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「恍華」

ひょんなきっかけで知り合った仙人の居に招かれた。

女を住まわせていると聞いたので、(彼女の素性や嗜好は分からないが)いかにも女が喜びそうな手土産を黒い小袋に潜ませて、たちこめる霧の中を歩いた。不思議なことに、名古屋から履いてきたロックポートのハイヒールで、岩場をすいすい歩くことができる。


彼に呼び寄せられたのは私にとって僥倖といってよく、理由を聞けば、「きみのカメラの解像度がいいやね」と言ってクラフトジンをあおった。愛知でもクラフトジンを作ってるみたいです、お気に召すか分からないですが、と地下鉄の広告を思い起こして呟きかけたが、彼の口には合わないだろうから、やめておいた。どうせ醸造所にゆかりはない。

仙人が私を押し倒して下唇を噛んだので、贄の儀がはじまるのだと直感した。力任せにワンピースの裾を剥きあげられて、視界が失われる。温度のない指先が這う感覚がして、「あれ、こんなはずじゃなかったんだけど」と落胆したような声が聴こえた。だから言ったじゃないですか、大した女じゃないんだって。体内に仙人を受容すると、覚えのない瑞々しい男の名を、無意識に唇がうたうのが分かった。これは真名だ。目の奥がツンとあたたかく、私は確かに恋を覚えていた。


視界が復帰すると、仙人は姿を消しており、代わりに座っていたのは蛇のような女だった。小袋を開け、髙島屋のコスメカウンターで私が選んだ口紅を塗っている。見れば仙人が同居するのにふさわしく、体温を感じさせない女だった。私は彼女を想ってこれを選んだんだっけか。きょうは紅筆を持っていない。彼女の唇で紅は融けるのだろうか。

美しい器にジャムが盛られていたので、スコーンにホイップバターとまぶしてそれを平らげた。厚く短い前髪は彼女の双眸の鋭利を引き立てて、「きれいだね」と私は何度も彼女をほめそやした。


女と入れ替わるように戻った仙人にラブレターを渡した。彼を受信してほんの少しの時間しか経っていない。真名を叫んだ唇が動くままに「あなたのことが好きでした」と言うと、「きみのことばは水より飲みやすい」と要領を得ない様子でキスをして、そこで再び視界が失われたのだった。


霧が晴れた帰途で、私の子供のことを思う。

仙人は私のレンズを褒めたように記憶しているが、家庭内に小さなヒトがいると感性が磨かれるように感じるのは、単に彼らの複眼慧眼の恩恵をうけているにすぎない。彼らに向き合うたび、私の視界は狭くクリアに、そして鮮明になる。

例えば男──オルソケラトロジーのように眼球に癖がついたまま男を見ると、たいていどんなやつもそれなりにセクシーに、元々セクシーな男はむせ返りそうなほどセクシーに見える。子育てとは偉大な経験である。私が「母」でなければ、仙人が私を見つけることもなかっただろう。子供を産んで良かったと思う。仙人が放った小さな白い蛇がくるぶしを噛むのを見る。日が落ちるのが早くなってしまった。




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