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コロナ禍 わかったようでわからない カタカナ語に呑み込まれる前に

NPO法人フォロ 山下 耕平

 新型コロナに明け暮れたこの1年、どれほどのカタカナ語が流れてきただろう。パンデミックに始まり、クラスター、オーバーシュート、ロックダウン、ステイホーム、ソーシャルディスタンス、ニューノーマル…。それぞれ、別に日本語でもかまわないし、むしろわかりやすいはずなのに、カタカナ語にすることで、何か新しい概念のように思わせて流布させていく。しかし、ちゃんと咀嚼されているわけでもないから、流布されたものは何となく流れていく。
 なかには、ちょっと考えると、よくわからないものもある。たとえば、ソーシャルディスタンスは、英語では社会的孤立なども表す言葉で、感染予防の用語はソーシャルディスタンシング、両者は使われる文脈が異なるらしい。ただ、まぎらわしいし、感染予防のためには、社会関係や人とのつながり自体を断つのではなく、あくまで身体的距離を空けることが大事だということで、WHOも使う用語をフィジカルディスタンシング(身体的距離)にあらためたそうだ。日本でも、自治体によっては、フィジカルディスタンスと言っているところもあるようだが、定着はしてなさそうだ。
 ちゃんと自分の頭で考えて行動することをうながすのであれば、言葉は大事にしないといけない。カタカナ語を使うのは、考えさせないためではないかと疑いたくもなる。ただ、それはコロナにかぎらず、権力側にかぎらず、あちこちで、ずっとくり返されてきていることなのだろう。
 かく言う私も、フリースクールなるものに関わってきているので、エラそうなことは言えない。フリースクールというのは、日本においては、子どもたちの不登校に向き合うなかで、既存の学校制度とは異なる学びの場をつくろうという運動が起きて、そこで海外の実践などを参照して、事後的に名づけられたものだ。しかし、もともとがあいまいな概念でもあり、だんだんと変質して、いまや塾だかサポート校だか、たんに学校を補完するものなのか、よくわからないものになってしまった。
 自分たちの向き合っている現実のなかから、葛藤しながら言葉をつむぎだしていくのではなく、そこに海外から来た概念をカタカナ語であてはめて、なんだかわかったような気になって使ってしまう。実際、そのほうが社会に訴えやすい面もある。さまざまな社会運動において、同じことはあるのではないだろうか。
 もっと言えば、「社会」や「個人」など、明治時代に海外から輸入して翻訳された言葉も多いが、こうした二字熟語も、わかったようでわからないまま使っているところがある。「権力」「人権」「権利」は同じ「権」が使われているが、それぞれ異なる。権利と利権は同じ漢字だが、意味はまったくちがうし、日本で会社=社会みたいになってきたのも、言葉の問題もあるのではないだろうか…。
 自戒を込めて言えば、社会運動をする側も、ちゃんと自分の頭で考えて、咀嚼した言葉を使わないと、上滑りな運動にしかならない。上滑りしてきたことを反省しつつ、そう言いたい。

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