幸せの定理
幸せってなんだっけ?
幸せは、全ての人が求めているはずのものです。幸福追求の権利は基本的人権であり、人生とは幸せを求める過程であるかのようにも言われます。
では、幸せとは何か?
これが意外と簡単ではありません。
こんな記事がありました。
原題は『Resilience is the new happiness』
直訳すると『しなやかさが新しい幸福』
resilienceは記事では回復力と訳されていますが、弾力、しなやかさのこと。
辛いことやストレスがあってもボキッと折れずに、受け流して立ち直る能力が大切、そのために瞑想が有効ですよ、というのが記事の主旨。
この感覚は日本人には馴染み深いかもしれません。
クルマなどで後輪が飛び跳ねることをテイル・ハッピーと言うように、ピョンピョン飛び跳ねるような『happy』の概念と、日本語の『幸せ』の概念は全く異なります。
『幸』の字を見てみましょう。
『辛』に一本足すと『幸』になります。
『辛』から何本減らしても『幸』にはならないのに。
幸せとは、辛いことに耐えたり、困難を他の人と共有して乗り越えたりして初めて感じられるものなのです。
ただ辛いことを避けるのではなく。
何不自由なく甘やかされて育てられた人は往々にしてかなり不幸であることが少なくありません。(側から見ればとても恵まれた境遇にも全く幸せを感じられず、文句ばかり言っているのはそんな人)
このコロナ禍でも様々な困難に直面することで幸せを実感した人は多かったのではないでしょうか?
さらに『幸』の字は、実は『幸せの定理』と言える方程式を含んでいます。
『幸』を縦に分解してみましょう。
±
Ⅱ
干
横に並べるとこうなります。
幸せの第1定理: ± =干
つまり、左辺(『幸』の上部)のプラス・マイナスと右辺(『幸』の下部)のマイナス・プラスが等しいことが幸せなのです。
左辺と右辺は何を意味するのでしょうか?
様々に解釈できますが、例えば、自分が世界に与えたものと受け取るもの、と考えてみましょう。
まず左辺で
生まれて来た時小さな命が与えられ(+)
若いうちは周りに迷惑をかけ、様々な悩みや困難を乗り越える(-)
そして右辺で
いくらかお世話になり続けながらも(-)
より世界に大きなお返しをする(+)
そのつじつまが会うことが『幸せ』、ということです。
これがイコールにならないと『辛い』。
ポジティブ思考とか言って、口先でプラスだプラスだプラスだと言うだけでは『苦しい』(『+』3つに口)。
化学的には誰しも吸った分の空気を吐き、死んで土に返れば常に収支は合います、つまりみんな幸せなのです。
あとは感情的に、自分がどんな感情を与え、受け取ったか?
そのつじつまを合わせられることが、幸せの秘訣と言えるでしょう。
幸せの第2定理
これを読んで、こう思う人もいるかもしれません。
こじつけだろ?
金八先生の「人という字は支え合って人になる」的な。
本当は「人」は象形文字だ。
『幸』だって漢字なんだから、もともと中国語じゃないか?
ちがいます。しかも全然ちがいます。
そんな人は『幸』の字の由来を調べてみると驚くことでしょう。(私は驚いた)
何と、『幸』は手枷(手かせ、手錠)の象形文字だそうです。
どうして手かせが『幸』なのかというと、この文字が成立した古代中国の殷王朝では刑が厳しく、すぐ死刑なり拷問なりにされるので、手かせの刑はとても軽いからラッキー…とのこと。
(まさに、支配管理されてもドクチン打ってもらってラッキー…な家畜的「幸せ」)
中国的には『幸』にはラッキーの意味しかなく、日本人的な『幸せ』の概念とはほど遠いのです。
だからと言って名前に『幸』がつく人も『幸』の由来を知って悲しむことはありません。
中国語と日本語は同じ漢字でも全然意味が違うのです。
「手紙」は中国語ではトイレットペーパーですし、「暗算」は中国語では悪だくみのことだそうです。
「幸」も含め漢字は確かに中国から伝わったものですが、日本に来てその意味は全く変わったのです。
日本語の『しあわせ』には、もう一つ漢字があります。
『仕合わせ』です。
『仕え合う』こと『人のプラスマイナスが合わさること』が仕合わせなのです。
幸せの第2定理:人±合わせ
どちらかがどちらかに一方的に仕えるのではない。
それでは仕える方も仕えられる方も仕合わせにならない。
お互いに仕え合い、支え合う。
それには役割は違っても、存在としてはどちらが上ということもない対等の関係が必要です。
それこそが幸せの前提条件なのです。
すると誰かの力になることも幸せ、誰かに助けてもらうことも幸せになります。
自然に相手を尊敬し、自分が人に助けられるのと同じくらい、自分も人を助けられる存在になりたいと思います。
(日本語の「られる」が受動・可能・尊敬・自発すべてを意味するというのも実に奥が深い)
そうあれることが幸せなのです。
それは夫婦や個人同士の関係から、施政者と国民の関係でも同様です。
古来、天皇は国民(たみ)の幸せを願い、国民は天皇の幸せを願ってきました。民の幸せを祈ることこそが天皇の仕事だったのです。(今でもそうです)
仁徳天皇は不作に対して3年間全ての税を無くし、
「天が君主を立てたのは民のため」
と言いました。仁徳天皇がさらに3年税を止めると言うと、民は怒って押し寄せ、ボロボロに荒れ果てていた皇居を新築したそうです。
そこには役割の違いこそあれど、天皇に国民を蔑む気持ちなどなく、国民にも自己卑下したり、天皇を妬んだりするような気持ちは全く見られません。
西洋や中国の支配構造とは全く異なるのです。
妬みと自己卑下から生まれたマルクス主義など、この国には相応しくないのです。
人と付き合う時、幸せな関係を築けるかどうかは簡単です。
相手と自分がお互いを対等に思って、お互いの幸せを願って付き合える人かどうかを見極めればいい。
差別して見下してくる人、逆にやたら自己卑下してくる人とは、どちらともそのままでは幸せになれません。
差別する人自身も、一方的に依存するばかりの人も、幸せになれません。
対等な関係になれるように考え方を変えるか、つき合うのをやめた方がいいでしょう。
もし、お互いを対等に思いやり仕え合う人が見つかったら、そんな関係が築けたら、きっと誰もが幸せを実感するはずです。
そして本当は、すべての生物・物質は対等であり、宇宙誕生から常に仕え合っているのです。上下はない。左右もない。孤独にもならない。
そう気づけたなら、その瞬間から幸せになることも難しくありません。
ていうか、幸せだなぁ。
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