【感じる物を出す】日々録〜自分と向き合うとは〜

おはようございます。陣内です。すごく前に書いた記事を公開したら、なんと梅雨入り時期のものでした。続けるって難しい(まだ3記事目)
インプットが少ないのは元々の性格ですぐに楽しちゃおうとするのもあるけど、アウトプットがないからだ!!と決めつけ、ラジオだけじゃなくて日々インプットとアウトプット増やそうという自己満企画をしてみます。

頑張って(累計)1日1時間はちゃんと自分の感情に向き合います。そして文章にします。

「自分と向き合う」という言葉をしって興味を持って5年間くらい、ずっと「自分と向き合う」事が私のテーマだったペーペーの私が最近感じてる、そもそも自分に向き合うってことについて。

自分に向き合うってどういうことだ?

「自分に向き合う」って結構難しいと思う。
小さい頃から人との比較での評価をされる教育を受け、他人の評価軸を正として生きて来た人(私)にとって、自分と向き合う(自分の本心に耳を傾ける)って超難しい。
向き合おう、と思って日記に自分の気持ちを書いてみても、いつの間にか優等生で表面的な言葉が綴られていたり、誰かと対話してみても、自分の口から綺麗な言葉しか出て来ていない、なんてザラだ。
そして、なんか考えた気になって、満足してしまう。
それぐらい、私は、「人から評価されたい」欲やクセが強く、言葉などの表面的に現れる物では綺麗なものしかでてこず、本心にたどり着けず、頻繁になんかチガウ、、となっては、繰り返し「自分と向き合う時間」を作り、結局その時間は家の掃除に勤しんでしまう。

そもそも「自分に向き合う」って言葉を知ったのは、新人研修の時。
意気揚々と新卒で入った某人材会社の研修で「あり方(be)」について問われ、初めて自分(の感情や心)って向き合う物なんだなあって頭で理解。
その後、その場でとっさに向き合って言語化した「あり方(be)」にとらわれて、「こんなことをするためにこの会社に来たんじゃないやい!!!!!」と暴言をはき散らし2年でその会社にいることを断念。(ご迷惑をおかけした方、若気の至りだったと本当に反省してます、すみません。)
ちょっと端折って、巡り巡って今、新人で入った会社に出戻っているのですが。
あの時、田舎から出て来た新人ピチピチの私が知識として会得した「あり方」を、日常的にコトあるごとに考えていて、最近ちょっと腹落ちしたので、次の段落。

「自分と向き合う」ということ
「言葉」だけで向き合おうとするとかなり難しいのでは、と最近思う。

少しそれるが、人間は実は、ものすごく高機能な脳みそを持っていて、自分が認識していない情報をたらふく取り入れて、処理している。
今現在も、手はPCをパチパチしながら、心は目の端に写っている時計をチラ見し愛する旦那がそろそろお家を出るな〜とそわそわしつつ、目ではコバエが目の前をバカにしたかのように飛んで行ったのをみて不快な気持ちになっている。文章にかけているのでこれは「脳みそで認識しようとした」情報。
ただ、これらは認識しようと思わずとも、時計は目に入っているし、ちょっと遠くを飛んでいるコバエも目に入っている。が、認識しようとしないと、途端にPCの背景と化し、意識上に上がってこない。このように、人間は「認識しようとした情報」と「認識外の情報」を自然と選り分けている(らしい)。

そんな高機能な脳みそが、自分のことを感じ取っていないわけがない、と最近感じるのである。ただそれはどちらかというと、先述した「認識外」の情報として処理されようとし、自分の感情とは違うところの「Do(やらなければいけないこと)」が優先され、感情は置き去りにされがち(現代を生き抜くために目を背かれがち)な情報なのではないだろうか。

また少しそれてしまうが、私にとって、「理解する」とは、「言語化できる」とニアリーイコールだ。直感的に右脳でぼんやり掴むことが多いのだが、それを言語化しないと、理解!と認識できずスッキリしないたちなのである。また、往々にして、自分に向き合う(自己分析など)際は「紙に書く」「誰かと話す」事が多く、言葉に依存する事が多かった。
そして、新卒時代の私のように、自分に向き合って、とっさに当てはめ込んだ「言葉」に逆にとらわれてしまうことも、割と多かったのである。
脳みそが掴む情報を全て言葉にぴったり落とし込むのは難しいと思う。言葉は、人間が作り出したツールだ。脳みそは人間が作ったものではなく、作り上げられて、人間が生きるために進化をつづけてきたものだ。現時点でも新しい言葉がどんどんできている中で、私が今、知っている言葉を使って、全てを表現しきるのは至難の技なのではないかと思う。

ということで、「自分に向き合う」時は、今、感じている事をふわあ〜っと見つめる、ただそれだけで良いと思う。次の行動なんて考えない。なんでそんな感情になっているかも、一旦考えない。
仕事してる時・生活をしている時、物事が起こったら、そこには感情が生まれているはず。
女性で行くと、月の物で、ホルモンさんがより不安や悲しみを煽る事だってあって、必死でひた隠さなければ、と思うこともある。
そんな自分の感情にちょっとだけ、向き合う時間を作って、今、自分はそんな状態なのね、と感じる時間を作ってあげるだけで、それは自分に向き合う時間なのである、と感じる。言語化しなくても良い。もしするなれば、今今浮かんで来た言葉を、意味なんか考えずにそのまま、ぶあ〜〜〜っと紙に書き散らすくらい。

そして「自分に向き合おう」としている私がえらい。もしこの記事を読んで、何言ってんだこいつ。と思っている方も、「自分に向き合う」ということにビットが立ってたどり着いて、しかもここまで読んでくださっているのであろうから、本当にありがとうございます。「自分に向き合おう」としているだけですでに称賛すべきことです。偉い、素晴らしいです。

感情の観察(自分に向き合う)ことを続けてくと、心の奥底にある大事なものの輪郭を、なんとな〜〜く掴んでいく感じになる。あ、これ悲しいのね。とか、これは嬉しいのね。と、自分
ふっとした時に「あ、自分ってこうありたいのかも」と、感覚的に掴める時が来る。そしてその時は、その「あり方」に向かってひたはしれる準備が来たときなのだと思う。
「あり方」を掴んで、元気がある時に、全速力で走ればいいのだ。焦りに任せて、今走らなくても、大丈夫。今は今で頑張っている。

日々はまだまだ続きます。




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