抽象的な話 学ぶことについて

 久しぶりに簡単な座学を受ける機会を得た。学生時代は真面目にノートをとることなどしてはいなかった。ノートを取っていたところで見返して復習をすることなど万に一つもなかったから意味がなかったので取らなかった。おかげで当時の成績は目も当てられないような悲惨なものだった。だから今現在記憶には一切残っていない。都合の悪いことは忘れるようにして生きている。
 だが今回はさすがに大人なのだから真面目に受けてみようと一念発起した。ノートを新調して気持ちも新たに座学を受けてみた。講義を聴きながら、資料のスライドを見ながらノートに大事そうなところを書いていく。なるほど、そうだったのか。ノートに記す。ほう、利用頻度はすくないかもしれないが必要な知識だ。ノートに記す。ここは知っているところだけれど、改めて定義を聞くと大事そうだな、メモしておこう。ここは関係あるところか?まあ書いておこう。…そうするとスライド資料から絵や図を抜いた文章のみの箇条書きの紙の束が完成した。

 今度は受講していて大事そうなところだけをノートに記すようにしようと意識する。すると今度はここはまあいいだろう、これもいい、まあこれもいっか。白紙のノートになる。学生の時、これでノートを書かなくなったような気もした。

 何か人から教わる時にメモする、ノートを取るといったことはその時々によって意味合いが違うのだろう。例えば知らないある作業をしないといけなくなり、有識者にその作業を教わるとする。この作業というのは機会を用いるもので手順を大きく間違えると壊れてしまい、周囲に迷惑がかかる。こういうときノートを取らずにうんうんと聞いてできるようになる人もいるだろうけれど、そうでない人の場合は手順を間違えて機会を壊してしまう可能性があるだろう。これを避けるために教わる側はノートをとる。このノートは恐らく手順を記したマニュアル的な有識者の発言や流れをそのまま記したものに近い形になると思う。
 一方で接客業などでは先輩社員に業務を教わったとしてそれをそのまま言われた通り一辺倒にやったところで問題が起きないとは限らない。人を相手にしている以上何かしらのイレギュラーが起きるはず。だからこの場合の教わったノートの取り方というのは言われたことを少し抽象的にすると思われる。このときにこれをする、というよりこのときに何故これをするのかを理解することが大事なはずだ。

 相手が自分に何を伝えたいのか。伝えた上で自分に何ができるようになってほしいのか。ここを意識することでノートの取り方も変わると思う。ただここを目的にあなたに教えます。ここを意識して受講してくださいと、言われたときは注意した方がいいと思う。これを伝えてしまうと受講者は最低ラインしか学習できなくなる。あるものを集中して見ればはっきり見えて詳細がわかるけれど他のものには意識が向かずに情報は頭に入ってこない。そうではなく全体をぼんやりと把握した方がより多くの情報を得ることができることに近い。だから場合によるけれど何故いまこの話を聞いているのか、このあと自分は何ができるようになるのか、何をしなければならないのかを考えて必要な情報を抑えていくことがベストだと思う。

 しかし、座学というものはどうしてだろう眠くなってしまう。本日書いたノートを振り返ってみると、文章の途中から行からはみ出し2,3行上へとずれていき思わずどこいくねーんと言いたくなる場所があった。受講の心構えも大事だけれど受講を受ける健康状態(主に前日に夜更かししないなど)も大事だなと思った。今日は日付が変わる前までには寝るようにしよう。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?