貝塚寺内町の歴史シリーズ「戦国三大武将と貝塚」

戦乱の時代、一向宗の門徒が作り上げた自治都市「貝塚寺内」。町を率いる
卜半斎は、天下統一を目指して迫りくる戦国武将と、どう向き合ったのか。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、全3話の構成で解説。

第2話「豊臣秀吉と貝塚寺内町」

豊臣秀吉画像 国立国会図書館ウェブサイトより転載

天正10年(1582)、明智光秀の謀反により織田信長は本能寺に倒れた。そして、天下統一の行方は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の手に移ることとなる。本願寺顕如は、教団の存続と信徒の安全を考え、秀吉を敵とは見なさず逆にその意向に従う道を選んだ。それはまた、貝塚の卜半斎とて同様であった。翌年、秀吉が柴田勝家を賤ケ岳に破ると、卜半斎はすぐに戦勝祝に近江長浜まで駆けつけ、良好な関係を築こうとした。貝塚が寺内として諸役や検地を免除されたのは当然のこととなった。

現在の鷺ノ森別院 貝塚市教育委員会提供

天正11年(1583)紀州鷺ノ森の本願寺が貝塚に移転、顕如は貝塚の地に座した。信徒の鷺ノ森参詣にかかる紀泉国境の治安悪化等がその理由とされたが、本願寺と根来衆の分断を画する秀吉の思惑であったことがうかがえる。本願寺の本山を擁する町は参拝客でにぎわい、商売は繁盛し人口は増加して繁栄を極めたことは言うまでもない。当時、顕如入来を喜んだ町衆が三日三晩に渡り踊り明かしたという伝承が、現在の地元の盆踊り「三夜音頭」の起源だと伝わっている。

貝塚市指定無形民俗文化財「三夜音頭」

天下統一を眼目に置く秀吉にとって、和泉地方の領地支配権を譲らない根来勢はやはり目障りであった。天正12年(1584)秀吉の来襲を察した根来勢は、岸和田城に秀吉方の中村一氏を攻めるが大敗。この後、秀吉は根来勢の徹底討伐を決意する。

根来衆 「貝塚市史」より転載

天正13年(1585)秀吉の総攻撃が始まった。軍勢は、先陣の羽柴秀次をはじめ、筒井順慶、蒲生氏郷、高山右近、福島正則らそうそうたる顔ぶれであったと伝わる。戦の舞台となったのは、積善寺城、千石堀城、高井城など近木川沿いに数か所構築された根来勢の出城である。秀吉方の圧倒的な軍勢に、出城は次々と落とされていった。

根来出城図 岸和田市教育委員会蔵

戦の大勢が見え始めると、これ以上の大量殺戮を避けようとした秀吉は卜半斎に仲介を依頼する。これを受けた卜半斎は、夜間に澤城に乗り込むなどして両軍の和睦を取り付け、泉州における戦は終結した。

貝塚御坊願泉寺

紀州・根来を平定した秀吉は、同年に本願寺を大坂天満の地に戻し、貝塚は再び卜半斎の治めるところとなった。顕如からは親鸞聖人画像が下され、卜半斎に対しては、「今後も門主と席を同じくし寺の格式を本山に準ずるものとすること」が約束されたのである。

一般社団法人貝塚寺内町保存活用事業団 https://jinaicho.org/

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