」
 井森から霊的現象の存在を聞かされたことで、小林は極度の不安に陥っていた。車を運転しながら、血の気の引いた蒼白い顔の小林に井森が聞いた。
 「二、三日、ホテルに泊まるか実家に帰ってもらうことは可能ですか?」
 「二、三日程度なら大丈夫です。会社には有給休暇をもらうことにしますから。でも、井森さん、私、これからどうなるのでしょうか?」
 「私の友人に慧眼和尚という密教の著名な人物がいます。その友人に相談して対策を講じたいと思っています。ただ、私は小林さんにあの家には霊的現象が存在するのでは、と話しましたが、丸物不動産の橿原専務と話をしていて、それ以外にも、もしかしたら何か別の存在があるのでは、と感じましてね」
 「霊的以外の存在と申しますと――?」
 「小林さんの家の元の持主である芦原氏が橿原専務の祖父に宛てた手紙があったでしょう。あの手紙がなぜか引っかかっているのですよ」
 「引っかかると言いますと――?」
 「橿原専務の言葉に嘘はなかったと思います。現実に芦原氏が橿原専務の祖父に内装の指示をした手紙を送ったことに間違いはありませんでした。しかし、不思議なことに小林さんの現在の住まいにその内装の指示が該当していなかった可能性がある。この二つの矛盾に深い意味があるような気がして仕方がありません」
 「そうですよね。私も不思議でなりません。専務の話は壁を塗り替える程度と言いましたが、その形跡が見当たらないし――」
 「ともかく、小林さんは一時的に避難をしてください。その間に片づけてみせます」
 小林の運転する車がゆっくりと自宅に停車した。小林は急いで自宅に入り、必要なものをバッグに詰めて車に戻ってきた。
 「しばらく自宅の鍵を預からせてもらえますか。調査をしてみますので」
 井森に鍵を手渡しながら小林が申し訳なさそうに身を屈めた。
 「忙しいのにこんなことお頼みして」
 「いえ、乗りかかった船ですから」
 一段落したとはいえ、仕事はまだまだ残っていた。事務所にいる者に出来る仕事もあれば出来ない仕事もあった。その者から連絡が来ていないということは、今のところ何とか仕事が出来ているのだろう。そう思い直して、井森は小林の乗る車を見送った。
 小林の車が角を曲がり、消えたのを見計らって井森は慧眼和尚に電話を入れた。三度の呼び出しで和尚が電話に出た。時の流れに勝てないのか、慧眼和尚も最近では携帯電話を持つようになった。おかげでどこにいようが捕まえることができる。
 ――和尚、急だが、今すぐ、こちらへ来てもらえないか?
 ――……。
 慧眼和尚は答えない。黙したままでいた。井森は現在地を和尚に報せ、
 ――和尚の力が必要なんだ。駅で待っているからよろしく頼む。
 と言って一方的に電話を切った。聞かずとも和尚はやって来る。その確信が井森にはあった。

 大阪府警本部の原野警部から井森に連絡があったのは、和尚に電話を入れた、そのすぐ後のことだ。
 ――頼まれていた失踪届だが、この二〇年以内に絞って、あんたに頼まれた人物に該当する届が近畿圏で出ているかどうか調べたが、見当たらなかった。
 ぶっきらぼうな原野警部の声が耳に響いた。気乗りのしない様子がありありだ。
 ――そうですか? てっきり届けが出ているとばかり思っていたのですが、ありませんでしたか。
 ――一体、何を調べているんだ? よかったら教えてくれないか。
 ――事件性があるのかどうかさえ今はわからない状態です。ただ、もしこの先、事件性があると判断したらすぐに知らせます。今はそういうことにしておいて欲しい。
 ――あんたには借りがあるから今回は協力したが、そう何度も協力できないぞ。ともかく何かわかったら改めて連絡をくれ。
 了解して井森は電話を切った。
 芦原氏の元へやって来た愛人の息子と呼称する若い男は一体、いつ、どこへ消えたのだ。実の母親からも失踪届が出されていないということは、届を出す前に母親の元へ戻ったのか、井森はてっきり元愛人の息子が殺害されたものと思っていた。殺害され、小林の家のどこかへ埋められているのではないかと推理していたのだ。その息子のさ迷える魂が霊現象を起こして小林を苦しめていうのではないか――。それが一連の流れの中で井森が考え付いた結論だった。
 だが、愛人の息子が生きてどこかにいるとしたら、話は違ってくる。井森の推理は愛人の息子が殺されているということが前提で成り立っていたからだ。しかし、その確認も未だ不明で、単に失踪届が出ていないからといって、生存しているとは限らない。
 井森は、愛人の息子の生存を急いで確かめることにした。

 芦原正人――。小林の住む家の元の持主である。芦原の愛人の存在は、芦原と懇意にしていた丸物不動産でも所在どころか、名前すら掴んでいない。愛人の息子も同様である。芦原の家に息子だと言って乗り込んできたにも関わらず、名前も年齢も確認できていないのだ。すべて芦原の話と丸物不動産の橿原専務の祖父の話でしか二人は存在しない。井森が確認しようにも何の資料もなく、本当の話だったのかどうかさえ、確認出来ないありさまだ。
 井森は思った。もう一度、今回の事件を推理し直してみようと――。
芦 原の家を購入した小林が霊的現象に苛まされて井森の元へ相談にやって来た。小林の話を聞いた井森は、小林の家を訪問した。普通ではない何かを、井森はその家の中で感じ取った。
 霊的現象には必ず理由と原因がある。井森は、芦原と懇意にし、また小林が購入した丸物不動産会社を訪問し、そこで橿原専務に会った。
 橿原専務の話を聞いて、橿原の祖父が家の内装を芦原に依頼され、内装工事を事細かに記したという手紙の存在を知り、井森はそれを確認した。だが、その手紙を見た小林は、内装工事を指示した内容を読み、違和感を抱いた。その形跡がないと語ったのだ。
 芦原正人の家は、愛人の息子が入り込んできて改造し、建物の半分を洋式に変えている。祖父が内装工事に記した手紙の家も和と洋の建物で、手紙の中で洋の部分の壁の改造を指示していた。
 芦原は愛人の存在を否定し、子供の存在も否定したと井森は橿原専務に聞いた。しかし、息子は芦原の家に入り込み、改造までしている。息子の暴挙を芦原はなぜ、黙認したのか。
 息子は芦原の家を出て、母親の元へ戻ったのだろうか。しかし、話を聞く限り、素直に家を出るような男ではなさそうに思えた。
 芦原の愛人で、息子の母親である女性を探しだすことが先決だったが、手がかりが何もなく、そんな女性が本当にいたのかどうかさえ疑わしくなってくる。同様に息子の存在もそうだ。
 井森は再度、大阪府警の原野警部に連絡を取った。愛人が芦原の家の捜索を願い出た記録が残されているのではと思ったからだ。
 原野警部は、渋々、過去の記録を調べてくれたが、そんな記録は一切、残されていないと言う。原野警部は、
 「正式な届け出をしていないのだろうな。交番の警官に依頼して調べた程度のものと思う」と井森に答えた。
 そうなると、愛人が警察に連絡をして捜索を願い出たという話が真実かどうか、曖昧なものになって来る。
 考えれば考えるほど混沌としてくる。いつになく迷走してまとまりがつかない考えを持て余しながら、井森は慧眼和尚の到着を待った。

 慧眼和尚は井森の期待を裏切ることなく、その日のうちに指定した駅に到着した。
 「久しぶりだなあ」
 開口一番、慧眼和尚はそう言って、井森の手を握りしめた。その途端、井森の体に電流のようなものが駆け抜ける。同時に震えが走った。慧眼和尚との付き合いは長いが、そんなことは初めての体験だった。しかし、それもしばらくすると消えた。
 「どうした。顔色が悪いぞ?」
 慧眼和尚の鋭い眼差しが井森の顔を覗き込む。井森は一瞬、怯えた表情を見せ、視線を逸らした。
 「その人物の家に案内してくれ」
 慧眼和尚は、駅で待つタクシーに井森を押し込むようにして乗り込んだ。

 「変わった建物だな」
 小林の家を見るなり、慧眼和尚はその外観にまず驚いた。
 「和と洋が混在する建物は珍しくないが、この建物は異質だな」
 慧眼和尚は建物を眺めてそう評した。
 和の建物は旧式の平屋で木造瓦葺きの建築だが、併設する洋の建物はまるでビルのように高い。別々の建物として並列するならまだしも、ピッタリとくっついているところに異質さを感じさせる。和尚は、洋館を見た時、てっきり三階建の建物と思ったようだが、中へ入って、そこが高い吹き抜けのワンフロアであることに目を丸くした。と同時に、何かを感じ取ったようだ。
「よほど強い霊気にこの家は支配されていたようだ。しかし、今はそれほど強くはない。この家に棲む強い霊気が他に移ってしまっている可能性が高い」
 「他に移っている?」
 「そうだ。ところでこの家に住んでいた人物はどこにいる?」
 「危険を感じたので駅の近くのホテルに待機してもらっている」
 「そのホテルに行こう。小林という人物に霊が憑依している可能性が高い」
 「霊が憑依している?」
 「あんたも知っているように、生きている人間が目に見えない霊的存在に取り憑かれる、あるいは霊的存在に体内に入り込まれる現象を憑依という。その結果、入り込まれた者の性格や態度が急変し、体調に異変が起こったりして事故に遭いやすくなったり、怪我が多くなったりする。この家に棲む霊的存在が住居者の小林という人物に憑依した可能性が高い。急いで対処しなければ、小林の生命が危ない」
 井森は、慧眼和尚の言葉に強く反発した。
 「しかし、私が会った小林は、ごく普通で、特に変わった現象は見られなかったが……」
 冷静な眼差しで井森を射抜くように見つめた慧眼和尚は、
 「編集長、あんたはすでに憑依した小林に籠絡されているようだ。彼はあんたを選んで相談してきた。その後、あんたもまた、憑依した小林、つまり冥界に巻き込まれた可能性が高い」と説明した。
 「私が籠絡されている? そんな馬鹿な」
 「あんたもまた、冥界に入り込んでしまったのではないか? その時点からずっと――」
 「そんな馬鹿な」
 井森は笑い飛ばした。

 自分が冥界に引き込まれているなど、冗談もほどほどにと笑い飛ばした井森だったが、一抹の不安は隠せなかった。不安を一掃するために、また、慧眼和尚に自身が冥界に引き込まれていないことを証明するために、井森は慧眼和尚をタクシーに乗せ、丸物不動産へ向った。
 「小林が家を購入する際、世話になった丸物不動産はこの道をまっすぐ進んだところにある。私は今日、その会社の専務に話を聞き、今回の一部始終を伺っている」
 井森の話を聞いていた運転手が怪訝な表情を浮かべて井森に尋ねた。
 「この先は川沿いの道で、不動産会社はおろか、店など一軒もありませんよ。道を間違えたんじゃないですか?」
 「その先のカーブを曲がったところに駐車場があって、二階建の建物が建っているはずです。丸物不動産という看板と幟が目立ちますからよくわかります」
 井森の説明を聞いてもなお、運転手は納得の行かない表情でハンドルを握り、カーブを曲がりきる。運転手が話した通り、カーブを曲がっても駐車場もなければ建物もない。何もない川沿いの道が続くだけだ。
 「おかしい……。確かにこの場所に丸物不動産があって、客の車が何台も止まっていた。私は専務と話をして小林の住む家について話を聞いたんだ――」
 そこまで話して、井森はハッと、慧眼和尚の顔を見つめた。慧眼和尚は井森を諌めるような口調で言って聞かす。
 「もうわかっただろう、編集長。あんたは小林に憑依した霊に惑わされているんだよ。しかし、あんたを騙すほどの存在だ。今度の霊は、かなりの大物かも知れんな。手ごわいぞ」
 井森は信じられない思いで、慧眼和尚を見た。自分が霊に惑わされるなど、信じられなかった。これまで自分は幾多の不思議な現象に出会って来た。それでも一度たりとて霊に取り込まれるようなことなど一切なかった。そんな自分が果たしてこんなにも簡単に冥界に取り込まれるものだろうか。
 ――間違いなく自分は丸物不動産の専務と話をしている。家の元の主であった芦原正人の話や橿原専務の祖父の話、手紙のことなど、一切合切に嘘は感じられなかった。小林のあの怯えようにも嘘はなかった……。

 タクシーが小林の宿泊するホテルの前に止まった。井森は急いでフロントへ向かい、宿泊中の小林を呼んでくれるよう依頼した。しかし、フロントの人間は、
 「小林様は本日、家に戻ると言われ、先程、予定を変更して宿泊をキャンセルされました」
 と不在を告げる。なぜ、彼はあれほど怯えていた自宅に戻ったのだろうか。信じられない思いで井森はフロントを後にした。
 タクシーに戻った井森は、小林がホテルを出て、自宅に戻ったことを慧眼和尚に伝えた。それを聞いた慧眼和尚は、乗っていたタクシーの運転手にすぐさま指示をした。
 「急ごう。小林の自宅に行くんだ。編集長、タクシーに道を指示してやってくれ」
 それを合図に運転手が車を急発進させた。
 小林の自宅の前にタクシーが到着すると、慧眼和尚は井森より先に車の外に飛び出した。一刻の猶予もならない、そういった感じに見えた。
 外観からは何の変化も見られない。和式の玄関と住まい、その隣に洋式の建物が併合されて建っている。
 井森は、小林の名前を呼び、玄関のドアを開けようとするが、鍵がかかっていて開かない。和尚がドンドンとドアを叩くが一向に返事がなかった。
 ――小林は帰っていないのだろうか。
 井森がそう思ったその瞬間、慧眼和尚が大声を上げた。
 「編集長、ドアを開けろ!」
 井森がドアに体当たりを喰らわした。二度、三度と、だが、その瞬間、突然、井森の体が硬直して動かなくなった。同時に開け放たれた家の中から奇妙な発光が浮かび上がった。
 それを見た慧眼和尚は、手に持っていた大粒の数珠をそのドアに向けて放り投げた。発光の中に飛び込んだ数珠は、大きな音を立てて砕け散った。
 硬直して動けなくなってしまった井森の体を慧眼和尚が突き飛ばすようにして発光の中へ放り込む。意識だけはしっかりしていたが、思うように体が動かない井森の目に、怪しい物体が浮かび上がった。物体の傍らに小林が朦朧としてしゃがみこんでいた。
 一体、何が起こったのか、井森は、硬直した肉体を持て余しながら慧眼和尚がどこにいるのか、その行方を追った。
 ――慧眼和尚の読経が井森の耳に届いた。和尚は、部屋の中で座して読経している。部屋の中は一面、霧に包まれ、その霧は一層濃度を高め、やがて和尚の姿が霞んで見えなくなった。怪しい物体というよりも黒い影は、さらに巨大化して部屋の中を覆い尽くそうとしていた。小林はどこにいる? そう思った瞬間、井森は気を失い、その場に伏した。

 ――どれだけの時間が経っただろうか。目を覚ますといつの間にか部屋の中の霧は晴れていた。黒い影も雲散霧消している。ゆっくりと起き上がった井森は小林と和尚の姿を探した。
 洋館の所々が崩れ落ちていた。その部屋の中央に和尚が立っていた。
 「和尚、何があったのですか?」
 「かなり手ごわい霊だった。よほどこの世に未練か怨みがあったのだろう。さすがのわしも一時は駄目かと思ったほどだ」
 和尚の額と頬に数カ所、深い傷が付いていた。腕もそうだ。いや、頑丈な和尚の衣服もすべて破損していた。
 「ともかく警察に連絡します。それと小林さんはどうされましたか?」
井森が尋ねると、和尚はものも言わず庭を指さした。
 「小林さん――!」
 庭の中央に小林が倒れていた。小林に駆け寄ろうとする井森を和尚が押しとどめた。
 「近寄ってはいけない。小林の生命は大丈夫だ。ただ、今、起こすと小林が危険だ」
 小林は庭の中央に仰向けになっており、そのままの姿で気絶していた。
 「彼はまだ、霊力から脱していない。もう少し様子を見た方がいい」
 井森はすぐに警察に電話をした。だが、指が震えて思うように動かなかった。

 警察がやって来て、現場検証を始めたのは数時間後のことだった。小林は意識不明のまま救急車で運ばれ、井森と慧眼和尚は警察の事情聴取を受けた。
 警察もお手上げの事件だった。井森の話を検証したものの、そのほとんどが実証のないものだったからだ。和尚の説明を聞いても警察は苦々しく笑うだけでほとんど理解出来ずにいた。
 「だいたい霊現象など、あるはずがないだろう。そんな不確定なものを相手に捜査など出来るはずがない」
 担当警部はそう憤ったが、実際、小林は意識不明で病院へ運ばれ、霊と戦ったという慧眼和尚もまた全身に傷を負っていた。井森にしてもそうだ。かなり疲労困憊している。しかも部屋の中は恐ろしいほどに荒れていた。
担当警部が井森と和尚に警察署で改めて事情聴取すると言い、二人をパトカーに乗せた。
 H警察署で小一時間、聴取を受けた井森と和尚は、その日のうちに解放されたが、病院に運ばれた小林はまだ意識が戻らず昏睡状態が続いていた。
 「この事件を最初から振り返ってみようじゃないか」
 H警察署を出て駅に向かう途中、慧眼和尚が井森に話しかけた。
 「このままでは納得がいかない。どこでどうなっているのか、検証してみたいと、私も思っていたところだ」
 井森は和尚と共にH警察署近くの喫茶店に入り、そこで小林から連絡をもらうまでと、もらった後の一部始終を詳しく慧眼和尚に話して聞かせた。
 「加藤耳鼻咽喉科の院長から私に相談するといいと言われたと、小林に電話で伝えられたのが最初だった。小林から連絡をもらう、その前日に加藤院長から電話をもらっていたので、小林から連絡があった時もさして驚かなかった」
 「その加藤耳鼻咽喉科の院長とは親しい仲だったのか?」
 「いや、それが電話では調子よく話したものの、その院長先生のことは、あまり覚えがないんだよ。先方が私をよく知っていうるような口ぶりだったのでつい話を合わせたのだが、実のところ、どんな人だったのか、いつ会ったのかさえよくわからない」
 「その加藤耳鼻咽喉科はどこにある?」
 「小林の話では、かかりつけの病院が休みだったので、小林の住まいから一駅離れた場所にある加藤耳鼻咽喉科に行ったとのことだったが――」
 「小林はその病院で編集長のことを聞いたと言ったのだな?」
 「ああ、そうだ」
 「よし、これからその病院へ行ってみよう」
 「わかった。その前に加藤耳鼻咽喉科の場所をネットで検索することにしよう」
 携帯電話で病院の場所を検索し始めた井森が声を上げた。
 「和尚、おかしいぞ。加藤病院というのはあるが、どれもこの地域の病院ではない。しかも加藤耳鼻咽喉科なんて病院はこの地域のどこにも見当たらない」
 検索できない病院があるなど信じられない。慧眼和尚にそのことを告げると、和尚は即座に言った。
 「とにかく行ってみよう。確か、小林の住まいから一駅と言っていたな。小林の住まいは支線の終点だったから手前のY駅で降りて聞けばわかるだろう」

 Y駅周辺の町は典型的な高級住宅街で、駅周辺を闊歩する人たちもハイ・ソサイエティーな人たちが目立った。井森と和尚が加藤耳鼻咽喉科を訪ねると、首を傾げるだけで多くを語らない。駅周辺の古い店を訪ねて、そこで初めて回答を得られた。
 「加藤耳鼻咽喉科ですか? ああ、ありましたよ。ずいぶん前の話ですがね」
 八十を過ぎていると思われる、饅頭屋の看板を掲げた店の老人は、淡々と井森に語った。
 「ずいぶん前というのは、一体、いつ頃のことでしょうか?」
 「廃業して三十年は経つと思いますよ。跡継ぎもおられませんでしたし、本人もあんな死に方をされていますからね……」
 「あんな死に方? そのことについて詳しくお聞かせ願えませんでしょうか」
 饅頭屋の老人は、一瞬、口を紡ぎかけたが、井森の真剣な眼差しを見て、再び口を開いた。
 「有名な事件ですから、きっとあなたもご存じのはずだと思いますよ。三十年前の夜中、加藤耳鼻咽喉科が強盗に襲われましてね。その日、家族の方は全員、親戚の家に行っていて無事だったのですが、残っていた加藤先生一人が被害に遭われ、強盗に惨殺されたのです」
 そう言えば、そんなニュースを耳にした記憶があったことを井森は思い出した。慧眼和尚も同様のようだった。
 「あのY町医師強盗殺人事件のことですね。確か、あの時の犯人は未だに捕まっていないはずですよね」
 井森の言葉に呼応するかのように、饅頭屋の老人は声を高めた。
 「いい先生だったんですよ。私もよくお世話になったものです。おっしゃる通り、犯人は未だに特定されておらず、加藤先生の家はその後、取り壊され、今は空き地になっています」
 一体、どういうことなのだろうか。小林は加藤耳鼻咽喉科で診察を受け、井森の存在を教えられたと電話をしてきた。
 近い場所だからと言って、饅頭屋の老人は、井森と和尚を加藤耳鼻咽喉科のあった場所に案内してくれた。駅前の饅頭屋から五分足らずの場所にその空き地があった。
 「ここがその加藤耳鼻咽喉科のあった場所だよ」
 広い空地が野ざらし状態になっていた。庭園の名残をとどめる一角があり、宅地を取り壊した跡も見える。それにしても豪邸だ、と井森は感心した。
「どうしてこんな場所も良くて広い土地が空き地のまま三十年間も放置されたままでいるのでしょうね」
 井森の素朴な問いに饅頭屋の老人はため息混じりに答えた。
 「何度か、建物の建築が成されたんですよ。ところがどういうわけか皆、途中で中止になりましてね。おかげでこんないい場所なのにいつまでも空き地のままなんです」
 それだけ言って、饅頭屋の老人は、井森と和尚に挨拶をし、その場を去った。

 「和尚、どういうことですかね。小林は加藤耳鼻咽喉科で受診し、院長から私のことを教えられて電話をしてきた。その前に、私も院長から間違いなく電話を受けている――」
 それなのに三十年前に加藤耳鼻咽喉科はすでに崩壊している。一体、何がどうなっているのか、井森には見当もつかなかった。
 和尚は先程から沈黙したまま、厳しい表情で空き地を凝視している。その視線を離さず、井森に言った。
 「編集長、亡くなった加藤院長は、何かを伝えたくて、きみをここへ呼んだかも知れないな」
 「私をここへ? どうして……」
 「こう推理したらどうだろう」
 和尚はそう切り出して、自身の考えを井森に述べた。
 「すべては加藤院長が襲われて死亡した事件に起因しているとしよう。院長はさぞ悔しい思いをしただろうが、その後も犯人が捕まっていないことに一番、苛立たしい気持ちを抱いたのは、多分、遺族ではなかったかと私は思う。院長が襲われた背景を調べるとよくわかるだろうが、この事件は単なる強盗事件ではなかったのではないかと私は推理した」
 和尚の口から推理などという言葉が出てくることが不思議でならなかった。寡黙な和尚は、これまで常に多くを語らず、井森の差し迫った案件に協力、対処してくれている。その和尚が今日は熱に浮かされたかのように饒舌なのだ。そのことに井森は驚かされた。
 「あくまでもこれは推測だが、院長を襲った犯人は複数いたのではないかと想像する。金目当ての犯罪だったことは想像に難くないが、それ以外にも何か、怨恨のようなものが働いていたのかも知れない。そこで私は、こんなふうに考えてみた」
 「これはあくまでも私の推測にすぎないが、院長を普段からよく知る人物が金目当て資産目当てで院長を襲った。その人物は、金以外にも院長に怨恨があり、この土地にも執着があったのかも知れない。となると顔見知りの犯行であることが考えられるが、警察も怨恨関係や院長の周囲の人間関係は徹底的に洗い出しているだろうから、おそらく警察の捜査に上らない種類の人間だったのだろう。
 先程、加藤院長が所有していた土地を見て、この辺りは高級住宅地であるし、土地の広さから考えてもマンション建設には最適の環境だろうと思った。不動産業者にとってこの土地は垂涎の的だったに違いない。
 編集長の話の中で、丸物不動産の話が出たが、その時、私は直感で、丸物不動産が今回の事件に関係しているのではないかと思った。ここで、消えてしまった丸物不動産と密接に関わっていた故芦原正人氏の存在が私の中で大きく浮上した」
 饒舌に澱みなく話す慧眼和尚の話を聞きながら、井森はその話の中に矛盾点がないかどうか、先程から考えていた。丸物不動産の橿原専務の祖父と芦原正人が懇意にしていただろうことは専務の話から想像出来た。しかし、いくら何でも、名士である二人が結託して強盗殺人を犯すなど突飛な話と思わざるを得なかった。そのことを指摘しようと思ったが、すでに和尚は話を再開しており、口を挟む余裕がなかった。
 「30年前と言えば、バブルが弾けて不動産会社は大変な時期だったのではないか。芦原正人もまた、困窮していた可能性がある。丸物不動産の創業者と芦原が結束して計画的に加藤院長を襲い、金を奪い、土地の権利書も手にしたのではないか」
 「では、なぜ、二人に警察が着目しなかったのか。その理由がわかりませんが――」
 「二人に対して警察の手が伸びなかったのは、加藤院長と深い接点がなく、患者としてか、取引先としてか、他の業者、患者に埋没してしまう程度の存在でしかなかったからではないか。しかも二人は結束してアリバイを強固にした可能性もある」
 「しかし、同じ町内で、金はともかくとしても不動産売買をすればすぐに足が付くはずです。二人が結束して強盗殺人を犯すなど、私には信じられませんね」
 「病院のあった土地は、更地になったまま野ざらしになっていた。二人はあの土地を売ろうとした可能性がある。その証拠に饅頭屋の老人が、『何度か、建物の建築が成されたんですよ。ところがどういうわけか皆、途中で中止になった』、と言っておっただろう」
 確かに饅頭屋の老人はそう言っていた。なぜ、中止になったのか。その理由は語らなかったが――。
(後編につづく)


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