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「革命は自然成長しない」ーー市民の党・斎藤まさしさんに聞く、思想の源流としての文化大革命とマルコス政権打倒運動

ーー「市民の党」の代表で、菅直人・山本太郎らを国政に送り出した斎藤まさしさん。その経験から、ウクライナ戦争を契機に大きく揺れ動く国際政治と、混迷を極める日本政治についてインタビューを行いました。今号では、斎藤さんの思想の源流に位置する革命運動の体験を伺いました。(編集部・朴)

学生運動から文化大革命へ

 1970年に上智大学外国語学部に入学したが、大学は楽しくなかった。学内のデモも遊びに見えた。文化大革命を見て「とんでもないことが起きている」と思い、中国へ向かった。
 その頃、中国へ入るには香港から広東省・深圳(シンセン)へのルートしかなかった。当時の香港はイギリスの植民地で、物凄い大金持ちと貧乏人という、世界で最も二極化された社会だった。表通りは日本にもない世界のブランドショップが並び、「100万ドルの夜景」と言われていた。でも一歩裏通りに入ると、物乞いと象皮病にかかった人たちがたむろしていた。若者の表情も私たち以上に暗かった。
 でもそこから橋一本、鉄橋の真ん中に渡された板一枚を越えると別世界だった。橋の向こう(中国)には何もなかった。夜は真っ暗で、大したものは食えなかった。でも貧しいけど平等だった。男女平等も一番進んでいて、みんな喧々諤々の議論をしていた。リーダーは女性が多く、中学生〜大学生があの大国を動かしていた。

自立した一人からすべては始まる

 そうした若者の本気の運動を目にしたから、帰国後に上智大の学費値上げに抗議して、プラカードをかかげ、たった1人で学内を歩いた。2日目には一年下のスペイン語学科の女性が一緒に歩いてくれた。彼女が参加してくれた瞬間に、次から次へとどんどん人が増えた。だから女性が参加しない運動は弱いと思っている。また、自立した一人からすべては始まることを学んだ。一人一人に確信と欲求がないと、運動は始まらない。
 私は左翼のリーダーではなかったが、無党派の1〜2年生のデモが最大になった。理論闘争はできなかったが、具体的方針は自分の意見が通るようになった。背景に大衆の力、人々の支持があった。
 私は当時主流の新左翼とはなじまなかった。日本はいわゆる「先進国」の中で一番格差が小さく、わりあい民主主義もある。多くの人が「中流だ」と思える社会は、良い社会だってことだ。
 だから新左翼は、革命の条件がない時に無理やり革命を起こそうとする所に、一番違和感があった。だから急進化して先細りしたと思う。こんな解釈は「小ブルジョア性だ」と批判されるけど、革命は現実性だし、歴史的な必然から起きるんだ。

フィリピン・マルコス独裁政権打倒 アキノ暗殺で民衆の怒りが城を包囲

ーー斎藤さんは80年から87年まで、フィリピンにてマルコス独裁政権打倒の民衆運動に奔走した。

 私が行ったときには戒厳令下で、まったく大衆運動ができなかった。合法野党もみんな潰されていた。でもその生き残りたちはいて、元上院議員のベニグノ・アキノは、日本へ亡命していた。そこで私や石原慎太郎とも接触していた。私は石原の家にも行った事がある。これが統一戦線の極意だ。一番遠いやつと組めば一番広くなる。

ベニグノ・アキノ・ジュニア

 私は外国人なので、合法的に動けた。誰とでも会えるし、マルコスが手を出す心配もない。アメリカの目が厳しくなる中で、フィリピンは日本の支援で経済を持たしていたから外交問題になることはしづらかった。
 当時の東南アジアは袖の下(ワイロ)がいくらでも通用したから、物を持って入国できた。活動家らが欲しがっていたのがビデオだ。農村のゲリラや自分たちの武装闘争を撮って、世界に知らせたがっていた。できるだけ小さいビデオが使い勝手がよくて、当時のそれはSONYの「ベータマックス」だった。たくさん持っていき全国に配った。他には、万単位の人数の集会でも使える大きなスピーカーセットも求めていた。使っている現場を見たら熱気が凄くて、「これが欲しかったんだ」というのがよくわかったよ。
 もう一つの結節点は、都市の大衆運動の高まりを受けて、合法野党勢力の連携が始まったことだ。
 マルコスに追放され、日本に亡命していたベニグノ・アキノは、勇気を出して「フィリピンに帰る」と言い出した。アキノ財閥の当主で、明らかにブルジョアだったが、民主主義者だった。でもそれは殺されに帰るのも同然だったから、家族も含めてみんなが反対した。しかし彼の決意は揺るがなかった。アキノはマスコミを引き連れて帰ったが、飛行機のタラップを降りた直後に暗殺された。それから一気に革命気運は高まっていった。
 革命は自然成長しない。ある1つのきっかけで一気に革命的情勢に変わる。それから10万人の民衆が、マルコスのいるマラカニアン宮殿へと向かった。夜中だったけど、農村からトラックで向かい、近郊から人が押し寄せた。
 要塞だから堀に囲まれている。河は飛び込めないから、橋の上を突っ込むしかない。橋は火をかけられても落とされもせずに残っていた。もしマルコスが逃げようとすれば、橋を通るか空から逃げるしかなかったからだ。
 人々はメンジョラ橋へ殺到した。橋の向こうの兵士と対峙している。城の兵士は明らかにビビッていた。向こうは怖くて怖くてしょうがない。有り弾全部を撃ったって、すべて殺せるわけがない。だから兵士は銃口も向けられず、下に降ろすか空に向けるかしていた。
 私は知り合いのリーダーたちに、「突っ込め」と言って回った。しかし大衆運動のリーダーである大衆団体のトップたちが、その決断を下せない。現場は共産党・共産主義団体のリーダーたちが先頭に立っている。しかし彼らは党中央の決定がないと動けない。
 権力の象徴はマラカニアン宮殿で、いかにマルコスを捕らえるかなんだ。生きて捕らえたら最大の武器になった。軍も下手に動けないし、アメリカとの交渉材料になる。

「エドゥサ革命」 ビル街を黄色が占拠

 フィリピン軍の将校によるクーデターの直後、マニラのエドゥサ通りを民衆が埋め尽くした。高層ビルが乱立するフィリピン最大の商業地区で、100万人がデモをした。
 凄い景色だった。あらゆるビルの窓から紙吹雪が投げ入れられた。黄色いものはすべて、電話帳を破ったものまでばーっと降ってくる。高層ビルで働くのは、ほとんど中産階級以上の精神労働者だった。革命は少なくとも中産階級の多数が支持しないと勝てない。そしてマルコスはハワイに亡命し、独裁政権は倒された。
 この運動の中では、芸術が盛んに使われていた。「サリンラヒ劇団」といって、大きな劇画や歌・踊りを取り入れた民衆劇をやり、劇の合間に演説もやる。日本にも呼んで、全国公演旅行で革命運動支援のカンパを集めた。彼らの手法は、後に自分が携わった日本の選挙でも取り入れた。喜納昌吉(04年の参院選、民主党の全国比例区で当選)や三宅洋平(13年の参院選、全国比例区で17万票を獲得)の選挙もそうだった。五感から入ることが大事だ。
 これからは人類が生み出してきた芸術を最大限使う、総合芸術的な選挙をやりたいと思っている。


(人民新聞 2022年11月20日号掲載)

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