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「人とつながる」とは? 「幼児虐待」を通して 人間関係の多様性に目を向ける

在野の哲学者・文筆業 栗田 隆子

 幼児虐待のニュースが流れる。例えば先日は「男との旅行で家を何日もあけ愛児が餓死」という報道があった。そしてシングルマザーである母親個人にだけ責任を押し付けてはいけないと考える人たちは、「子育てしている女性を孤立させないで」とか「社会で子育てをしていかなければ」と語ったりする。
 この言葉のやり取りにいつも私はどきっとする。私は独り者で生活保護利用者である。正直、社会で子育てをと言っても、その言葉の中の社会に私のような人間は入っているのかどうかも心許なく、「社会で子育てをしよう」という発言も含め、本当にこの件について何も言えなくなるのだ。
 しかしふと思うことがある。もちろん、子どもを放置して死にいたらしめたことを肯定できる余地はない。しかしその際の「助けを求める」あるいは「(子どもの命を助ける)人とつながる」関係とは一体何なのか?と改めて考えるのだ。
 「福祉制度」を利用する、あるいはその制度に接続するための「支援者」とのつながり方と友人や恋人とのつながり方は全く違うと私は思う。それこそ「友達や恋人を作るのが下手」という人でも、ネット検索を駆使して支援機関に相談をしたり、役所に行くことが(気が進まないと思うことはあっても)可能な人がいる。しかし逆、つまり「友達や恋人を作る」ことはうまくても、支援者や役所につながることは不得意な人もいる。


 例えば制度につながるということは、見ず知らずの人に自分を曝け出す必要がある。両方得意な人も不得意な人もいるだろうが、まず「人とのつながり」「助けにつながる」など語る際に、「育児放棄」という状態に陥った母親を持つ子どもの命を救える人間関係をどう作るかということを、具体的に語っていくべきではないか。曖昧に「孤立」とか「つながりが必要」では具体性に欠け、また子どもの命を救える人間関係のイメージが万人に伝わるものではなくなっているのではないか。
 それこそ彼女は、その子どもと自分の二人きりの孤立を脱するために恋人を作った、とも私には思える。恋人だってつながりといえばつながりだ。しかしそれが致命的なのは、子どもの命を助けるつながりではなかったということだ。むしろ彼女の子どもを死に至らしめる方向に向くつながりだったということだ。支援者や福祉制度につながるとは、友人や恋人、家族のような親密性とは違う次元のつながりだ。
 日本社会は関係を作ること=親密になること、と考えがちだと思う。子どもと自分しかいないという状況を脱するために手っ取り早くやれることが「彼氏を作る」ことになってしまう場合もある。結局それは制度につながる関係といった、それほど親しくないけど命が助かる関係性のイメージが日本社会では希薄であるという証拠ではないか。
 親密でない関係の意味、あるいは関係の多様さを作っていくこともまた、社会での子育てにつながるのではないか。

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