見出し画像

【連載④ 体験とは何か】「身体性」とは自意識の支配下におさまらない世界との連動性

京都のらびと学舎 米田 量

ーー人間にとっての「体験」の意味を考える連載。前回(9月5日号)では、「(近代の)人間は自分の精神と身体を区別し、精神を自律的に捉えているが、精神は外部(社会)や身体の変化から大きく影響される」ことを説明して頂いた。その続きを掲載する。
(編集部)

 近代の人間観では、人間は思考の主体、意思の主体とされています。ですが、思考や意志の主体としての自意識とはすなわち自分の殻でもあり、それが分厚くなると、より自己完結的で他者と隔絶した存在になります。回復のプロセスにおいては、出来上がった殻がいったん何かの出来事により壊されたり成り立たなくなり、より世界と連動した存在に変容します。それは、前の自分がその延長線上に分厚くなるのとは全く違うあり方です。
 自意識は、せっかく経験することも既知のものに回収して、世界と連動し変容することを阻害します。言葉をもつことによって、人間はまだ見ぬものや知らぬものがあっても、それを「見てないもの」「知らないもの」というふうに既知の言葉のカテゴリーにいれてしまい、既知のものとして感じてしまいます。どこに意識を巡らせても、そこには知っている言葉とそのイメージが待っています。知っているものに世界を覆われ、閉じ込められているのです。
 世界は常に更新されているのに、変わらないように感じられるということは、無自覚であっても絶望として自分の状態に影響を与えています。
 しかし身体は、自意識の外である世界と連動しており、ここに自己完結性を自力でこえられない自意識が更新される可能性があります。
 「身体性」というと、単に五感とか場当たりの刺激に対する散発的な体の感覚ととらえてしまいそうですが、感性であり、継続的な動機や感情など一般的には精神のほうのカテゴリーに入れられるものの多くは、実際には身体性に属していると思えます。言葉と既知で成り立っている卑小な精神と、世界と連動している自律した自然であり、それゆえ感性や知性をもたらす源泉である身体性があります。

ーー思考・価値観は常に場と連動する


 「精神と身体」というと、身体のほうも自己完結した物理的な肉体だけをついイメージしてしまいますが、身体性は環境や世界との連動性です。自己完結した精神と肉体という近代の前提が、そもそも的外れで前時代的なのです。人と人との関係、人と世界の関係がいびつになり、それが加速するのは、いまだにこの前提に従って社会構造が構成されているためです。
 思考や価値観は環境によって構成され、常に場と連動しているのに、それが自律して存在していると仮定すると、何をやっても、何を選択しても、全て自己責任ということになります。それは人間を機械として扱い、強いものがより劣るものにいうことをきかせるにあたっては、とても都合がいい前提ですので、いつまでも堅持されるのでしょう。
 人間が人間として生きられる文化環境はまだ到来しておらず、表層を変えた奴隷社会が環境を席巻しています。内面化された自分の価値観を抜け出していくことは、現在の奴隷社会に支配された思考や価値観から抜け出したありようを、周りにそのまま伝えることでもあり、個人的なことではありません。
 そして、この状態を抜け出していくために必要なのが、自意識の支配下におさまらない世界との連動性である身体性なのです。
 自分のなかで動いているプロセス、展開しようとしている蠢動は、自己完結した卑小なものではなく、世界との連動性そのものです。このプロセスに応答していくことは、今の自意識の強化ではなく、自分のありようを質的に変容させ回復させていく体験となります。


【カンパのお願い】いま人民新聞は財政的に苦しい状態にあります。今後も取材活動を行っていくために少額で結構ですのでぜひカンパをお願いします。noteからの振込方法が分からないという方はぜひ以下へお願いします。振り込み先
郵便振替口座 00940-5-333195/ゆうちょ銀行 〇九九店 当座 0333195

【お願い】人民新聞は広告に頼らず新聞を運営しています。ですから、みなさまからのサポートが欠かせません。よりよい紙面づくりのために、100円からご協力お願いします。