1月19日、仮託ぎらい

Twitterの相互男性が数年前に増田で書いた記事を読んでいる。心がほどけている。


自分のローな感情を記述しようと試みるときは、居を正して、いちおうの自己紹介をせねば、という気持ちに駆られてしまう。

Twitterやnoteで不倫を記録している。はじめにオフィスの上司との不倫記録があり、少しずつ開示を蓄積しながら、新しい恋を見つけたりした。あえて言おう。男たちはめちゃくちゃにかっこよく描いている。私が恋した男たちだからだ。それから、たまに日記を書いたりしている。そういういきさつで運用を開始・継続中のアカウントであるため、世間が私を見る目はきっと厳しい。

私が記述しないもの──自分の精神の弱い部分にまつわることなどは意図的に開示を避けているし、今後も行うつもりでない分野もある。私は、みっともない。現実の私とは遠くかけ離れた女の像を結んで提示しつつ、恋愛や煩悶を記録している。

たまに、「現在進行中の不倫で悩む女性」から、DMをいただくことがある。多くは「あなたのnoteで救われました」みたいなやつとか、オフィス不倫にまつわる相談依頼。オフパコオファーはあんまりない。一度だけ、「相手の配偶者にバレそうになったことってありますか」という質問に返信した。

いまはFF外通知を切っている。なぜかというと、noteを書き始めてしばらくして、「不倫は悪だけど、こういう不倫や私たちの不倫なら自分に許したい」という引用RTやリプライを貰い、うすら寒い思いがしたからだ。あとは単純に誹謗中傷が怖いです。読まずにいられるDMとは違って、こういうやつは可視化されている。私はよく自らのテキストを「ゲロ」と呼ぶが、私のゲロでご自分の不貞行為を正当化するかたもあるらしい。知るか、死ね。そういう経緯もあって、通知を切った。とはいえ、読んでいただけるのは大変にありがたいことだとも思っている。

こうした仮託の一つひとつに、丁寧にブチ切れてきた。赤信号くらいひとりで渡りやがれ、というのは私が何度も吠えてきたことだった。


話は変わって。

このあいだ恋人との旅行記にも書いたことだけれど、私は自らに連続性が付されるのがとにかく怖くて(きっとそれは私の行動を制約するから)、あえて意図的な断絶を行ったりする。職場を仕事を、開示する名称を社会的属性を変え、飽きっぽい自分が「嫌気がさした」とき、簡単に逃走できるような、そういうライフハックだ。

ジェンダーの偉い人には回し蹴りを入れられそうだけれど、現代の日本においては、こうしたはぐれもの的な挙動をする男は、間違いなく「生きづらい」。女こそ、はぐれものの個体としては適していると思う。もちろんメス個体ならではの被・記名の容易性、みたいなところはあるけれど、まあ、知恵の使いようはある。

これは昔書いたnoteで、加齢とともに社会性だので記名される私たちってかわいそう、というババアらしからぬメランコリックに耽溺したやつである。


捉えどころのない男が好きだ。一見して「連続性を持たないように見える男」の不気味さが好きだ。それは決して、「マッチングアプリだとかで知り合った男が実は彼女持ちで、行きずりの女に本名や素性を知られないように腐心する」とか、そういうちゃちなやつではない。たとえばオフィスで名前も住まいもキャリアも詳らかになっているのに「なんか触れられない」、笑顔でやりとりしているのに「なんか踏み込めない」、そういう、ある意味で不気味で、地に足のつかない心地悪さを提示するくせに、こちらの憧憬を駆り立ててやまない男が好きだ。

得体の知れなさは尊敬から畏怖を経て、私は欲情を催す。セックスしたら、恋をしたら、恋をさせたら、精液を飲んだら、どこから始まったかも分からない男の連続性を呑み込み、過去から現在に至るまでの全てを摂取したような錯覚に陥るのだ。これが気持ちいい。被征服と征服、どちらをやっているのか分からなくなる転倒が、私の脳を焼く。


いま。

連続性のある男を愛してしまったのだ。これが結構、辛い。私が彼に焦がれ続ける限りは、私が自らに付与されるのを忌避し続けてきた「連続性」、これをきちんと着込んだ男を憎みながらも愛していかねばならんと思うと、誇張でも何でもなく、吐き気を催してしまう。30を過ぎた不倫女が、どうしてこれまで逃げ続けてきたものに向き合わねばならないのだ。理解に苦しむ。


閑話休題。

相互男性の増田を読んだ。心の澱が少しだけ、透度を上げた。いまの恋人をはねのけたい気持ちが少しだけ落ち着いた。ここで言及されているのは不倫にまつわることでもなんでもなく、かつて恋人同士だった男女が分かたれた数年後の話だ。なぜ彼のテキストがいま救済となったのか、私には分からない。

いや、本当は何となく分かっている。当事者として連続性を着込まざるを得なかった男のみっともなさ、悲哀、かわいさをまっとうに摂取してしまったからだ。きっとこれも仮託なのだと思った。私は、すべてを手に入れられるかのように錯覚させる「得体のしれない男」たちに甘やかされすぎてしまったのだ。思いがけず地に足のついた「連続性の男」と向き合うにあたって、千々に乱れるこの心の圧迫は、通過儀礼のひとつなのだろう。

もっとも、不倫の恋愛で経験する通過儀礼なんてまさに余剰で、こんなものはまともな妻・母・女の人生にはなくたってよろしい。なくたってよろしいが、正気でいるために、私は恋をするのだ。仮託、大いに結構じゃありませんこと。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?