声を上げられないから弾く

今日は2番目の子の運動会の観戦の日でした。

年に数回ある子供の行事、合唱やらお楽しみ会やらではいつもグッときてしまう瞬間があるけれど、今日もそれが何度も訪れた。

来年春から僕の仕事の都合で長野に移住する旨はもう周りの方々に伝え始めたので、ああここでは最後の運動会だなあ、という感慨にも浸った。

でもそれとは別に、自分が妙にグッと来てしまうスポットというか、ツボの様なものを発見した。今日はそのお話です。

応援合戦のコーナー、てあるじゃないですか。いわゆる押せ押せ紅組、行け行け白組、と皆で声を合わせるやつ。あれをやられると、なぜか自分が激しく揺さぶられてしまう事に気付きました。特に6年生の応援団長が、喉も裂けよとばかりにあらん限りの声を振り絞って高らかに叫ぶ、あれを目の当たりにするとなぜか無条件に込み上げてきてしまう。やられてしまう。何でだろう?

考えてみると、小学校、中学校はいつも声を上げない自分が居ました。学校で嫌なことがあっても、友達にひどいことをされても、本当はやめて欲しいのに言えなかった自分。いつも笑顔でごまかそうとしていた自分。本当は大きい声で嫌だ、と言いたかった。助けて、と叫びたかった。

そんな僕が中2になって初めて手に入れた、声の代わりが、ギターでした。相変わらず友達にも大人たちにも親にも、本当の感情を出せなかった。誰にも言えなかった。でもギターをかき鳴らすと気持ちが晴れた。声をあげられないから弾くというのが僕の音楽の出発点なんだと思う。

あれから数十年経ち、もう随分遠くまで歩いてきたつもりだったけど、今はどうだろうか。ギターを弾く理由も目的も、あの頃より増えたし、誰かにとってプラスになるギターを弾きたいという思いも嘘じゃない。けれど弾きたいという止められない衝動の、1番の原動力は未だにそこにあるのではないか。僕のフラメンコギターの核は、相変わらずその辺りにあるのでは。

運動会を見ながらそんな事を考えた日でした。

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