見出し画像

仁澪125号

巻頭言
プライマリ・ケア外来は難しい !?

一般社団法人仁澪会 副理事長 板金 広

コロナ禍のおかげでオンライン勉強会が盛んになり、学会や研究会に気軽に参加できるようになり助かっています。しかし、症例検討などでは、日常診療で出会うことが少ない疾患が取り上げられることが多く、よくある疾患をより深く知ることが大切だと思う私は少し違和感を感じています。
 多くの先生方が働くプライマリ・ケア現場では、出会う疾患が限られています。90の疾患に対処できれば診療所で出会う疾患の75%がカバーされ、120疾患に対処できれば90%がカバーできるといわれています。
 したがって、まずはこれらのよくある疾患を奥深く極めることが、何よりも重要なのです。しかしこれがなかなか難しいのです。たっぷり時間がある病棟業務とは違い、外来診療では患者数が多く、医師は短時間で診断をつけなければなりません。実際の現場では、医療面接や身体診察を同時進行し、臨床推論を開始します。多くの医師は患者さんからの情報を、自分の持っている疾患情報データベースと照合しながら診断していきます。直感診断(システム1)できることもあれば、分析的思考を用いた診断(システム2)が必要なこともあります。
 将棋の羽生善治は、直感を瞬時に行われる分析的思考と評しました。私たちも修練を積んでこうありたいものです。ただ直感診断をする際に、必ず鑑別診断を数個あげる習慣も必要です。診断を一つに絞り込むと大きな間違いにはまり込むことがあります。
 また、プライマリ・ケア外来では一般に重症疾患の有病率が低く、また重症であってもまだ症状がはっきりせず、疾患に非典型的な訴えも多く経験します。加えて、特に高齢者は複数の疾患を抱える多疾患併存状態で、投薬数や複数の医療機関受診も多いです。これに患者さんの認知機能低下が加わると、外来診療はさらに混沌とした状況に陥ります。
 総合病院循環器科で数々の重症疾患を経験し、「外来診療なんて軽い」と考えていた自分が浅はかでした。プライマリ・ケア外来をこなすためには、それなりの十分なトレーニングが必要なのです。開業してからも自分の診断プロセスを反省すべき症例が、少なからずありました。自分でも意外なことに、その中には勤務医時代に専門医として数多く経験した循環器疾患が多く含まれていました。これらの症例を振り返ると、外来診察時に気づくべき症状や徴候がありました。しかし、制約の多い外来診療では意識することが難しかったのです。
 最近は診断プロセスにおける診断エラー学が注目されています。日常診療の自分の診断エラーを分析し、今後の診察に生かすことも大切です。外来診療では20人に1人の割合で診断エラーが発生すると言われています。診断エラーは、知識の欠如が原因になることは少なく、認知エラーとシステム関連のエラーが大きく関わります。
 いったん患者さんの病状に対して診断をつけてしまうと、その診断から逃れられず(Anchoring:投錨)、それ以上考えることをやめてしまう(Premature closure:早期閉鎖)は最も強力な診断エラーの原因です。その他にも、自分が考えている診断に合わない医学情報を軽く見積もったり(Confirmationbias:確証バイアス)、最近経験した疾患をまず想起したり(Representativeness restraint:代表性による拘束)、診察時間の終わりや休日前には自分が最も楽に処理できるような仮説のみを考える(hassle bias)などの認知バイアスに気づかないうちに陥っています。常に診断している自分を見つめる視点(メタ認知)を持つ習慣をつけることが大切です。
 よくある疾患を様々な視点から座学し、そして実地に経験し、診断エラーがあれば原因を振り返ることを繰り返すしかないだろうと思っています。最近は外来診断学や多疾患併存、診断エラー学の良い指南書がたくさん出版され、自己研鑽が容易になりました。とはいえプライマリ・ケア外来での診療は本当に難しいですね。

理事だより 
循環器内科は血行動態から遺伝子解析へ

大東中央病院 葭 山 稔

 40年間、一循環器内科医師として活動して循環器病学の過去、現在、未来を俯瞰して、どのように考えているのか?と問われたなら、私は即座に、Hemodynamics からGenomics への移行だと思いますと返答します。Genomics とはゲノムと遺伝子について研究する生命科学の一分野ですが、私の学生時代の知識は、メンデルの法則の程度しか知識はありませんでした。Grüntzig先生が 1977年、バルーンによる冠動脈形成術に成功し、Rentrop先生が1979年急性心筋梗塞患者にstreptokinase の冠動脈内に注入して再疎通に成功させられました。私は1981年の卒業ですが、すでに狭心症、急性心筋梗塞のカテーテル治療は確立されていました。話はもとに戻りますが、ゲノムとは「DNAの文字列に表された遺伝情報すべて」のことです。ヒトゲノムのDNAの文字列(塩基)は32億文字列(塩基対)にもなります。この32億文字列のうち、タンパク質の設計図の部分を「遺伝子」とよんでいるのはよく知られていることで、ヒトゲノムには約23,000個の遺伝子が含まれているだけです。以外に少ない数です。それで、ヒトゲノム計画は1990年に米国のエネルギー省と厚生省によって30億ドルの予算が組まれて発足し、ゲノムの下書き版を2000年に完成し、2003年4月14日には完成版が公開されました。Hemodynamicsですが、1970年にスワンガンツ・カテーテルをProf. Swan、Prof. Ganz が考案されました。私は、そのカテーテルを病棟で、よく使いました。1985年に私はお二人がいる Cedars-SinaiMedical Center に行き、会いに行きました。
 1991年からの留学ではミネソタ大学で、Jay N. Cohn,M.D. のもとで、血管拡張療法について学びました。1991年帰国してから、一年後輩の先生が薬理にいたので薬理にいき、その時、山中伸弥先生に出会いました。当時、山中先生は薬理学の大学院生で platelet activating factor の hemodynamics を犬を用いて研究しておられました。私は摘出還流心にて、hemodynamicsを測定していました。ただ、その後ラット心筋梗塞モデルを作成してmRNAを測定するようになりました。山中先生は、今述べた仕事で circulation researchに採択されて、留学は分子生物学の勉強でUCSFに留学して、数年後薬理学のスタッフで帰国されてからは、i P S のもとになるような仕事をされていました。私は、心筋梗塞後心臓リモデリングの機序に関して、細胞内情報伝達系を、分子生物学的な方法で研究を進めました。私の教室の後輩に佐野宗一先生がいます。市大を首席卒業しました。医学部生時代より、基礎の研究室に出入りしている、基礎研究希望の有望な医師です。縁があり、我々の循環器内科に所属することになりました。その時は、彼は基礎研究に関しては、する気はないと申していました。そのいきさつはよくわかりませでした。しかし、すばらしい能力があるので、私はアメリカのボストン大学に留学するように勧め、彼も承諾してボストンで基礎研究を再開しました。その後は素晴らしい彼の才能を発揮して、以下の研究をしました。骨髄幹細胞で遺伝子変異をひとつ有するクローンが増えると心筋梗塞、脳梗塞が多くなるということです。白血病患者さんにおいては、その遺伝子変異が認められていますが、その発がんに関連する遺伝子の一部を持っている患者さんを追跡すると、白血病になる確率は多くないのですが、心筋梗塞、脳梗塞が多くなるという疫学的研究がありました。そこで彼と彼のボスの教室は、その遺伝子変異のノックアウトマウスを作り、結果、その動物が動脈硬化や心機能低下が引き起こされることを証明しました。危険因子とは、半世紀前より、糖尿病、脂質異常症、高血圧、肥満、喫煙などですが、彼らは、新たな生活習慣病における危険因子を見つけたのです。素晴らしい研究です。
 市大の後輩医師が、循環器内科もがん治療のように遺伝子検索をする時代の先取りをしてくれたことは、うれしいことです。

大阪市大医学部77年と附属病院97年の歴史 - XXXI

第二外科教室
上道 哲(昭33年卒)・木下博明(昭38年卒)・月岡一馬(昭44年卒)

■初代 白羽弥右衛門教授(写真1)と黎明期

 戦争末期の1944年、軍医の養成機関として市立南市民病院とそのスタッフを土台に速成された大阪市立医専は1年余りで終戦を迎えた翌年、市立医大に。 1949年東大から着任間もない澤田平十郎外科学教授が当時の京大第二外科青柳安誠教授室を訪問し同科の白羽弥右衛門講師が抜擢され、市立医大の外科助教授に着任する。 旧帝国大学医学部という金城湯池から人材設備実績ともゼロに近い新興公立医大という荒野への移籍はかなり強行なもので、澤田教授からすれば近い将来明らかに拡張を目指さねばならない 「二番目の外科」 のリーダーを見据えたものだった。白羽ご自身はどのような心境だったか今は知るすべもないが、兎にも角にもこれが第二外科の始まりのすべてであった。 1951年4月どこか旧跡の木立のもとでにこやかに佇む澤田・白羽(39歳)のツーショット写真が上道から寄せられた。(写真2)
 1952年9月市立医大白羽第二外科教授が誕生、桃山市民病院を舞台に医局員10名たらずの船出だった。 元々桃山が結核専門病院だったため胸部外科・抗菌化学療法など臨床と研究の題材には事欠かなかった。1956年4月あべのキャンパスに新病棟が完成、5階西が第一外科、同東が第二外科病棟で各25床のスタート、手術施設は7階で、1960年から麻酔部が始動、以後大阪市の南部を受け持つ胸・腹部外科の全盛期へと進む。 白羽は1957年から約1年米国オーバーホルトクリニックへ留学後、最初の開胸心臓手術を試みた。 僧帽弁狭窄症に対する用指切開術だった。

■二代 酒井克治教授(写真3)

木下博明 記 要約

1978年4月初代白羽外科を継がれます。 抗菌・抗癌化学療法の研究に没頭され なかでも制癌剤の腫瘍局所還流、即ち癌領域の血行を遮断した上人工心肺装置を用い一定時間還流をして制癌効果を期待する試みで、四肢や肝臓の還流を行い、本邦癌化学療法の先駆となられます。 紛争後は初代教授が展開した臓器別研究すなわち抗菌・抗癌化学療法(酒井・藤本)、食道・噴門外科(浜中・東野)、小児外科(門脇・山田)、肝胆道外科(木下・津田)、肺縦郭外科(市川・月岡)、に乳腺外科を加え教室の大きな研究課題を「がんの外科」 とします。 中谷らによる乳癌に対する非定型的乳房切除術(Patey術)の施行は良好な成績を生みます。 森本らはエストロゲン受容体検出下でのホルモン療法を開始した。 1983年9月より心臓外科の診療・教育を再開、多くの若手を国内留学させ基礎的研究の端緒を開いた。化学療法や乳癌研究の数々の学会を主宰、1985年6月京都国際会議場での第13回国際化学療法学会で事務総長を努められた。 教授人生の大半は絶え間ない辛苦の連続で、常に教室員に対してNever give up ! を力説されました。

■三代 木下博明教授(写真4)

 1989年教授拝命の以前は大学院修了後肝胆膵外科一筋で、厚生省がん研究助成金による研究班に通算17年間参加しました。 肝癌に対する超音波誘導下の経皮経肝門脈塞栓術PTPEの抗腫瘍効果、肝切除の安全性向上と適応拡大については海外でも試行され、2001年に英国Br JSurgで その originalityが認められた。切除肝癌組織の注意深い観察からヒントを得ましたので、それ以後 「教師は患者さん」 が座右の銘になりました。 平成元年は移植医療や内視鏡手術の黎明期で広橋・久保らは胆石症に対する腹腔鏡下胆嚢摘出術を開始、肝癌の早期発見、予防にも業績を上げ、生体肝移植にも取り組みます。1990年に着任した末広率いる心臓・血管外科班は基礎的研究業績を蓄積、年間200例を超える開胸心臓手術を行い、1997年には心臓外科の標榜が許可されます。 更に東野・大杉らによる食道外科の鏡視下手術は特に食道癌に対する成績で学会から注目されます。肺外科、 乳腺外科、小児外科また然りです。21世紀の医学医療に相応しい新附属病院が1993年に、5年後に医学部新学舎が完成します。 医学部のソフト面の改革の一環として大学院外科教授の適性判断が文部省に諮られ、腫瘍・消化器・肝胆膵・循環器の各外科4名の教授が適任と判定された。 一方1998年病院長としての私は専門医の即応体制、研究や人事面での費用対効果の向上を目指し、一外と二外の統合再編を期して「臨床教授懇談会」を立ち上げましたが、結論は次期教授に持ち越された。


■四代 末廣茂文教授(写真5) 

 大学院改組により旧第二外科から誕生した消化器・肝胆膵・循環器外科の三講座のうち循環器外科の教授選考で2003年第四代第二外科教授を拝命しました。各研究グループは切磋琢磨、互いに重症例を討論、その手術成績が向上、肝癌手術数は全国トップレベルに、生体肝移植も30例を超えます。鏡視下食道癌手術も海外からの見学者が訪れる盛況。呼吸器外科は低侵襲のビデオ補助胸腔鏡手術を導入、肺癌手術が著明に増加。小児外科の漏斗胸・鼠経ヘルニア手術も著増した。 大杉、久保の両名は病院教授として活躍しました。ゼロからスタートした私の本職心臓血管外科は診療科として認可されて以降、手術数も年間250例に増加し特に感染性心内膜炎の治療に良好な成績をあげました。課題だった若手心臓外科医の育成も進み、心臓外科関連病院は8施設、本学で苦労を共にしてきた柴田利彦准教授が教授に選任されたうえ福井寿啓が熊本大学、細野光治が関西医大のそれぞれ心臓血管外科教授として選出され、旅立っていったことなど、これ以上の幸せはありません。私の任期の最後に将来を見据えたハイブリット手術室が設置されました。ただ一つ成し遂げられなかったのが(一外と二外の)外科学再編でした。 若い外科医への言葉は 「無理のない無理」 です。 何かを成し遂げるには無理をすることも必要だが、その無理は続けることのできる無理でなければならないという意味です。 まさに「継続は力なり」 です。

■五代 柴田利彦教授(写真6)

 2015年に教授に就任致しました。私は心臓血管外科を専門にしております。 第二外科では臓器別5グループが運営してきており、切磋琢磨と 「輪と和、チャレンジ精神」 という理念を就任時全員に提示しました。 私に課せられたのは予てからの課題である「外科学統合再編」 です。 幕末の薩摩と長州が倒幕の名のもとに結束したように、第一外科と第二外科が手を携えて外部に打って出なければなりません。 幸いにも腫瘍外科学(第一外科)の大平雅一教授と外科学統合について意見が一致しました。 この統合には追い風が二つあります。 一つは医療事故などへの安全体制の確保、もう一つが統一後の外科専門医育成プログラムです。 2018年度までに外科学講座として一本化された上で消化器・肝胆膵・心臓血管・呼吸器・乳腺内分泌・そして小児外科の各6外科が建ちあげられ、かつてオーバーラップしていた消化器・肝胆膵外科の診療・研究が一元化されています。 統合から3年、関連病院の人事交流も始まり一つの外科学という概念が定着、毎年10名を超える外科専攻医を迎えています。

■初代 白羽教授のエピソード

《その一》「和田寿郎教授との論戦事件」
 
第72回外科学会総会で当時「外科学体系」 で従来のflail chestの考え方を詳述していた心臓移植手術の先鞭者札幌医大の和田教授とこちらが発表した実験結果が逆になり、有名な和田節による反論を浴びた。これに応じた白羽教授はこれまた一歩も引かず激しい討論はその日持ち越しとなった。15年後、胸部外科学会卒後教育セミナーで取り上げられ、ここに病態から治療方針までが確立したと臨床的に本研究を引き継ぎセミナーを担当した月岡は述懐している。

《その二》「白羽記念医学研究者育成基金」

 1978年3月白羽教授の退職を記念して設立され、対象は府内の医学研究機関に在住する若き研究者。 年 1 回 、 28年に及び、助成金及び褒章金受賞者計130名に及んだ。門下生上道 哲らの奔走で当初の基金1,000万円が3,150万円まで集まった。特徴は1981年に大阪府教育委員会が認可したこと。 本学受賞者のうち若き日の門奈丈文・西川精宜・荒川哲男・西 信一・久保正二・首藤太一・柴田利彦・森 隆・細野光治・廣橋一裕らがいる。

【おわりに】
 最近の基礎・臨床各科の院内標榜科目名を辿ると、長く複雑な記載が多く古い卒業生には解りにくく馴れるのに時間が要る。 ナンバー科は消えゆく運命なのか。 今日其のうちの一つの科へ一瞬の光芒を当てたような気がする。 ほかにもまだ二内・三内が遺っている。 何とか今記録を残さねばならない。 大阪市立大学が大阪公立大学となり、大阪市大という表記そのものが忘れ去られる時代が直ぐそこだから。

(昭44年卒 田中祐尾 編集・文責)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?