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『黙々─聞かれなかった声とともに歩む哲学』書評 韓国スユ+ノモの若手研究者マルクスをマイノリティの力へ

編集部 かわすみ かずみ

 2017年4月23日の「ハンギョレ新聞」に、韓国の高学歴ワーキングプアについての記事が掲載された。韓国でも、大学院生や博士号を取った学生の就職口が見つからなない状況がずっと続いている。学生らは、各所で自ら共同スペースを作って講演会や研究を行い、自立する道を模索する。
 その1つが研究空間「スユ+ノモ」だ。コ・ビョングォン氏はここで共同生活をする若手研究者だ。
 食事作りから資金調達まで自ら行う。いつもどこからかカンパが来て、資金が足りなくなることはないという。
 昨年11月に出版された『黙々』は、コ氏の各地での講演内容や、ノドゥル障害者夜間学校での哲学の授業などを通して考えたことを綴ったものだ。

障がい者運動が生んだ学校

 ノドゥル夜学は、1993年にソウルで始まった。韓国では80年代から「障害者問題を社会構造の変化によって解決しよう」という動きが芽生えた。障がい者夜学は、障害者運動の流れの中で誕生し、権利獲得運動の中枢を担っていく。
 2001年、地下鉄鳥耳島駅で老夫婦が車椅子リフトから落下して亡くなる事故が起こった。 障害者たちは生きる権利、学ぶために移動する権利を求め、車椅子を降り、線路に寝転んで電車を止めた。
 訳者の影本氏は、コ氏とは15年前からの知り合いだという。「スユ+ノモ」のイベントに参加する中で、影本氏はコ氏の研究から、哲学が社会と向き合う姿勢を学んできた。既に原語で読んだ『黙々』を訳したいと考えていた同氏は、出版に積極的な編集者に出会い、これを実現。コ氏の研究について「ニーチェやマルクスの本を、現在のマイノリティの力になるよう読み解く点に共感した」と語る。

哲学と社会の融合が生み出した一冊

『「考えの多い二番目の姉さん」と哲学の成熟』(本書34~45頁)という小見出しで始まる短文は、人々に深い問いを残すだろう。「現在わたしには10年答えを待っている問いがある」という書き出しは、何かを予感させる。
 著者が蔚山で講演を行ったとき、講演後に1人の女子高校生がためらいながら手を挙げた。言葉はすぐに出てこなかったが、彼女が涙ながらに口にしたのは、「兄が知的障害者です。先生、知は兄の生も救えますか?」という答えの難しい問いだった。いい加減な言葉や机上の空論は通じない。深く人生を見つめ、己の心と対峙しなければならない。著者は、哲学の勉強についての考えをしどろもどろにしゃべった。だが、その後も問いは著者につきまとう。圧倒的な現実の前に、哲学はどのように存在するべきか?
 前述の女子高校生の兄は、ノドゥル夜学の生徒たちとしてコ氏の前に現れる。ノドゥル夜学の生徒の多くは知的障害や脳障害を持っていた。哲学の教師として授業を行う中で、知的障害を持つ生徒とどうやって授業の場を共有できるのか、コ氏にはわからなかった。
 コ氏の話を聞いて、ときに笑ったり反応する生徒もいるが、多くは眠っていたり、髪をいじっていた。トイレに行くと言って教室を出ていったきり帰らない生徒もいた。生徒たちは身をもってコ氏に問いかける。「先生、知は兄の生も救えますか?」。
 哲学書を開いても、そこに答えなどない。そればかりか、プラトンは「欠陥のある子どもたちは捨てろ」と主張している。障害者は「哲学の外の幽霊」だ、とコ氏は言う。
 そんなときコ氏は、ある本に出会う。『おとなになれば』(チャン・ヘヨン著/2018年)は、18年間にわたり障害者施設で暮らさねばならなかった妹との戦争のような日常を描く。ヘヨン氏は妹と生きる場所を作るために格闘し、自然にコミュニケーションを取る方法を学んだ。ヘヨン氏は、妹と暮らす生を通して知を得たと、コ氏はとらえている。
 「哲学を通した成熟」ではなく、生を通じた「哲学の成熟」だった。コ氏の誠実さは、次の文章に現れている。「生の先生を自負していた知の大家たちは、知的障害者の前でいかに無能で幼稚で無礼であっただろうか」。
 わたしたちは「大人」であるという知の上に、どれだけ多くの人々を知的障害者に追いやってきたのか? コ氏は問いかける、「生は哲学者の知も救えますか?」。
 訳者あとがきで影本氏は、「本書はあまりにも『当たり前』であるがゆえに感じることが難しい空気を読み取る方法を(中略)様々な形式で様々な側面で可視化してくれる」と述べる。
 本書を読めばわかるが、コ氏は、社会的事件の被害者や、障害によって差別されてきた人々など、街に出て多くの人と対話してきた。
 ノドゥル夜学では、このような対話からの学びを「野学」と呼ぶ。無き者とされる人々と語らい、哲学を重ねる手法の豊かさは、コ氏の才能を物語る。その根底には、高学歴ワーキングプアという苦境を経験したコ氏だからこそ見える景色がある。
 哲学と社会、被差別者の融合は、哲学に無知な筆者でも目が覚めるような感覚を覚えた。大変有意義な一冊だった。

高秉權・著/影本 剛・訳/明石書店/四六判・256ページ/2023年11月発行/本体・2,600円+税

(人民新聞 24年2月20日号掲載)

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