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失敗すること

 今朝、目が覚めて腕時計で曜日を見て「もう木曜日かい」と声に出して呟きました。一週間が早い。なんもしてない。

 今日は天赦日という吉日だそうです。なんでも「天が万物の罪を許す日で、どんな行動でもよい結果につながる大吉日」なのだそうです。なので朝の一発目に、謝罪メールを送ることにしました。
 わたしが参加している企画について、概要についてメールを送ってくれたのに、わたしが即確認しなかったせいでファイル共有サービスの期限が過ぎてしまい、締め切りなどが確認不能になってしまったので、もう一度、ファイルを送ってくれと頼むメールです。企画が始まったのが、先月の中頃だったのです。

 全く情けないなあ、と毎度思うのです。
 こういうとき(誰でもよくあることだと思うのですが)自動的に、今までしでかしてきた失敗だとか、出来損ないの脳(じんめんは自閉スペクトラム症です)への恨みつらみだとかが、次々と湧き上がります。なんでこう何もかもうまくいかないんだ。ふざけたわけでも手を抜いたわけでもないのに失敗ばかり。みんな楽々にしていることをわたしは歯を食いしばるようにしてでないとこなせない。そこまでやってもただできたというだけで決して上手くこなせたわけでもない。努力してようやくマイナスがゼロになる。ゼロから出発する人はもちろんプラスから出発する人には永久に追いつけない。悔しいことだ。
 怒りです。しかしまあ、腹が立っているうちは、まだマシです。無気力になってしまうのが良くありません。ここで言う無気力とは、自分が存在していることにうんざりすることです。無有愛というやつです。怒りが通り過ぎるとそれになります。こんな感じです。
 ああどうしてわたしはいい歳をしてこんなこともできないのか。悲しいなあ。全く前世でどんな悪行をやらかしたらこんな馬鹿に生まれるのだろうか。つらいことだ。人を羨んでも仕方がないとわかってるくせについそうしてしまうし。配られたカードで勝負するしかないのに。しかしいくら引いてもカス札しか回ってこない。デッキ構築したの誰だ。わたしか?分からん。延々負け続けのゲームでもう疲れた。
 そしてひとしきり自分の存在を呪ったあとに、それでも存在していることを許容してくれている職場の人や家族に感謝の気持ちが芽生えてきます。内心で呆れかえっていても、棒で打って追い出すことはしないで、ここにいてくれることを許してくれるとは、なんと心の広い人たちだろう(註:棒で叩かれたことはないが仕事をクビになったことなら何度かある)。世間というのは忍耐と寛容で成り立っていることだなあ。わたしも馬鹿なのは直らなくてもせめて怒らない人であろう。自分に対しても他人に対しても。まさに主祷文だ。Et dimitte nobis debita nostra, sicut et nos dimittimus debitoribus nostris.(我が負債を赦し給え、我また負債者を赦すがごとくに)。
 そして(たまに揺り戻しで「それに引き換えわたしは」と無気力のほうへ戻るのですが)感謝の気持ちが行くとこまで行くと、「前もこんなことあったよな」と急に冷静になります。そして過去の日記を遡って、似たようなことが書いてある日付を確認します。大体三ヶ月ほど前です。ワンシーズンに一回の頻度です。バイオリズムの神秘か季節性の病気なのか。自らの単純さを改めて認識します。そう、大いなる学びを得たと思うのも今だけだ。あほなのでそのうち忘れてまたポカをやらかし、そして感謝で終わるのだ。お前はいつもそうだ。これが死ぬまで続く。あと百年も生きなくて済むのがせめてもの慰めだな。しかし年に四回ポカをやらかすことが運命づけられてるのかなりいやだな。さっさと直したいなこれ。

 そうこうしているうちに相手からメールの返信が来ました。
「問題ないですよ。リンクを再送しますので確認お願いします」
 シンプルな文面ともに、ファイル共有サービスのURLが送られてきました。
 確認すると、締め切りは半年先でした。
 天も人も赦してくれるようです。

2024/05/30

 ヴァージニア・ウルフの「灯台へ」を少し読んで、思考の流れというのを書いてみたんですが、これ、ちゃんと推敲しないとただのカオスですね。
 この文章は全然推敲していません。次回こそは。あと琵琶の話も。

日光と水と土とあなたの100円で、花が咲くかもしれません。