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卜占と聖骸布

10歩進むごとに額を寄せる男が隣にいないから、とうとう今日は、朝から夕までまともに化粧を直さず過ごせてしまった。

東京の往来はあれだけの人混みだったのに、ブーケを携えていたのは私だけのようだった。チェックインに先立って荷物を預けた銀座から、新橋までをぷらぷら歩いた。いちど通り過ぎたフラワーショップへ手を引かれて戻り、

「詩は贈ったけど、花はまだなんだ」

と彼が買い求めた小さなブーケにきゃあきゃあ飛びあがって喜び、この日のために新調した私のコートに合わせて見立てたであろう黄色に鼻先を寄せた。きりりと背筋の伸びた香りを思い切りよく吸い込んで、ひと思いにぶち破いた肺から漏れ出した吐息が、名古屋のオフィス街で、ひゅう。


***


互いの姿を認めてすぐに、人目を憚らず、不倫とは思えないようなキスをした。

きっと私たちの両名とも、反対側の美しい天井下で交わす口づけを想像していたに違いなかった。しかしながら予定外、彼の到着が少しだけ遅れるという報せをこれ幸いと、八重洲口付近のエアポケットのような空間でひっそりとキャリーケースを開け、会社の女衆から調達を仰せつかっていた手土産の紙袋を手早く押し込む──こんなどんくさい挙動を、男の記憶に残すわけにはいかないのだ。名古屋から現れたフィクションの人妻に許される携行品は、男の詩から着想して選んだバッグひとつだけだ(ちなみに彼の外套と私の鞄で、大昔に彼が描いたフィクションの男を再現するのだ。この旅行のいでたちは、ふたりでひとつを完成する)。キャリーは男が曳けばよい。

駅からほど近いレンタルルームで性器を繋げた。コンドームを売るコンビニやドラッグストアがなかなか見当たらないのに痺れが切れて、あたしがピルを飲んでること、知ってるでしょうと唆しても聞く耳を持たなかった男も、3軒以上のはしごが空振りに終わったところで観念して、「とりあえず」と個室へ私の手を引いた。この発散地点の受付ではコンドームが売られていて、抜け目のない男はそれを見落とさなかった。防音性能は保障されていなかったものの、だれかの気配を感じることもなかったから、お互いの名前を絶叫して再会を喜びあった。私たちに少し遅れてチェックインした風俗嬢と利用客と思しきほがらかな談笑が睦言をさえぎったとき、丸聞こえじゃないのとふたりで笑った。

背を向けた男の両の腰骨を手のひらで包み込んでみると、これがまたしっくりくるので、

「これはあなたの取っ手だね」

と言うと、何だよそれは、と左肩越しのはにかみが眩しい。

ああこれは、あたしが男なら、やっぱりここを掴んで突きあげちゃうかも、生殖の必然ってやつね、と男を責め立てて遊んだ。


新しい恋人は私を魔術師だというので、この旅にはとっておきの陳腐を仕込むことにしたのだ。

鼓舞・嫉妬・鎮魂・慕情・殺意──種々の「祈り」を閉じ込め、口紅を、ハイヒールを、装飾品を選ぶ私に呆れた彼が、こう漏らしたことがあった。

「女は魔女だとかいうけどね。きみが理想とする女性像ってやつの髪の毛を顕微鏡で見たら、きっとおれには読めないような文様が彫り込まれているんだろ」

ただの文様じゃなくて、呪詛なんだけど。まあいいや。きょうは魔術師見習いの若くて美しいあなたに、魔法をつくるところを少しだけ見せてあげようと思っているの。


男が気まぐれに書く詩、なかでも私を射抜いたあの詩の文脈を「聖地巡礼」して、もういちどきみを口説いてみたいよ、と言っていたのはいつのことだっただろう。ガード下の酒場で臓物を焼く業火の熱風をかきわけ、正面で私の右脚を挟み込む男の頬を撫でては、何度もその輪郭を確かめた。優秀なおさんどんぶりを見せる男が焼いたタンはぶ厚くて、つぶつぶ粟立つ表面に集合恐怖的なざわめきを自覚しつつ、背徳の歯ごたえと旨味にきゃらきゃら騒いだ。

入れ替わりに手洗いに立ったはずの私にまとわりついて個室まで侵入した男を叱りつけ、犬のようにくうんとおどける可愛げに舌打ち。がたぴし言う引き戸の外は寒くて、脂のはねたブーケにごめんね、と詫び、あなたって酔いがあんまり顔色に出ないのね、と驚く。美しい東京の冬、私と彼以外の灰色が作るいきれの中で、何度も何度も何度も何度も何度も何度もキスをした。


黒服の女たちが笑顔を張り付けて私たちを迎えたコスメカウンターで、垂直に差し込まれた無数のリップスティックの中の一角をしめして男を唆したら、魔術師業の商売道具を調達するのだ。

「この……キャップがゴールドに透けているやつのなかから、インスピレーションでいっぽん、選んでみてよ。ああ、文字は読まないで……」

男が選んだのは深いボルドーだった。店員を呼びつけて「これを」と指して、

「彼が使うので」

と示された彼は目を見開いて一瞬驚いたようだったけれど、スパチュラにこそげ取られた紅のひとさじと、手渡された小さな筆でもって、臆する様子もなく鏡を覗きこんでは器用に唇を彩るので、なるほど、こなれやがって、と思う。バニティケースに放り込まれたような店内にも一瞬で馴染む軽薄な男を待つ少しの間に、1月の頭に販売されたヘアオイルだの、アイクリームだの話を聞いていた。

──このボルドーにどんな名前があるか、あなた、まさか知らないでしょ。

できたよ、と声をかける彼の唇に、あの夜のハリボーが再現されたのをたしかに確認する。


「口紅にはたいてい名前がついてるって、前に教えてあげたでしょう」
SUQQUの恍華
「そう。それでもって、さっきあなたが選んだやつの名前は──」

ドミナント。

囁くと、男が思い切り背を丸める高笑いがフロアにこだまして、ドクターズコスメティクスで知られた白衣の店員が、私たちを怪訝そうに見ていた。

「こんなことってあるのかよ、ドミナント、うわはは」

いつだって彼と過ごす日は、陳腐が出来すぎてしまって、吹き出しそうになる。というかこうして、我慢しきれず大声を上げて笑ってしまう。

ねえ、大好きよ。あなたが私と融けあうこと、私たちだけの重婚、すべての性を私に奪わせるのに同意をしたこと、さっきの彼女に証人になってもらったの。ううんきっと、あの時あなたが口紅を塗るのを目撃した全てがこの婚姻を見届けた。他人を介在させた呪いは、私がひそやかに編むそれよりも、きっともっと強力のはず。

私にとっては花婿であるところのあなたは生物学的にはオスだけれど、同時にとっておきの花嫁でもある。今晩、ふたりでおんなじ味になろう。口紅の次は、異国の塩とオイルで作られたボディスクラブを。ショップに並んだガラスジャーの中身はだいたいが良い香りだけど、どうせならこれも、あなたの嗅覚で選んでみて。私たちって、肌の白さと乳首のメラニンが作るコントラストまで似ているけど、肉体が融け合う下準備に塩をもみ込むなんて、まるで宮沢賢治のあれみたいじゃない?

男が選んだジンジャーオレンジは、爽やかな甘みを持った紅茶みたいな香りで──ひょっとして、あの日に味わえなかった紅茶のこと、まだ根に持ってるの。


ワインショップの一角に設けられたスペースで、きょう2回目の乾杯を。

「あのさあ、舌の肥えた男に……下の方を舐めさせるのって、なんだか申し訳ないって言うか」

と切り出すと、

「きみさあ、食とセックスを結び付ける無粋は嫌いって言っておいてさ」

と呆れたので、私は良いの、と男のほうのミモザのグラスを手繰り寄せたところに、おいしかったよ、と彼がふざけた。

「このボディスクラブは塩でできているけど……おもしろいもんで、少し前に別のブランドで話題になったのはお砂糖のフェイススクラブ。お顔は甘く仕上げて、からだは塩で引き締めるの」

この対称性って陳腐でおもしろいでしょ、と水を向けると、

「ははあ、きっと粒子の大きさの問題だ」

と色気のないことを言ったので、シュガーのスクラブが頬の体温になじむ感じは、塩ではちょっと味わえない陶酔と甘美があっていいんだから、とひとすくいの隠し味を伝授するのを止めた。


かつて男がアジトにしていた喫茶店からほど近いティーサロンでは、宇宙のような奥行きで花弁がうずまくチーズケーキを食べた。スクラブと、同じ香りをしたクリームのポンプとが包装されるのを待つ間、切り分けられる前の石鹸のディスプレイに、彼は煮凝りを想起していたという。

イルミネーションを歩く私には、じつは男のつけた痣と歯形でもって記名が済んでいた。ほんとうは、てきとうなところであなたにドミナントを塗り直したかった。私だってあなたの唇に記名して、ここを歩きたかった。

「1泊2日のデートプラン、だいたい消化しちまったね」
「出会って30分で合体してる」
「そのあと酒を飲んで」
「買い物をして」
「お茶をして」

再会からの足跡を辿って現在に到達して、きっと彼も私と同じことに気付いてしまったのだろう。思わず顔を見合わせて

「なみちゃん、これじゃあ順番が逆だ」
「ほんと。……少し前に話題になった、そごうの広告みたい」
「そごうの広告!」

何度めか分からない高笑いのかたわらで、私の右手はブーケを振り回している。どこからどう見たって痴れ者でしょ、こんなのって。


***


浴室の窓から東京タワーを一望して、何だかこんな不埒な文脈を摂取したことがある気がする、と訝る。

そういえば昨年の夏、スカイツリーをまともに見たのは友人に手を引かれた錦糸町で、女性用風俗のセラピストと対面する数十分前のことだった。首都のランドマークの数々に、隠匿必須のふしだらがタグ付けされていく。東京が私にとっては大いなる非日常で、本当に良かったと思う。

彼が溜めたバスタブは、熱くて腰が引ける。この魔女は猫舌ついでに熱湯にはめっぽう弱いから、かけ湯をしてやり過ごしているところに、「おれのからだは冷たいから」と男が言う──湯温が下がったからおいで、ということらしいのに気付くのには数秒を要してしまった。あれだけあけすけに振る舞うくせに、ずいぶん遠回しな誘い方をするのね。


「孤独って、こわい?」

塩味を仕込んだ彼がベッドでぽつりぽつりと開示をやるので、私のある性向について、彼の解釈に触れてみたくなった。

意識か無意識か、自分でももはや分からない──所属するコミュニティを変えるたび、それまでの人間関係を断絶してしまう悪癖が、私にはある。私自身の企てを外した人格の連続性を付与されることに、なみなみならぬ恐怖があるのだ。だから、時に欺くように開示のグラデーションをコントロールしたり、時にはデコイのようなフィクションを提示して、即興で劇場型の女であり続けるのだと思う。

彼と私はよく似ていると思うけれど、決定的な差異を痛感するのは、男はこうした人格の連続性を、社会生活においてはある程度回避不可能な煩わしさとして、きちんと消化しているということだ。匿名性を着込み、誰かが押し付けようとする一貫性に唾を吐き、あくまで逃げ切ろうとしている私とはまるで違う。程度の差こそあれ、彼にも私に似た傾向はあるはずだけれど、そうした気質ともうまいこと和解し、何となく世間に対して望ましい形でケリをつけ、社会的にはまともな男として振る舞うことに成功している。

──それができない私を、あなたは孤独だと思う? かりに孤独だと規定されたとして、悲しくも寂しくもないんだけど、ちょっとあなたの意見を聞いてみたくて。

「連続体としての自分について、ありていに言えば、『本当の自分を知るのは自分だけ』だったとして、一から十まで全てを開示する相手を持たないとして、たとえばあなたはこれを孤独と表現したりする?」

一瞬の逡巡のあと、

「断絶の蓄積が作り上げたのがきみで、それはある種で連続体としての結実じゃないの」

質問の答えにはまるでなっていないのに、彼を愛してしまった理由に意図せず到達してしまった気がして、ああ、やっぱりあなたがいいよ、どうしてあなたってそんなに良いの、と絶句してしまう。一切の社会性を放棄してこの男に熱狂できることに、どうしようもない息苦しさと高揚が抑えきれず、胸が高鳴ってせりあがる潜熱が頬を上気させるのを悟られないようにするので精一杯だった。

「ごめんなさい、私やっぱり、あなたが大好きだって分かっちゃった」


繋がれば繋がっただけ、暴力許容の天井高を高精度に握り合っていく。これは比喩でも直言でもあって、セックスや慕情の表現はもちろん、解釈を任せた大放言だとか、私たちの間には種々の暴力性が横たわっているけれど、勝手に緩急をつけていれば、何となく良いところにおさまってしまう。おねがい、私の頬をぶって。みっともない大喧嘩で私たちが破綻するまで、何度もぶちのめして。持ちうる暴力に自覚的で無自覚的で、最後には無責任のあなたが大好きよ。


***


早朝に寝息を立てる男の姿は、さながら聖骸のようでもあった。

私は自らに内在するフィクションをいくつも男に提示して、そのうちのいくつかには彼をも包摂するようになった。私たちはたぶん、癒着してしまった。まっすぐ天井を見上げるように眠る男が描く稜線を視線で辿りながら、私に見えない彼の左の半身は、果たして本当にそこに実在するのだろうかと、とつぜんに薄ら寒くなる。

馬鹿げた仮説でも、真実を確かめるのがどうしても怖くて、強張ったからだのまま視線だけを移動して、窓の外のモンブランのビルを見下ろす。少し前から関係の停滞してしまったオフィスのあのひとが胸に差している万年筆と、その彼から私の誕生日に贈られたボールペンと同じマークを見下ろす。昨晩に男があのビルはなあに、と尋ねてきたけれど、さあ、知らない、ととぼけた。彼もすっとぼけていたのかもしれない。

世界5分前仮説って、知ってますか。

いま私に示された世界だけが本当なら、彼の半身の実在は危うく、ひょっとすると、彼から見た私の右半身も存在しないことになるのかもしれない。ここにある半身をふたつ持ち寄ったら、雌雄同体のひとつが出来上がる。彼はよく私に「どうしてきみってそんなに良いの」と言うけれど、どうして私たちってこんなに良いんだろう。


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つとめて私のフィクションに身を融かそうとする彼が、この頃はすごく愛しい。大誤算は、このいじらしさがストーリーのスパイスでなく、世界の成立の前提条件になってしまったことだ。私が彼のいじらしさを織り込んで紡いだフィクションを、ふたりがかりでそっと紐解いて、答え合わせをするのだ。ぼんやり覚醒した彼が覆いかぶさって、私の頭ごと抱き込んでキスをする。ほら、こんどは、向かい合う表の半身と半身でひとつ。粒子が集まって、私の視界に触れたところだけ、彼が立体で像を結ぶ。

聖なる骸はいよいよ息を吹き返して、かんたんに身支度をしたら朝食に行こうか、と言う。いやだ、もっとこうしていたい、と駄々をこねているとひっくり返されて、うつ伏せの私に侵入する。きもちいいけど、あなたが見えない、きもちいいけど、本当にそこにいるの。左肩越しに振り向けば、半身のすべては目視確認できないけれど、たぶんきっと、たしかに存在している。こんどはあなたのA面と私のB面で、ひとつ。

起き抜けの下半身で穿たれる感覚で、推測を盲信に変えることができる。こんな愉しみは夢でいいよ、たまにあなたは言う。私はそのつど、その棘を曖昧に笑っては無視しちゃって、恋した男の実在に感謝しながら、ひっそりと現実の錨を下ろしている。


料理を盛りつけた鮮やかなプレートを差し出して「何点かい」と聞くので、「120点!」とはしゃぐ。これは、ルバーブのジャム。ルバーブってなあに。ルバーブは酸味の強い草でね、と説明する男の美しい横顔を見ながら、私、すっぱいのだとか苦いのって大好き、と幼稚な開示を明け渡そうとして、またしても止めた。魔術師が口走ってよい幼さではない。

甘やかし合ってジャムになろうと彼が私を唆したことがあったけれど、正しく葉を茂らせて堅実にみえる酸味の草なら、あんまり可愛くないのでちょっといただけない。そういえば昨晩は開示の過程で、バターとショートニングの話を聞いたっけ。

ここのビュッフェは野菜がよかったね、と言いつつ戻った密室で唇を寄せた。昨日から何度となく暴かれたせいで、からだの制御がじょうずに効かずに、舌を噛み切りたいほどに恥ずかしい氾濫と決壊を見せつけてしまった。吐き出した精液を薄いくちびるでもって掬い上げた彼が口移しで注ぎ込み、30分だけ、と言って眠りについた。「取っ手」のない私の左腰のあたりをあつく濡らした水たまりは、口に含んでみるとちょっとフルーティで、時間差で奥行きのある苦みとえぐみが喉を焼いた。ちなみに私の取っ手は、肉づきで隆起した恥骨なのだという。


***


昨日に引き続いて逃げ込んだ白昼のガード下で視線を絡ませながら、昨日彼が選び取ったドミナントについて思いを馳せる。

「じつのところさあ、サドマゾ的な文脈としてのドミナントしか知らないよ、わたし」

日光のもとに引きずり出された私はなんだかバツが悪くて、魔術師なんかじゃない、浅学でちっぽけな実在を自己申告しながら、iPhoneをタップして辿り着いたdominantの語義のいくつかを示し、「支配者、どっちだろ」と尋ねる。答えなら知っている。

狭いテーブル越しに口紅をこそげ取るようなキスが続いて、

「支配性、これで半分こだ」

私の半身を自称する男が、唇をなじませながら、しゃらくさく、妖艶に笑った。




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