見出し画像

人生の棚卸(幼少期)

そういえば、先日ラジオで「人生の棚卸」という言葉を聞いた

どうやら、自分の人生を振り返ってみてそれを言葉にしてみてということらしいのだが、自分には、子供の頃の記憶があまりないというのが、本音であり、正直なところだ

戸籍によると昭和38年5月5日に私は生まれた
父、甚三郎と母、岡部美貴子の間に生まれ、出生地は、山口県小野田市、たぶん生んでくれた母の出身が山口県小野田市であったのだろう、初産ということもあり実家に帰り自分を生んでくれたのだと思う。だから、長州にも縁があるというのはちょっと感慨深いし、不思議な気分がする

名前の由来は、甚三郎の一番目の息子だから甚一という名前になったのではないかという推測もあったが、祖母が信仰していた創価学会の二代目会長の戸田城聖さんの本名がどうやら「甚一」と言うらしいのでその可能性もあるかなぁということは思ったりするのですけどね

戦後、18年後の日本、ちょうど高度成長期と言われる良き時代だったのかもしれない。ケネディ大統領が暗殺されたり、黒部ダムが完成したり、そんな時代、経済は右肩上がりでいい時代だったとふと思ったりする

その頃、父は、大阪が発祥の二宮無線(ニノミヤデンキ)に努めていたと聞いているが、これは、本人に直接聞いているわけではないので定かではない。そして、どうやら、西宮に住んでいたと聞いている、実際、戎神社で撮影されたであろう写真が残っていたというぐらいで、これまたきちんとした記憶でもなく、三階建ての団地のようなコンクリート製のアパートの一階に住んでいたという記憶がある

その頃の記憶で残っているのは、布団たたきで顔も覚えていない母親に叩かれていたかったという記憶と、近所を通っていたであろう阪神高速道路の姿と岡山に引っ越す時、もっていくことがかなわなかった自転車を手放したくなくて泣いた記憶ぐらいしか残っていない

父は、弟が生まれて間もなく離婚をしたようだ

その理由ははっきり聞いていない、夫婦の間に何があったのか、それはよくわからないし、何故父が私たちを引き取ったのかもどうゆう理由や経過があってのことかもわからない。結局、「男手一人では育てられない」ということで、父の生まれ育った岡山に戻されたわけだが、私を面倒見てくれた祖母綾子さんや、祖母の近所に住んでいた父の姉である叔母、良子さんにも聞いたことがない。聞くことが何だかタブーであったような感じもあったし、怖くて聞けなかったということもあったのかもしれない

多分、岡山に帰されたのは、私が三歳、弟がまだ一歳ぐらいだったようだ
その頃の祖母は、門田文化町というところで歩いて一分ぐらいのところに住む叔母の助けを借りながら六畳一間、入り口を入ったら土間で水道があり、障子もふすまもない六畳間の部屋で、トイレは外に出てグルっと家の裏に行かなければいけない様なところに住んでいた。電気を付けなかったら本当に薄暗い部屋だった記憶がある

そして、幼稚園に行くまで、美容師をしていた叔母の岡山駅の近くの保育園に預けられていたという記憶がある、明治30年代生まれの祖母が、二人の男の子の子育てをするのはかなりしんどいことだったであろうから、本当に普段の生活は叔母である良子おばちゃんが面倒を事細かに見てくれていた

叔母良子さんは、今から考えたら本当に素晴らしい人だと思う

智子、勉、倫子と自分の三人の子供を育てながら、美容師として仕事をしながら、私と弟五人の面倒を見てくれていたことになる。しかし、記憶をたどってみても、彼女にあれこれ嫌味を言われたり、変なしかり方をされたという記憶が全くない。そして、数年たって叔母は自宅の一角で自分の美容室を開店させることになり、美容室経営と自分の子供を含めて五人の子供の面倒を見てくれたわけだ

自分がその立場になったらどうだろうと思うと本当に頭が下がる、彼女無しで私たちがきちんと育つことは不可能であったであろうと思うし、今は只々感謝でしかない。そして、幼稚園に通うことができるようになり、三勲幼稚園に通園することになり、その後三勲小学校に入学することになったのである

とにかく私の人生は、自分でもわからないことが多く、まるで根無し草のような人生を送ってきたという自覚がある。僕が生まれることになった両親が何処で出会った二人がどういう形で結婚することになり、どういう風な生活をし、どういうことで別れることになったのか、それを推測できる部分もあるが、本当に一部で分からないことが多い

自分のルーツを知らないまま私は生まれた気がする

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?