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仁澪130号


巻頭言 神様のカルテと医師の働き方改革

「医療改革がうまくいかないのは交わされる議論が、いつでも技術や金銭の問題に終始しているからですよ。最初から医者を一人の人間として認識していないのです。医者にも家族がいる。そういう当たり前のことが度外視されているのです」
―『神様のカルテ2(小学館文庫)』夏川草介著より

 以前より「神様のカルテ」を題材にして学生講義で医師の働き方のcinemeducationを行いたいと思っていました。しかし、コロナ禍のため対面授業ができず、伸び伸びになっていました。今年は3年ぶりに対面講義が可能になりました。cinemeducationで学生のフレッシュな意見を聴き、共に討論し、彼らの医師人生の礎の一部になればと考えています。ちなみにcinemeducationとはcinemam、medicine、educationを合わせた造語です。編集された映画の場面を参加者で体感して共有し、ここが感じたこと考えたことを討論し、参加者全員で学びを深めることが可能であり、非常に有効な教育手段と思います。

 神様のカルテは、365日24時間救急対応の病院で、時間外勤務が軽く月100時間越えの主人公:栗原一止とその仲間が織りなす物語です。著者の夏川草介自身が医師という背景からくるリアルな医療描写と、一止を通じて描かれる医師と患者の関係性や生死についての考察は、多くの読者に感動を与えています。

 神様のカルテは映画とテレビドラマとして映像化されています。続編の神様のカルテ2では、2024年4月に迫った「医師の働き方改革」に関わるたくさんのエピソードが出てきます。主人公の栗原一止の働き方自体だけでなく、医師の勤務に隠れた家族の苦労、体調が悪くて勤務できなかった医師に対する患者家族からの叱責、時間外に主治医の診察や病状説明を当然のこととして捉える風潮など、医学生のみならず全職種の医療関係者と討論したいシーンが満載です。

 冒頭の台詞はこの小説で、最も私の心に響いた内科副部長の言葉です。「医師の働き方改革」の原点はここにあるべきです。今回学生講義をするにあたり、厚労省が提示する指針を私なりに丁寧に検討しました。これらの指針の根幹は、まずは医師の時間外労働時間に制限をかけて、出てくる諸問題に対策を練ろうとするもくろみです。時間外労働時間は960時間~1860時間まで許容され、これは他の職種では過労死ラインとされている一線を軽く超えています。やはり医師は一人の人間として認識されていないのです。

 医師法19条1項にて「診療に従事する医師は、診察治療の求めがあった場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない」と定められています。いわゆる医師の応召義務です。医師の中にも、「いつ、どんなときにも患者から診療を求められた場合、医師であれば必ず対応しなければならない。」と考えている方も少なくありません。しかし、診察時間外で患者の生命に危険が及ぶ緊急事態を除けば対応しなくても良いとの通達がなされています。

 しかし、患者やその家族の多くは、医師は如何なるべき時も診療の求めに応ずるべきで、一般の労働者と医師の間に一線を画するべきだと考えています。驚くべきことに、医師を守るべき立場である前医師会長の横倉義武医師は「医師の働き方改革実行計画」の定例記者会見で次のように述べています。「多くの患者や国民から『医師が労働者であることは違和感がある』と言葉をいただいた。正直申し上げて、私も『労働者』と言われると少し違和感がある。応召義務の問題では、勤務時間の規制に抵触しようと、目の前の患者さんを救ってほしいというのが、多くの国民と医療者の思いである。」

 私自身も大学病院や市民病院で心臓救急医として、夜も寝ないで家にも帰らず、患者の診療のために頑張ってきました。辛いこともありましたが、新しい知識や技術を吸収し、診療チームを作り上げる楽しさの方が優っていたと思います。このキャリアは私の大きな誇りです。しかし、それを今の若い人に押しつけてはいけません。多くの医師が自己や家族を犠牲にして医療に献身的に尽くしてきた結果、他の職種では考えられないほどの時間外労働を生み、自分達を精神的・肉体的に疲弊させ、多くの過労死や自殺という最悪の結果を生み出してきました。前医師会長の発言は慎重さを欠いた残念な発言というべきでしょう。

 2024年4月まで約半年になりました。医学の進歩は目覚ましいものがあり、これに追従して行くだけでも多大な労力を要します。多くの研修医が学び勤務する大学病院、教育病院の指導医のご苦労は大変なものだろうと思います。診療報酬の増額がない中で、他の医療職へのタスクシフト、複数主治医制やチーム医療など様々な対策が練られて行くことでしょう。しかし、医師も一人の人間であり守るべき自分の生活や家族がいるという当たり前のことを、患者や患者の家族、そして医療職全員が心から共有することが最も重要だと思います。医師が十分な自己研鑽の時間を持ち、家族との時間や休息の時間を楽しみ、ベストな状態で患者の診療にあたることができる日が来ることを願っています。

仁澪会定時社員総会 御挨拶

一般社団法人仁澪会 理事長  生野弘道

 皆様こんにちは。私は昭和44年(1969)、今から53年前に卒業いたしました生野でございます。高いところからご挨拶を失礼いたします。
皆様には大変お忙しい中、お集まりいただき誠にありがとうございます。私たち医学部卒業生は5,000人を超えます。その方々を代表して、代議員としてこの総会にご出席いただいております皆様に対し誠に感謝しております。
新型コロナの感染症の行動制限も緩和され、本総会も対面で行っていますが、やっぱり予測どおり6月末には第9波相当とも言われていますが確実に感染者は増加しております。世間では、あまり気にしないでおこうなといった雰囲気もありますが、医療関係者はそういうわけにはいきません。医療従事者間、患者さん間にもどんどん感染者が出て、施設ではクラスターが発生し、100人も集団感染している病院も見られます。ただ重症患者さんが少なくなってきているのが救いです。
私たちといたしましても、感染対策を十分に行いながら、今後ともウィルスの変異状況やワクチンの耐性等にも注目しながら、大阪府・市等の行政とも力を合わせながらやっていきたいと思っているところであります。
さて、私ども仁澪会は、今から7年前の平成28年(2016)に、財務や運営等をきちんと法に則った運営を行うため、一般社団法人となりましたが、私たちはやっぱり公益法人を目指しております。公益法人では寄付に対しての優遇措置があり、多くの先生方からも早くするようにとのご意見も承っております。京都大学あるいは大阪大学でも公益法人への移行には大体10年かかっております。私どもも、この間、財政基盤の強化を行い公益事業の再開等を検討しております。2016年から10年近くが経過し、やっと来年度こそ公益法人になれるんではないかというところまで来ました。
大阪公立大学医学部も来年は創立80周年になります。大学も積極的に同窓会を巻き込んで記念事業を行おうと計画されています。そして、2年後の2025年には夢のように立派な森ノ宮キャンパスが棟上げします。市大・府大が統合し、学生も16,000人と国公立では阪大、東大に続いて3番目という大きな組織になりました。
医学部につきましても、先輩や我々OBは日本一を目指して、それをぐいぐい引っ張っていきたいと考えております。
それでは、実りある活発なご議論をしていただくことをお願いし、令和5年度社員総会のご挨拶とさせていただきます。

令和5年度定時社員総会次第

1.開会の辞
2.理事長あいさつ
3.物故会員に対する黙祷
4.議長選出
5.議事録署名人選出
6.報告事項
 1)令和4年度事業報告
2)令和5年度事業計画
3)令和5年度収支予算
7.議案
1)第1号議案
   令和4年度収支決算の承認を求める件
2)第2号議案
   任期満了に伴う次期役員候補  者の承認を求める件
8.仁澪奨励賞贈呈
9.新任教授ご紹介
10.閉会の辞

新任教授御挨拶

診断病理・病理病態学 教授 孝橋 賢一

 2023年4月より、診断病理・病理病態学教授を拝命いたしました孝橋賢一と申します。私は兵庫県の出身で、滋賀医科大学を卒業後、九州大学小児外科に入局しました。その後、大学院生として九州大学形態機能病理に出向し病理医としての人生をスタートさせ現在に至っております。
病理学は、大きく診断病理と実験病理に分かれており、当教室は、診断病理を担っています。対象とする疾患は、腫瘍から非腫瘍性病変まで広範囲に及んでおり、1個人で全ての領域を網羅することは到底できません。また、病理組織像は、同じ疾患であっても非常に多様性に富んでいます。組織像が同じであっても、臨床経過により解釈が全く異なることもあり、臨床各科との連携が欠かせません。私自身は小児病理および腫瘍病理(特に骨軟部腫瘍)が専門ですが、教室員ならびに臨床各科の先生方とともに ONE TEAM で日々研鑽を重ね、病理診断に取り組んでまいります。
 病理学的知識は、疾患を深く理解するうえで不可欠なものと思います。卒前はもちろんですが、卒後も診療上有用な知識となりえます。提出された検体のマクロ像からミクロ像、また病理診断書の解釈の方法まで、丁寧な説明を心がける所存です。このことが、医療水準や研究意欲の向上につながり、大阪公立大学の発展に寄与するものと信じております。
 私は、良質な病理診断と病理学研究のためには、感性を研ぎ澄ますことが大切と考えております。すなわち、精神的肉体的な健全性と基礎となる知識力向上のための不断の努力です。体調を整え1例1例を大切にする気持ちと、病理にとらわれない幅広い視野で考えることが必要です。そうすることで、日常診断のちょっとした違和感や疑問点が研究に発展してくるものと思います。私はSWI/SNF chromatin remodeling complexと骨軟部腫瘍との関連をテーマに研究してきましたが、きっかけは大学院1年目に遭遇した1例の軟部腫瘍でした。若い先生方には、そのような出会いを大切にし、病理の面白さを伝えていければと考えております。今後とも、ご指導賜りますようよろしくお願い申し上げます。

病因診断科学 教授 樋口 真人

 2023年4月1日付で、健康長寿医科学講座・病因診断科学の教授を拝命いたしました樋口です。2027年に開設が予定されている健康長寿医科学センター(仮称)は、認知症の研究所・病院・老健が一体となった統合施設であり、本講座はこのセンターにおける基礎研究のコアとなることを見据えて新設されました。認知症など高齢者の精神神経疾患の病態を解明し、診断システムの開発に取り組むことが本講座の使命です。2024年度には認知症の治療に関する基礎研究を担う講座が発足予定であり、2つの講座が連動して疾患制圧を目指すこととなります。
 私は東北大学医学部を卒業後、1997年より老年内科医として同大学に勤務いたしましたが、当時はアルツハイマー病などの認知症の病態に基づく診断法は存在せず、疾患修飾薬も開発すら行われていませんでした。そこで疾患モデル動物を活用した診断・治療法開発ができないかと考え、米国に留学して認知症モデルマウスの作出に携わりました。2005年に赴任した放射線医学総合研究所(放医研)では、このマウスを用いてポジトロン断層撮影(PET)により脳の中に沈着するタウタンパク質病変を画像化する技術を創製し、臨床応用を果たしました。放医研はその後、量子科学技術研究開発機構(量研機構)に変わり、私は産学および学学連携アライアンスの構築と、それを通じたPETと血液バイオマーカーの相互促進的な開発を主導しております。
 今回の着任は、大阪公立大学と量研機構のクロスアポイントメントになります。両機関は2022年12月に包括的な連携協定を締結し、認知症研究においても東西の拠点となりオールジャパン体制を牽引することが見込まれます。私は東西をつなげる役割を担わせて頂きますが、「西」と「東」でそれぞれどのような特色があり、それをどうつなげていけるのかと考えることしきりです。つながりの主体は人と人の結びつきなので、多くの方々と助け合う関係を築いていければと考えております。どうぞよろしくお願い申し上げます。

歯科口腔外科学 教授 中原 寛和

 2023年4月1日付けで大阪公立大学大学院医学研究科歯科口腔外科教授を拝命いたしました中原寛和です。2012年(平成24年度)の“がん対策推進基本計画(第2期)”にて、特定機能病院への歯科(口腔外科)の設置が義務付けられました。その規定に伴い、2015年4月、大阪公立大学医学部附属病院(当時大阪市立大学)に歯科口腔外科講座および診療室が設置されました。病院5階の会議室を診療室に改装し、同年10月1日より診療を開始いたしました。がん対策推進基本計画に『各種がん治療の副作用・合併症の予防や軽減など、患者の更なる生活の質の向上を目指し、医科歯科連携による口腔ケアの推進をはじめ、食事療法などによる栄養管理やリハビリテーションの推進など、職種間連携を推進する。』との記載があり、心臓血管外科、消化器外科の手術前後の患者さんの口腔ケア、女性診療科、血液内科の化学療法中の患者さんの口腔ケアを中心に、多くの診療科よりご紹介頂き診療を行っています。
 近年のトピックスとなっている、悪性腫瘍の骨転移への治療や骨粗鬆症の治療に用いられるビスフォスフォネート製剤やデノスマブによる骨吸収抑制薬関連顎骨壊死に対しては、投与前から口腔ケアを行うことにより、顎骨壊死の発症予防につながります。同様に難治性疾患へのステロイド薬投与時、ビスフォスフォネート製剤併用の際にも起こりうる顎骨壊死も、投与開始前から口腔ケアを行うことが重要です。皮膚科、骨内分泌代謝内科、整形外科をはじめ、多くの先生方に口腔ケアの重要性を認識いただいております。
さらに、今まで歯科検診が義務付けられているのは高校生まででしたが、“骨太の方針2022”で国民皆歯科検診の体制を整備していくことが明記されました。
 今後もますます医科・歯科連携の重要性が増してくると考えております。微力ながら、大阪公立大学大学院医学研究科および医学部附属病院の発展に貢献できるよう努めてまいります。同窓会の先生方にも、ご指導ご鞭撻を賜れますと幸いでございます。歯科口腔外科スタッフを含め、今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

Teacher of the Year /Student of the Year

Teacher of the Year 基礎医学系 
機能細胞形態学 准教授 松原  勤

 この度、2022年度Teacher of the Yearならびに仁澪奨励賞を賜り、誠にありがとうございます。2022年度はCOVID-19が収束しつつあり、慎重を期すものの、対面授業ならびに通常の肉眼解剖実習ができました。解剖学は医学の基本であるため責任を持って指導し、「Teaching is Learning」を通して「学び」を得るように学生同士でのディスカッションやプレゼンテーション等を多く取り入れています。知を探究する「学び」の醍醐味が伝わり感じられる医学教育に努めてまいりますので、引き続きご指導ご鞭撻のほど宜しくお願いします。

Teacher of the Year 臨床医学系
総合医学教育学 准教授 栩野 吉弘

 この度、Teacher of the yearならびに仁澪奨励賞を賜り、誠にありがとうございます。私は、総合医学教育学の所属であり、学生と接する機会が多くあります。その中で、特に大事にしているのが総合診療科外来の実習です。初診患者の診察、具体的には、医療面接、身体診察、検査や治療の方針の議論、カルテ記載などを学生が主体的に行い、診察後には、必ず個別のフィードバックを行うように心がけています。今後も「学生のためになることは何だろうか」を考えて学生教育を継続していこうと思っています。
 医学部同窓会の皆様には、今後ともご指導のほどよろしくお願いいたします。

Teacher of the Year 社会医学系
公衆衛生学 助教 松浦 知香

 このたびは、身に余る賞をいただきありがとうございました。私自身は、2003年から2009年には学部生として、2016年から2020年には大学院生として、大阪市立大学医学部医学科(大学院医学研究科)で学ばせていただきました。勉学に関しては、勤勉・優秀な学生であったとは言い難いものの、大変充実した学生生活を送らせていただきました。ご縁があって2021年4月より公衆衛生学の教員に就任いたしました。まだまだ教育に関しては試行錯誤の連続であり、反省することばかりですが、今後より良い教員になれるように日々努力したいと思います。

Student of the Year  “仁”
大倉 裕矢

 この度はStudent of the year“仁”に選出していただき誠にありがとうございます。この賞は決して私1人の力で得られてものではなく、いつも支えてくれた友達、そして厳しくも暖かい指導をして下さった先生方がいたからこそと考えております。医師になってからもこの“仁”の賞に恥じない、患者様に寄り添う医療者になれるよう日々精進していく所存です。
 最後になりますが、このような名誉ある賞を与えて下さった医学部同窓会の皆様に厚く御礼申し上げます。

令和5年度第12回大阪公大医師会役員の会

令和5年8月26日 スイスホテル 35F ベルビュー

去る8月26日スイスホテルにて大阪公大医師会役員の会を開催いたしました。今年で12回目の開催となりますが、コロナの影響で2年間開催中止となりましたので、第1回は14年前の開催となります。当時、堺市の医師会長だった樋上先生、河内長野市医師会長だった山片先生と羽曳野市医師会長だった増田が世話人となってこの会が開催されることになりました。
大阪市大(当時)関係者で地区医師会等で活躍している先生が集まって情報交換を行ったり、親睦を深める目的で例年8月に開催をしてきました。多いときは20人以上の参加者がいましたが、今年は16人の先生方が集まりました。樋上先生の開会挨拶の後、生野仁澪会理事長に乾杯の挨拶をしていただき、和やかに歓談をすすめました。その後、各先生から近況報告をしていただいたのですが、各先生方、話題が沢山あり、予定の時間を過ぎてしまいました。最後に山片先生に閉会の挨拶をいただき、記念写真を撮影し、閉会となりました。
大阪公大関係者で各地区医師会で活躍をしている先生にお声がけをしていますが、幹事の力不足でお声をかけれていない先生方が居られると思います。できるだけ大きな会にしていきたいと考えていますので、参加しようかなと考えていただける先生が居られましたら幹事まで連絡をしてください。

幹事 昭和59年卒 調子和則
昭和59年卒 矢田克嗣
平成4年卒 木下裕介
昭和57年卒 増田 博

理事だより  理事就任3年目

大阪拘置所 法務技官 平成6年卒 鹿野 裕子

 令和2年に理事に就任させていただきました平成6年卒・鹿野裕子です。卒後29年が経ち、来年には卒後30年になります。この節目の年に理事として母校のお役に立てることは幸甚に存じます。
 大阪公立大学は森ノ宮キャンパスへの移転を控え、近くには大阪メトロの新駅も開業の計画があるようです。森ノ宮は市内中心部に近く、付近を通る機会も多いことから、新キャンパス開校後は母校を目にする機会が増えるであろうと、とても楽しみです。
 今後も発展し続ける大阪公立大学を応援し、少しでもに皆さまのお役に立てるよう、微力ながらお力添えさせていただく所存でございます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

大阪市大医学部79年と附属病院99年の歴史-ⅩⅩⅩⅥ 泌尿器科学教室

内田潤次(平成5年卒)

■初代田村峯雄教授(写真①)
 大阪市立大学泌尿器科学教室は昭和19年大阪市立医学専門学校開設時より存在した皮膚泌尿器科学教室が前身です。昭和37年に田村峯雄先生が大阪市立大学医学部皮膚泌尿器科学教室の教授に就任されましたが、翌年の昭和38年に泌尿器科は皮膚科から分離独立し、田村先生は初代泌尿器科教授に就任されました。教室黎明期には大学紛争など様々な事態に遭遇されましたが少ない教室員が切磋琢磨し、教育、研究、診療に成果を上げ、現在の教室の礎を築かれました。特筆すべきことは教室として一般泌尿器外科以外に慢性腎不全対策に取組み、関西で最初の人工透析療法を導入しました。血液浄化法の開発、透析患者の病態生理の基礎的、臨床的研究が開始されています。第20回日本泌尿器科学会中部連合総会、第10回人工透析研究会を主宰されました。

■2代前川正信教授(写真②)
 泌尿器科学教室開設時に助教授として着任した前川正信先生が昭和48年に2代教授に昇任されました。教室の方針として一般泌尿器科と人工透析を習得できる医師の育成に重きがおかれました。研究として腎阻血障害、腎虚血再灌流障害に関する研究が取組まれました。腎不全治療以外では国公立大学に先駆けて最初に体外衝撃波結石破砕術を導入されました。また、前立腺肥大症に対する温熱療法、尿道ステント留置術やバルーン拡張術といった低侵襲手術を積極的に取り入れました。泌尿器腫瘍学を含めて泌尿器科全般を幅広く取り組み、臨床、研究をバランスよく実施しました。結果として関連病院、研究業績が増加し、教室は大きく発展しました。学会、研究会として第23回人工透析研究会総会、第5回日本外科系連合学会、第71回日本泌尿器科学会、第4回国際血液浄化学会を主宰されました。

■3代岸本武利教授(写真③)
 平成4年に当時、助教授であった岸本武利先生が3代教授に昇任されました。岸本先生は薬理学を専攻後、昭和46年には泌尿器科に転向されています。慢性腎不全治療として人工透析だけでなく、腎移植の本格的な再開に力を注がれました。国際交流を推進され、Aachen工科大学、Essen大学、Ulm大学、Tubingen大学(ドイツ)、Pennsylvania大学、Baylor医科大学、Texas州立大学、Massachusetts Institute of Technology、New York州立大学(アメリカ合衆国)、Lyon大学、Strasbourg大学(フランス)と積極的に人的交流が行われました。研究面では教室として急性腎不全モデルでの腎血行動態に関する基礎研究を他臓器、全身循環へ発展させました。更に虚血再灌流障害、臓器保存、薬剤性腎障害、腎不全に対する血液浄化法、腎移植に関する研究も実践しました。腎臓病学だけでなく、泌尿器悪性腫瘍、尿路結石をはじめとした腎、尿路、男性生殖器の疾患について、遺伝子学、免疫など分子生物学的研究から生体レベルの研究、臨床研究まで幅広く取り組み、様々な研究成果を構築しました。学会活動としては平成8年には第46回日本泌尿器科学会中部総会、更に平成13年には当時で参加者が1万人を超える第46回日本透析医学会学術集会総会を主宰されました。

■4代仲谷達也教授(写真④)
 平成15年、当時助教授であった仲谷達也先生が4代教授に昇任されました。大阪市立大学泌尿器科学教室の伝統を継承し、腫瘍学を含めた一般泌尿器科と腎不全分野(透析、腎移植)をバランスよく取り組み、臨床面、研究面で一般泌尿器科と腎不全分野を両立し、国内外に様々な業績を発信しました。仲谷先生の専門領域である腎移植件数は大幅に増加し、年間25例程度の腎移植を実施するようになりました。腎移植の成績に関しても生体腎移植15年生着率89%と我が国でもトップクラスで世界に誇る腎移植成績を達成しました。泌尿器癌手術に関して低侵襲である腹腔鏡手術が導入され、従来開腹手術が行われていた泌尿器癌手術もほとんど腹腔鏡手術へと術式も変遷しました。2014年からは最先端の外科的手術であるロボット支援手術が開始されました。学会、研究会として第25回腎移植・血管外科研究会、第24回日本腎泌尿器疾患予防医学研究会、第27回日本性機能学会中部総会、第30回日本泌尿器内視鏡学会、第52回日本臨床腎移植学会、第69回日本泌尿器科学会中部総会を主宰されました。

■5代内田潤次教授 (写真⑤)
令和2年4月に准教授であった内田潤次が5代教授に昇任しました。教室の伝統を重んじ、一般泌尿器科および腎不全外科をバランスよく取り組むことを踏襲しました。しかしながら、教授就任と同時に新型コロナウイルス感染症パンデミックとなり、腎移植プログラムはコロナウイルス感染症のため、一時的に中断せざるを得ない状況となりました。医局員の不断の努力で年間腎移植件数をプレコロナと同数程度に維持することができました。コロナ禍が収束した今年は年間30件以上の腎移植の実施が見込まれます。また、一般泌尿器科領域でも泌尿器癌に対するロボット支援手術件数は現在、大阪府下でもトップクラスです。現在も一般泌尿器科、腎不全外科に関してハイレベルな医療を大阪府民に提供できていると考えます。尚、2024年6月に第39回腎移植血管外科研究会を開催する予定です。

《編集:田中祐尾(昭44年卒)》

岸本武利先生のご逝去を悼む

平成5年卒/泌尿器科学 教授 内田 潤次

 大阪市立大学名誉教授岸本武利先生は令和4年12月15日にご逝去されました。享年86歳でした。ここに哀悼の意を表します。
 岸本先生は昭和37年に大阪市立大学医学部をご卒業され、はじめは基礎系教室である薬理学を専攻されました。岸本先生は薬理学教室で泌尿器科学と関連性が高い腎生理、腎循環に関わる研究に取り組まれていました。昭和46年には泌尿器科に転向され、泌尿器科医として研究面でリーダーシップを発揮するだけでなく、臨床医としても当教室の教育、診療の礎をお築きになられました。
 平成4年4月に大阪市立大学医学部泌尿器科学教室教授に御昇任なされました。教授就任後は「天の時、地の利、人の和」の教室訓を持って教室の研究、臨床のレベルの向上を目指した教室運営を行いました。また、グローバルな視点に立つことができるよう国際交流を推奨されました。教授在任中にはドイツ、アメリカ合衆国、フランスの大学と積極的に人的交流を推進しました。研究面では先生自身が得意であった腎臓病学に関する研究(急性腎不全、虚血再灌流障害、薬剤性腎障害、血液浄化法、腎移植)だけでなく、泌尿器悪性腫瘍、尿路結石をはじめとした腎、尿路、男性生殖器の疾患について、遺伝子学、免疫など分子生物学的研究から生体レベルの研究、臨床研究まで様々な研究を統括し、当教室の研究分野の発展に尽力されました。
岸本先生は長年にわたり、泌尿器科学だけでなく、腎臓病学、血液浄化療法領域でもご活躍なされました。学会活動としては日本泌尿器科学会、日本透析医学会や腎臓関連学会でも要職を担われました。平成9年には日本泌尿器科学会理事に選任され、その他、日本透析医学会理事、体液・代謝管理研究会理事、日本薬理学会評議員、日本腎臓学会評議員、日本高血圧学会評議員を担っておられました。
 岸本先生の卓越した先見の明と指導力及び後進をつつみこむような温かいお人柄は大阪公立大学医学部泌尿器科学教室の発展に多大な貢献をなされただけでなく、泌尿器科学、腎臓学、腎移植領域、血液浄化療法領域と様々な分野に多大な功績を残されました。退官後もよく教室を訪れ、医局員に温かく、叱咤激励くださいました。今後も高所より御指導賜りたい時に、永遠に帰らぬ人となられましたことは、誠に無念であり、痛恨の極みであります。
先生が築かれた大阪公立大学医学部泌尿器科学教室の伝統を汚さぬよう、同門会一同、決意を新たに精進したいと思います。
 先生、長い間本当にありがとうございました。安らかなお眠りをお祈り申し上げます。

大阪の医史蹟めぐり―31 道修町(どしょうまち)

~現在の大阪市中央区道修町一丁目から三丁目辺り~

昭和44年卒 田中 祐尾

 江戸時代前半に大坂という商都に、どのような成り行きで薬の道修町が生まれたのかについて。元和元年(1615)の大坂夏の陣で荒廃した大坂の町は河村瑞賢・安井道頓・淀屋辰五郎といった商人たちによる懸命の掘削・架橋事業のお蔭で、京橋を起点とした淀川から京都伏見への水路による交通、高麗橋から木津川を経た中国・四国・九州からの船便が一挙に拡張した。このうち特に便利な東横堀川に近い伏見町・平野町・堺筋そして道修町といった区域に長崎からの明国・清国そしてオランダからの輸入品が集中して「唐物(からもの)屋」たちが薬を扱ったのが始まりであった。古来我が国の医師たちは本草学を学んで多くの薬草の処方を考案する慣わしがあった。幕府も各藩も渡来した図書を頼りに長崎や江戸に薬草園を栽培して必死に薬草を求めたがうまく育たなかった。この時期新しい薬草薬品の大半は長崎からの輸入品で、年間数十万両が薬の購入に費やされた。当時大坂で薬品に限っては幕府公認の薬種仲買人が集まり、八代将軍吉宗の享保7年(1722)には道修町に124軒を数え「薬種改会所(あらためかいしょ)」が道修町1丁目に設けられ、木村蒹葭堂・田村濫水・平賀源内・柳隆元といった有力商人や知識人たちがたびたび「薬品会(やくひんえ)」を開いた。瀬戸内から大川の水路を利用した迅速かつ信頼できる供給販路が必要で薬品の鑑別・密輸品や買い占め・売り惜しみなどの監視によって価格の安定を図らねばならなかった。現在の道修町一帯に在る薬品会社はこうした店の長年の存続であって多くの大手薬品会社は天明年間(1782~89)から道修町2丁目にその名が出ている(写真③)から240年の歴史を持つことになる。
 道修町の一隅には少彦名(すくなひこな)神社が「神農さん」の愛称で鎮座(写真④)。少彦名神社は薬種業仲間が安永9年(1780)に京都の五條天神より少彦名命(みこと)を薬祖神として仲間の寄合所に迎え、中国の医薬の神「神農氏」と共に祀ったのが始まり。「神農祭」(毎年11月22・23日)は文政5年(1822)に大坂でコレラが流行した際に薬種仲間が病除けの薬として「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきうおうえん)」という丸薬を「張り子の虎」と一緒に神前で祈願し施与したことに始まる。今でも「張り子の虎」を笹に付けて病除けとしている。
 現代のように病そのものを完治させることは無理であると誰もが知っていたのだが、その反面少しでも苦痛から逃れたかったのが人情であり薬への期待は大きかった。当時の我が国は薬品の種類の多さについて、また「薬師(くすし)」と呼ばれた医師たちの持つ薬草知識の多さについては眼をみはる記録がある。

●道修町の変遷
 道修町二丁目・三丁目の『安政3年』と『昭和15年』の地図を掲載します。『安政3年』の地図は安政3年の土地台帳を元に矢内 昭氏が当時の道修町を復原。安政3年の土地所有者名が記されている。
 地図①の右から順に「小吉」は小西吉右衛門、「伏市」は伏見屋市兵衛、「近長」は近江屋長兵衛、「塩吉」は塩野吉兵衛、「田五」は田辺屋五兵ヱ、「大和屋清兵ヱ」は北垣清兵ヱです。地図①で「近長」の表記が複数個所見られるのは当時の有力な商家は複数の土地を所有してそれを倉庫として使用したり賃貸していたから。記録によると嘉永4年(1851年)の道修町2丁目では家持16軒に対し借家46軒、道修町3丁目では家持13軒に対し借家67軒でした。
 地図①からおよそ80数年後の昭和15年の地図②を見ると「小吉」は小西儀助商店、「伏市」は小野市商店と表①のように屋号からそれぞれ姓を表記すようになった。そして更に80数年後の現在、「小西儀助商店」は接着剤のコニシボンドで知られるコニシ株式会社となり、当時の建物は旧小西家住宅史料館として保存公開されている。「小野市商店」の土地には小野薬品工業本社ビルが建つ。「武田長兵衛商店」の場所は武田薬品工業の旧本社となり、現在は武田科学振興財団杏雨書屋が中国・日本の医学・薬学書・博物書を保管・公開している。「田辺五兵ヱ商店」は田辺製薬株式会社となり、三菱ウェルファーマと合併して田辺三菱製薬株式会社となった。2015年に同地に新本社ビルを竣工。田辺三菱製薬史料館を開設している。
 「北垣商店」は北垣薬品株式会社として江戸時代から維持してきた主屋・土蔵を本社として今も現役で使用している(宝暦13年/1763年)。道修町で唯一江戸時代の建物で薬問屋の営業を維持している貴重な会社である。江戸時代から現在まで同地で継続して事業を続けている処は数軒に過ぎない。

学生クラブ活動紹介

水泳部

 医学部水泳部は現在スイマーとマネージャー合わせて約60名の部員が所属しています。練習はオンシーズンの水・日曜日に中百舌鳥キャンパスのプールで、オフシーズンの日曜日に天王寺の屋内プールで行います。実力に合わせて複数の面が用意されているので初心者から経験者まで沢山の部員が自分の目標に向かって練習に励んでいます。今年度はコロナの収束により今まで出来なかったOB・OGの方や他大学との交流の場が増え、直接会って言葉を交わし時間を共にすることで新たな出会いや絆を生むことができました。また、応援の声出しが許可され全員で声を揃えて全力で応援することで部員同士の絆も深まりました。水泳は個人と向き合いながらタイムを縮めていく個人種目の一面と部員同士アドバイスをしたり励まし合ったりすることで一致団結する団体競技としての一面を持つ魅力的な競技です。多様な面で成長できる素敵な水泳部の良さを知っていただけると幸いです。(医学部3回生 勝二 由梨花)

医学部交響楽団

 仁澪会の皆さま、こんにちは。医学部交響楽団(医学部オーケストラ部)です。
 現在、医学部・看護学部の学生を中心に72名が所属しており、毎週月曜日もしくは金曜日に阿倍野学舎の講義室をお借りして、練習を行っております。主に、院内コンサートをはじめとする病院でのボランティア演奏、みおつくし総会、卒業コンサートを目的として活動しています。部員には大学生になってから初めて楽器に触れた人や兼部している人も多く、あたたかくゆるい雰囲気で楽しく練習に取り組んでいます。
 院内コンサートはコロナの影響でここ数年実施できておりませんが、卒業コンサートなどは昨年より再開することができました。演奏を聴きに来てくださった方々に元気を届けたい、楽しんで笑顔になってもらいたい、という思いを胸に、おのおのが一生懸命練習に励んでいます。部員一同、これからもがんばりますので、お力添えいただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。(医学部3回生 葛城 幸花)

クライミング部

 こんにちは、医学部クライミング部です。私たちは現在、部員24名で活動しており、毎週月曜日に梅田のジムにて練習を行っています。他部活と兼部している学生も多く、気軽に加入しやすい部活になっています。大学に入ってからクライミングを始めた人がほとんどで、先輩方に教わったり、トレーニングを行って日々上達を目指しています。活動の間は部員同士でのコミュニケーションが活発で、楽しく運動しています。他にも、別のジムに遠征したり自然の岩でクライミングをしたりといった活動も定期的に行っています。クライミング以外にも、ご飯会や部員旅行など様々なレクリエーションも行っており、先輩後輩・同期の仲が非常に良いです。今年も多くの部員が新たに入部し、より活気付いた雰囲気となっております。今後も部員それぞれがそれぞれの目標を目指して努力していきますので、是非ご応援よろしくお願いします。(医学部4回生 山田 晃)

2023年度医学部新入生の出身高校

 自分の出身高校から今年は何人が大阪公立大学医学部医学科に入学してきたのかが気になっている方、必見です。2023年4月の新入生の出身高校と人数を表にまとめました。人数の入っていない学校は3名未満で順不同としています。
 入学する学生の出身高校は、今後、継続的に掲載していく予定です。
次号には、初期臨床研修先、初期研修終了後の進路の掲載も予定しておりますので、楽しみにしていてください。 文責:栩野吉弘 1997(H9)年卒

学会主催者報告

第39回日本皮膚病理組織学会総会・学術大会

会 期: 2023年4月15日~16日
場 所: KFC Hall & Rooms(東京都墨田区)
主 催: 大阪公立大学大学院医学研究科 皮膚病態学
会 長: 鶴田大輔(平成4年卒)

 この度、第39回日本皮膚病理組織学会総会・学術大会をKFC Hall & Roomsで主催致しましたことをご報告申し上げます。日本皮膚病理組織学会は、皮膚病理学の研究や教育を促進するために設立されました。皮膚病理学は、皮膚疾患の病理学的な診断や疾患メカニズムの解明に関する学問分野であり、臨床医や病理医、研究者などが関心を寄せる重要な分野です。現在、鶴田が理事長を務めております。
 一般演題(スライドコンファレンス)では16演題の発表があり、学術的に意義深い症例が全国各施設から提示されました。アドバイザリーセッション「皆で解決!あなたの疑問」は、単施設で診断が難しい症例について、参加者の忌憚のない意見をもとに解決していくセッションであり、今年も多数の相談がありました。
 プロフェッショナル同士の意見のぶつかり合いがあることで、幾つもの症例で解決に向けた道筋が出来上がっていきました。「でるすこでるぱそ2023」ではダーモスコピー(皮膚に強い光を照射し、病変表面の乱反射を軽減することで、肉眼では見えない皮膚内部の色素構造を観察する検査法)と皮膚病理組織所見との構造的対応を検討するセッションで、今後の皮膚科診断学の発展に寄与する議論がありました。International sessionでは、日本側より3演題、韓国より4演題ご発表頂き、活発な討論が行われました。また、特別講演ではMiwoo Lee先生(Department of Dermatology, University of Ulsan, College of Medicine)より『Cutaneous extranodal NK cell lymphomas in Korea』のご講演がありました。
 第40回日本皮膚病理組織学会総会・学術大会も当教室が主催し、2024年1月26日~28日での開催予定です。The 5th Asian Society of Dermato-pathology (ASD) annual meetingと同時開催であり、今回より大規模かつ3日間の会期になります。
 本会が盛会のうちに終了しましたことをご報告致しますと共に、関係者各位に御礼申し上げます。

第64回関西STOMA研究会

会 期: 2023年6月3日(土)
場 所: クレオ大阪中央
主 催: 大阪市立総合医療センター 消化器外科
会 長: 井上 透(平成3年卒)

 令和5年6月3日、大阪市の「クレオ大阪中央」にて第64回関西STOMA研究会を当番世話人として開催させていただきました。台風の影響もある中、会当日は晴天に恵まれ、多くの参加者(280名)にご来場いただきました。合計21演題と多数のご発表があり、質疑応答も活発な充実した研究会となりました。研究会のテーマは“つないでいくストーマケア”としました。一つには病棟から外来通院へ、病院から自宅や施設へとつないでいく個別のストーマケア、そしてさらにはWOCナースの方々が中心となって次の世代へとつないでいくこれからのストーマケアのあり方を皆で考えていきたかったからです。特別講演は山梨県の貢川訪問看護ステーションの後藤茂美先生にお願いし、「ストーマ保有者が退院後も安心して生活できるための心配り」という、訪問看護ステーションのWOCナースの立場から感じた患者さまへの思いや、ストーマケアにおけるこれからの地域連携のあり方についてお話しいただき、素晴らしいご講演でした。当日新幹線が動かず、後藤先生が来場できないというハプニングの中、急遽ZOOMに切り替えて横浜と会場をつないでのご講演となりました。地下でWi-Fiが飛ばない会場で、倉庫にあった古いランケーブル頼りのまさに綱(配線)渡りでしたが、何とか乗り切りました。
 研究会を振り返り、一番苦労したのは企業の協賛をお願いすることでした。コロナ禍にあり各企業も研究会への出資が難しくなっているため、以前は協賛してくださっていた企業からのお断りも多く、協賛してくださる企業の金額も減額となったためです。そのため、趣意書を送付後に「お金がない」という現実を把握してからは、自分が事務局となり会場申し込みから、FBページの作成、フライヤー作成、演題公募、演者や座長への連絡、プログラムと参加証の作成、記念品のクオカード作成、最後には壇上の横断幕作成まで行うこととなりました。たくさんの仲間やご経験のある病院の先生に手伝っていただいたおかげで、開催までこぎつけることができました。
 今までも全国学会や地方会などの事務局を担当したことはありましたが、このような業務はほとんど運営会社任せであり、色々な意味で苦労はあったものの良い経験となりました。
 この伝統ある関西STOMA研究会を成功裏に終えることができましたのも、会長の西口先生はじめ諸先輩方のご指導や、協力してくれた病院スタッフの皆様、研究会の趣旨をご理解くださり協賛いただいた企業の皆様のおかげと、心より感謝しております。ありがとうございました。

第9回日本アレルギー学会近畿地方会

会 期: 2023年6月11日(日)
場 所: 大阪国際交流センターおよびWEB(ライブ)配信
主 催: 大阪公立大学大学院医学研究科 皮膚病態学
会 長: 鶴田大輔(平成4年卒)

 この度、第9回日本アレルギー学会近畿地方会を大阪国際交流センターおよびWEB配信(ハイブリッド形式)で主催致しましたことをご報告申し上げます。日本アレルギー学会はアレルギー学の進歩、普及、啓発を図るとともに我が国の学術、アレルギー疾患の治療・管理・予防に寄与することを目的として1952年に設立された学会です。近畿地方会は、我々臨床医が直面するアレルギー疾患の増加や複雑化、環境の変化など、多岐にわたる課題に現実的に対応するための、よりコアなメンバーでの集まりとして期待されていると考えます。
 今回の学会は、「総合アレルギー医を目指して」と題したシンポジウムで内科(近畿大学病院アレルギーセンター 佐野博幸先生)・小児科(大阪はびきの医療センター小児科 亀田 誠先生)・皮膚科(京都府立医科大学大学院医学研究科皮膚科学 加藤則人先生)・耳鼻科(大阪医科薬科大学耳鼻咽喉科・頭頸部外科/アレルギーセンター 寺田哲也先生)の各領域のエキスパートの講演から始まりました。総合アレルギー医を目指すための、アレルギー専門医制度の現状と問題点、各施設での取り組み、各診療科で取り扱う疾患について各シンポジストからご講演があり、座長・聴講者を交えて活発な議論が展開されました。
 また、教育講演を3つ、企業協賛教育セミナーを4つ、そして一般演題も13演題もご応募いただきました。教育講演では、「呼吸器・アレルギー内科から見たEGPA」(大阪はびきの医療センターアレルギー・リウマチ内科 松野 治先生)、「ガイドラインを踏まえた蕁麻疹・血管性浮腫領域の進歩」(大阪医科薬科大学皮膚科/アレルギーセンター 福永淳先生)、「小児アレルギー疾患と腸内細菌」(関西医科大学小児科学講座 赤川翔平先生)と各領域の最新の考え方・治療を学ぶ場となりました。
 また、当大学から当教室以外からも、呼吸器内科学 浅井一久先生に教育講演の座長を、高齢者運動器変性疾患制御講座 岡野匡志先生に教育セミナーでご講演の労をおとり頂きました。
 雨天でしたが、ハイブリッド形式の利を生かして、現地・オンライン双方から多数ご参加頂きました。第10回日本アレルギー学会近畿地方会は大阪医科薬科大学アレルギーセンターが主催で開催される予定です。
 本会が盛会のうちに終了しましたことをご報告致しますと共に、関係者各位に御礼申し上げます。

会費納入率

編集後記

 会報「仁澪」は今回が130号となりました。大阪市立大学医学部同窓会会報として1979年8月10日に第1号が発行され、1995年10月10日発行の第45号より会報名が「仁澪」となり現在に至っています。編集後記を初めて書くにあたって、第1号を見せていただきました。初代広報委員長は合田昭二先生(1957年卒)で、内容は同窓会総会報告、新任教授挨拶、医学部新入生一覧、卒業生便りなどでした。現在の「仁澪」は多くの諸先輩方のお力添えにより内容も充実してきており、特に「市大医学部79年と附属病院99年の歴史」や「大阪の医史蹟めぐり」の連載は前広報委員長の田中祐尾先生(1969年卒)の多大なるご尽力によるものです。第129号からは増田 博先生(1982年卒)が広報委員長になられました。増田先生を中心に、会員の皆さんに楽しんでいただけるような会報づくりができればと考えています。第1号の中で同窓会の通称名についての記事がありました。春秋会、橘井会、花杏会、朋友会、明徳会、橘稜会などが候補として挙がっていましたが、ゆっくり考えましょうとの記載があり、それ以上の議論はされていません。それではいつ「仁澪会」なったのかが気になって会報を追って調べてみると、1985年の定例理事会の中で「同窓会報のニックネームについて」という議論が再び起こり、1986年同窓会会名選定委員会が設置されました。そして1989年第31号で公募結果が報告され、志大会、示修会、同仁会、仁澪会、いをつくし会、橘稜会などが挙がっており、この時に初めて「仁澪」という熟語が登場します。委員会で①仁澪会②橘稜会③志大会の3つに絞られ、1991年、同窓会員のアンケート調査の結果、「仁澪会」が第1位となりました。引き続き理事会での検討を重ね1994年から試用が始まり、前述した1995年第45号より会報名として定着することになりました。なんと通称名「仁澪会」が決定するまでに16年もの歳月がかかったことになります。「仁澪」という熟語はネットで検索しても「仁澪会」以外での使用はなく、非常にオリジナリティが高く、「仁」は人の悩みや痛みを深く温かく受け入れる慈愛の心であり、「澪」は「澪標(みをつくし)」として古くより「水の都(水都)」と謳われていた大阪(難波)との関連性が強く、また和歌では「身を尽くし」との掛詞で用いられます。まさに「仁澪」は大阪そして医師のあるべき姿勢をも表現する極めて秀逸な熟語だと思います。よくよく吟味して、この熟語を同窓会名とした諸先輩方の思慮深さに改めて敬意を表します。(1988年卒 竹内 一浩 記)

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