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先生のドライブはいつもやばい 〜ヒコタと地獄の端午 編〜


 2013年のゴールデンウィークに、星海社さんのサイト「最前線」の企画で公開された短編です。当時のタイトルは『春宵の水面は紅く』でしたが、こちらで公開するにあたり改題しました。
 公開を快く承諾してくださった最前線編集部さんに感謝いたします。


それではどうぞ




先生のドライブはいつもやばい
 〜 ヒコタと地獄の端午 編〜




 欄干から顔を出した途端、泥色の鯉が十数匹ぞぶぞぶと水面を噛んだ。
「うああ」
 ヒコタは身をすくめて欄干から離れた。
 地図を購入するために寄った書店のすぐ隣が、幅の狭い川だった。三方をコンクリートで覆われ、流れらしい流れもないその淀みに、鯉が棲みついているらしかった。
 一呼吸置いてから、怖いもの見たさであろう、ヒコタは再び欄干に近寄って、おそるおそる水面を見下ろした。
 鯉どもはヒコタが落ちるのを待ちかねているかのように執拗に口を開閉させた。
 ヒコタは顔をしかめた。「うあー」
「置いていくぞ」と声をかけるとヒコタは慌てて車に乗りこんだ。私も続いて乗りこんだ。
 高速道路に上がってしばらく走ってから、助手席のヒコタが思い出したように言った。
「ねえ先生。鯉って怖くないですか」
 走行音だけの車内に久々に発生した生の声だった。長距離移動して周波数が変わってしまったからカーラジオも止めてあったし、CDコンポはあるがセットするのが面倒。
「怖いって、どう」
「人間に似てますよね」
「鯉が? どこが」
「どこがと訊かれるとアレなんですが、まあ、なんとなく」
 折良くか折悪しくか、鯉が視界をかすめた。高速道路のところどころに設置されている風見の吹流しが、鯉のぼりに替わっているのだ。春のほんの一時にだけ見られる、微笑ましい風物詩。
 ただ私は鯉のぼりというものが好きではない。
 いい思い出がない。

 今回の旅の目的地である山影亭に到着したとき、助手席のヒコタはうんざりとぐったりが入り混じった顔をしていた。車酔いしているのかもしれない。
 高速を下りて以降、何度か道を間違えたため、首尾よくいけば二十分ほどで着くところを、二時間かけることになってしまった。自慢ではないが私は方向音痴なのだ。ホームページにアップされていたイラスト地図だけでは不安だったので、途中、書店で詳細な地図を購入したのだが、無駄な出費だった。やはりカーナビをつけるべきだろうか。
 山影亭は、以前一緒に飲んだ先輩作家がオススメしてくれた宿である。山奥にひっそりと佇む古き善き温泉宿。明るい新緑に囲まれているが、逆にそのせいで建物が陰になってしまっており、なんだかうら寂しい。
「ミステリーに登場しそうな雰囲気だなあ」という感想は少々芸がないだろうか。
 併設された和食屋では、山菜や川魚を使った郷土料理が気軽にいただけるという。これがまたなかなか美味いらしく、食べに来るだけの客もあるのだとか。
 夜にでも食べに行ってみるか。地酒は置いてるかな。
 温泉もあるし、なんだか楽しくなってきた。
 通された部屋は、二間続きの和室だった。これといった特徴はないが、とにかく静かなのがいい。すぐ裏が山であるせいだろう、どんな音を立てても即座に吸収されてしまいそうなどっしりした静けさだった。
「まあ作家さん。まあカンヅメに。あらあら」
 部屋まで案内してくれた仲居さんが目を丸くした。煎茶を淹れる動作も堂に入った、いかにもベテランといった風格の中年女性だった。
「うかがってもいいかしら、どんなお話書いてらっしゃるのか」
「ほんのり怖い話です」
「あら素敵」
 実際のところ編集部から求められている怖さの度合いはほんのりどころではないのだが、ここでバカ正直に「なんの罪もない人々が理不尽な状況下でゴミのように死んでいく話です」などと答えて、せっかく和んでいるこの場を寒くはしたくない。
 仲居さんは茶を出すとあっさり退室した。好奇心剥き出しで「ペンネーム教えてよ、買うし(笑)」だの「なんてタイトル? 私知ってるかなー(笑)」だのと安っぽいことを口にしないあたりはたいへん好ましい。
 へえ、ふうん、と部屋の中を見て回っていたヒコタは、なんの気なしに窓の障子を開け放ち、すぐさま「うあー」と不満げな声を上げた。
 なんだなんだとヒコタの頭越しに窓を覗く。瑞々しい楓が、手の届きそうなところまで枝を伸ばしていた。これは秋になったらさぞや見事に紅葉することだろう、と感心しながら窓のすぐ下に目をやると、そこは生簀になっていた。ヒコタが不満そうなわけがわかった。かなり大きな鯉が放されているのだ。今日は鯉づいている。
「観賞用じゃないね。よく肥えているし食用かな。ここは鯉料理も出すのか」
 鯉は食べたことがない。どんな味なのだろう。うーん。食べてみたい。予約とかしていないけれども食べられるだろうか。大型連休でサービス業は張り切り時だから、たぶん大丈夫だろうと思うが。
 ヒコタが顔をしかめた。「先生、こりゃあ鯉じゃありませんよ」
「え? いや、鯉だろ」
 何を言っているんだこいつは。たしかに、全然こちらへ寄ってこないので、いまひとつはっきり見えないものの、あれは間違いなく鯉だ。
「まあいいですけど」と言って、ヒコタはぷいと部屋を出た。私も宿の中を探検したい気分だったので、ヒコタのあとについてのこのこと部屋を出た。
「ちょっと先生。ここへはカンヅメに来たんでしょう。仕事しないんですか」
「別にいいだろう、どこに何があるのか確認するくらい。ひきこもりに来たわけじゃないんだから」
 とはいえ、この宿において客が把握しておくべきものなど、フロントと温泉の場所、もしもの場合の避難経路、くらいしかない。土産物売り場や遊興室さえないのだ。
 ロビーに至ったところで、ヒコタの姿が見えないことに気づいた。私を置いて、ひとりでふらふらどこかへ行ってしまったのだ。気まぐれなやつだから。
 和食屋への通用口には「準備中」の札がさがっていた。日中の営業はすでに終了しており、夜は十七時半から開店らしい。壁に貼り出された品書きを未練がましく眺めるが「松コース」「竹コース」「梅コース」としか書かれていない。具体的に何が出るのかまったくわからない。単品料理もないようだ。少々面倒に思えたが、こんな山奥の店だと、あまり融通が利かないものなのかもしれない。まあ、鯉が食えるのなら文句はない。予約云々のことは書かれていないから、たぶん予約しなくても大丈夫だろう。
 はたと気づくと、私の隣で私と同じように品書きを眺める女性がいた。いつからいたのだろう。小学生かと思われるほどに背が低く、おまけに華奢なので、ぷっくり膨れたおなかがやけに目立つ。妊婦さんだ。
「ここへは義母が鯉を食えと言うので来たのです」
 か細い声で、尋ねもしないのに家庭の事情を語りだした。どうしよう。
 おろしっぱなしの長い髪に横顔が隠れて表情がうかがえない。
「鯉の生き血は精がつくそうです」
「はあ」
 しかし、鯉を加熱処理しないで食べるのはよくないらしいですよ。
 と、教えてあげるべきだろうか? しかし、私が知らないだけで、妊婦さんでも安心安全に生食できる昔ながらの方法があるのかもしれない。この店はそれを売りにしているのかもしれない。私が知らないだけで。
 私が有する知識の大抵は「雑誌か何かで読んだ気がする」とか「ネットでちらっと見かけた気がする」とか、そういう、ソースの曖昧なものが多く、頭でっかちなばかりで実が伴っていない。だからいつでも自分の知識に自信が持てず、口ごもる。
「義母もここの鯉を食べて主人を産んだそうです」
「へえ。そうなんですか」
「そうなんです。自分だって同じような目に遭ってるんだから少しくらい私の身になってくれてもいいのに。それなのに義母は、いつも、おまえの努力が足りないから、だから何もかもうまくいかないんだ、鯉でも食べて精をつけてこい、ひとさまの体液をもらうだけもらって何もしない怠惰な蚤め、と私のことを詰るのです」
 ……えーと。蚤とはひどい……ですね。
 なんだか大変そうだ、嫁姑というのは。
「鯉はあらゆるところにいますが、ここの鯉が特にいいらしいのです」
「はあ、それは、その……楽しみなことです」
 今のは生来の口下手を差し引いても珍紛漢な物言いだった。自覚されていっそう恥ずかしい。しかし妊婦さんは「ええ、本当に。楽しみなことです」と頷いた。まさか同意されるとは思わなかったので、かえって私は言葉をなくした。
 そして沈黙。
 他の男はどうだか知らないが、私は妊婦さんが苦手だ。差し向かいになるとたちまち挙動不審に陥ってしまう。いい歳をして情けないとは思うが、どうしようもない。妊娠は病気でも怪我でもないのだから必要以上に気遣う必要はないはずだが、だからといってまったく気を遣わないわけにもいかないし、無関心を装うのも意地が悪いし、そもそも見た目で明らかなのだから話題にしないのもおかしかろう。だが、それというのは、縁もゆかりもない男がいきなり触れていい話題だろうか? 訊く状況と場合によってはセクハラと取られ、母体にいらぬストレスを与えてしまうのではないか? そういうストレスは胎児にどれだけの悪影響を及ぼすものだろう? わからない。子供がいないどころか結婚もしておらず、妊娠させたこともない(はずである)私には、そのへんの匙加減は、本当に、全然、わからない。わからないことは怖い……と、こんな調子で、ふとしたことでいくらでも想像を逞しくし、いつまでも怖がることができるので、恐怖小説などというものを何年も書いていられる。まったく売れていないが。
「先生」と背後から声をかけてきたのはヒコタ。「何してるんです」
 少々ほっとしながら振り返る。「何って」
 気づくと妊婦さんはいなくなっていた。身重なのに素早い。
 きっと自分の部屋に戻ったのだろう。私もそろそろ戻ろう。
 歩き出すとまたヒコタが声をかけてきた。「ちょっと先生どこ行くんです」
「え。部屋に戻るんだけど」
「部屋はこっちです。そっちは外です」
「そうだったかな」
「まったくひどい方向音痴だ」

 他にすることもなかったので部屋に戻るなり大人しく仕事を始めた。
 座卓に持参のノートパソコンを広げ、テンポ悪くキーを叩く。己の文才のなさ、語彙の乏しさ、絶望的なまでのオリジナリティの欠如などなどを呪いながら、それでも一文字一文字こつこつと打ち続け、ほんの数年後には誰の記憶にも残っていないであろう物語を形にしていく作業というのは、空虚であり禁欲的であり孤独であり、ともすると何かの修行のように感じられる。書いている内容は、血が噴き出し肉が飛び散り悲鳴が飛び交う、悟りとは程遠いものなのだが。
 モニターのあかりだけでタイピングしていることに、はたと気づいた。いつの間にか部屋の中も外もとっぷりと暗くなっていた。室内灯をつけなければ目が疲れる。眼精疲労がひどくなると、おかしなものが見えてくるから気をつけなければならない。電気をつけよう。つけなければ。でもなんだか面倒臭い。すべてが面倒臭い。動きたくない。最近ようやく少し熟れてきたスマートフォンをポケットから取り出し、なんとなく、ブラウザを立ち上げた。なんとなく、最新のネットニュースに目を通し、なんとなく、今週の天気などをチェックする。追いこまないと何もできないとわかっているからこんな山奥まで来たのに、こういうものを手元に置いて、すぐ脱線してしまう。私は軟弱な半端者だ。
 次にはツイッターのアプリを立ち上げ、なんとなく、さらさらと流し読みした。今日もいろんなひとがいろんなことをつぶやいていた。私自身はここ半月ほどまったくつぶやいていない。だが私がつぶやかなくとも世の中の誰も困らない。始めた当初はよくつぶやいていた。夢中になっていたと言ってもいい。物珍しさもあったし、みんなと繋がっている感じがたまらなくエキサイティングだった。しかし、あっという間に疲れてしまった。オンラインでもオフラインでも人間を相手にするのは疲れる。
 フォローしている某氏が「立派な鯉のぼり☆発見〜!」という毒にも薬にもならないつぶやきと共に、風に吹かれてほぼ水平になっている鯉のぼりの画像をアップしていた。年季の入ったかなり立派な鯉のぼりと見えた。レタッチソフトでいじったのか、やけにぱっきりした色調だ。空の色はすっかり飛んで真っ白になってしまっているのに、鯉の鱗の青や赤、吹流しのピンクや黄色が、毒々しいまでに鮮やかで——

 あの日の光景がフラッシュバックする。
 うららかな青い空。
 急き立てるように廻る赤色灯。
 そして……

 スマートフォンを鞄に突っこんだ。それから座卓に肘をつき、頭を抱えた。
 屋根を越す高さの鯉のぼりを揚げる個人宅は、昨今、稀少だ。少子高齢化の上に、現代の住宅事情を鑑みれば、致し方ないことと言える。だが鯉のぼりというシンボルは未だ根強く親しまれており、この時期、ありとあらゆる場所にその姿を現す。地方の風物を伝えるニュース映像。広告のイラストカット。季節商品のパッケージ。高速道路の吹流し——それらを目にするたび、私はいちいちあの日の光景を思い出すのだ。
 いつの間にかノートパソコンのスクリーンセイバーが起動していた。ウィンドウズにはデフォルトで入っているデータだ。お馴染みのあの四角いロゴマークが、風に吹かれているかのように蠕動しながら画面の中を行ったり来たりする。
 ノートパソコンを閉じて立ち上がり、窓辺に腰掛け、ガラス窓を開けた。山の夜気で頭を冷やしたかった。あるいは、単に、風流人を気取りたかっただけかもしれない。春の温泉宿で月を眺めながら物思いに耽る、なんて、最高に文学じゃないか。
 ……おーい。
 かすかな呼び声が耳に引っかかった。男の声だ。しかしこの先は山。あかりもない夜の山に、ひとがいるわけがない。空耳だろうと思った。しかし。
「おーい」
「おい無視すんな」
「てめえこっち見ろ」
 また聞こえた。水音もした。だから下を見やった。そこにはもちろん生簀が広がっていて、夜空を写してどこまでも黒い。私が腰掛ける窓に向かって、大きな鯉が数匹、口をパクパクさせていた。昼とは打って変わってずいぶん積極的な態度である。
「……ん?」何かおかしい。身を乗り出して、よく見てみる。
 てらてら照かる鯉どもの顔は、どれも、人間の目鼻立ちをしていた。強欲そうな男たちだ。恨みがましい目で、じっと私を見上げている。
「おい助けろ。ここから出せ」
「さっき注文が入ったんだ。〈客〉が来たんだよ。食われる」
「助けてくれよ。食われたくねえよー」
 水面近く、必死の形相で口を開閉するので、あぶあぶと溺れているようにも見えた。
 私は無言でガラス窓を閉め、障子も閉めて、畳に下りた。そして目頭を揉んだ。
「うーむ」
 眼精疲労のひどいやつが来たようだ。
 ときどきあるのだ、こういうことが。
 それにしたって、まさか、鯉の顔が人間の顔に見えるとはね。笑っちゃう。
 かなり古い話だが、この国では、人面魚なる謎の生物が話題となったことがある。テレビ番組や週刊誌がこぞって特集し、その魚が出没するという池には野次馬が連日詰めかけ、世間は流行り病にでも罹ったように熱狂した。しかし実際のところ、それは魚が人間の顔をしていたわけではなく、頭部の模様だか凹凸だかが人間の顔に見えただけ、という至極単純なものだった。
 あれもたしか鯉だったはず。
 鯉ってのは、野放しの生き物としては珍しくアクティブに人間に寄ってくるから、たぶん、目に留まりやすいのだ。錦鯉なんかは特に派手で一体一体に個性があるし、大抵群れていて個体数も多いから、ついつい変わり種をさがしたくなる。
 ……ああ、そうか。車中でヒコタが言っていた「鯉は人間に似ている」というのは、つまり、そういうことなのかもしれない。こちらをひたと見上げて、何かを訴えかけるように口をパクパクさせるから、人間臭く見えてしまう。
 きっとそういうことだろう。うん。何も問題ない。
 私は疲れ目をこすりつつ立ち上がった。そろそろ腹ごしらえしたかった。あの和食屋も、とっくに開いている時間だ。

 いざ足を踏み入れてみれば、家庭的な雰囲気の、こぢんまりした店だった。他の客の姿はなかった。BGMもなく、しんと静まり返っている。テーブルは、カウンターに沿って四つほど並んでいるばかり。奥にまだ座敷などあるのかもしれないが、よくわからない。各テーブルは衝立で区切られていた。なんとなく、回転寿司のボックス席を思わせた。茶を置きに来た店員に、鯉は食べられるかどうか訊こうとしたら、あちらが先んじた。
「当店は完全予約制でして。予約していただかないとお料理をお出しできません」
 そんなことどこにも書いていなかったじゃないか。
 ちょっとムッとしながら訊く。「予約しないと何も食べられないんですか」
「はい。ご予約いただいた分しか食材を用意しませんので」
 この立地にそんな経営で大丈夫か。私は言葉を失って店員を見つめた。
 無愛想な店員であった。へらへらした接客がいいとは思わないが、ここまで無表情なのもちょっとどうかと思う。和服風の制服は抹茶色、前掛けは白。狐目の、痩せた青年だ。
 店員は表情を変えず言った。「お酒ならお出しできますが」
「そうですか、なら——」
「肴は味噌くらいしかお出しできません」
 面喰らってしまった。と同時にどうでもよくなった。小腹は空いているし、もうあまり動きたくないし、それにとにかく酒を飲みたい気分だった。だから「それでいいです」と言ってしまった。
 程なくして、徳利と猪口、そして小鉢が運ばれてきた。
 箸を並べながら、狐目の店員はまた訊いてきた。「ご予約はされますか」
「そうですね。せっかくだから。今予約したらいつ食べられるんですか」
「食材調達の目途が立ってませんので、十日は見ていただくことになります」
「と——」今一度、面喰らった。そんなに待っていられるわけがない。この宿には二泊三日の予定なのだ。「出すのは鯉なんですよね、あの、裏の生簀で飼ってる」
「基本的には」
「鯉なら生簀にいっぱい泳いでるじゃないか」
「あれはすでに入っている予約の分ですから。余剰はないんです」
 ……こんなことってあるんだな。半ば放心気味に「じゃあやめときます」と言うと、店員は「よろしいんですか」と念を押し、「だって仕方ないでしょうが」と返すと、「かしこまりました」と一礼してようやく立ち去った。
 しょんぼりした気持ちになってしまった。
 小鉢にちんまりと盛られた味噌は、店員の制服と同じような色をしていた。蕗味噌かな、少々時期外れのような気もするが、まあたぶん蕗味噌だろう、と考えながら口にしてみると、じわりと苦い。しかし蕗のほろ苦さとは違う気がする。なんだろう。
 首をかしげつつ味噌を嘗めていると、ヒコタが入店してくるのが見えた。足音もさせずにまっすぐ私のほうへやってきて、向かいに座りながら「うわあ。すごいもの食べてますね」と苦笑い。
「ここ、完全予約制なんだって。今予約して十日待ちなんだってさ。なんだそりゃって感じだよな。今日は酒しか出ないんだと。そんなわけでおまえが食えるようなものはないよ」
 ヒコタは酒が飲めない。
 そんなヒコタを前にして猪口をあおる。「おまえはさっき鯉が怖いと言ってたね」
「へ? はあ」
「同感だ」
「ほう。なんでまた急に」
「今さっき、ふと思い出したんだけどな」
 徳利から手酌する。
 ヒコタは酌ができるほど気の利いたやつではないので、自分でやるしかない。
「子供の頃、広い日本庭園に迷いこんだことがある……あれはどこの庭だったのかな。ホントに広かった。個人宅ではないと思う。あれだけ広いとなると。料亭の庭か、あるいは何かの式場みたいな施設の庭か。とにかく、どういう経緯でかそこに入りこんでしまって、ひとりでうろついてた。それで、そう。大きな池があった。枝振りの立派な松や円く刈りこまれた植木に囲まれて、橋のかかった、絵に描いたような池——しんと静まりかえっていた。何もいないんだと思っていた。でも、違った。水面を覗きこんだ瞬間、でっかい鯉どもが、一斉に顔を出した。あんな庭で飼われてるんだから飢えてるわけでもないだろうに、石に乗り上がらんばかりの必死の形相で。子供だったから余計そう見えたのかもしれないけど、とにかくでっかい鯉どもで。そんなの見るの生まれて初めてだったから、怖くてさ。ホントに食われるかと。……そのときだ、」
 酒に口をつける。が、なんだかもう、味がしない。
 味噌も、これ以上食べる気がしない。不味くはないが、たくさん食べられない味だ。
「私をさがしにきてくれたらしい母が、遠くから叫んだ。それ以上顔を出しちゃダメよ! 私はベソをかきながら母に駆け寄って、訊いた。顔を出したらどうなるの? 母は、なんて答えたと思う」
 ——鼻を食いちぎられるわよ。
 ヒコタは笑った。「それは怖い」
「どこの庭だったかさえ思い出せないのに、その部分だけやけにはっきり覚える。鼻ヲ食イチギラレルワヨ」
「恐怖の原体験ってやつですね」
「というか、それが一番鮮明な母の記憶なんだよな」
 私の母は、私がまだ幼い頃、事故で亡くなっている。
 だから私には母に関する記憶が数えるほどしかない。
「唯一はっきり覚えている母親の言葉が鼻ヲ食イチギラレルワヨってどうなんだろう」
 ビタビタ、ビタン!
 突然、濡れた何かが叩きつけられるような音がした。驚いて振り返る。カウンターの中に、白い作業服を着た板前と思しき初老の男性が立っていた。そして、私の背後の衝立の向こうには、いつの間に来ていたものか、新たな客が座っていた。竹の網目を透かして見えるその後ろ姿は、女性のもの。長い黒髪。華奢な肩——さっき品書きの前で会話した、あの妊婦さんだ。全然気づかなかった。どうにも気配のないひとだ。
 ビタンビタンが不意に止んだ。
「こうすると大人しくなるんだよ」と、板前の低い声。「暴れさせちゃダメなんだ。暴れると味が落ちる」
 鯉を捌いているのかもしれない、と気づいた。だって、あの妊婦さんは、ここへは鯉を食べに来た、というような話をしていた。彼女は私と違ってちゃんと予約していたのだろう。だからつまり、このカウンターの中で今まさに捌かれんとしているのは、鯉に違いない。食べ損ねたものに対する好奇心がむくむくと湧いてきた。私は腰を浮かしてカウンターの中を覗いた。「先生」とヒコタが咎める声は、聞こえなかったフリをする。
 案の定だ。俎板の上には、非常に大きなやつが載っていた。一メートルくらいはありそうだ。鯉ってのは、間近で見ると、こんなに大きなものなのか。鰭や鱗も、分厚くて硬そうだ。あんなの、どうやって調理するんだろう。
 かしらには濡らした晒しが掛けられており、おそらくそのせいですっかり大人しい。死んだようにぴくりともしない。おもむろに板前は出刃包丁を振り上げた。介錯する侍のようだった。——どかっ。見事なもので、一撃であの大きなかしらが落ちた。ジャーッという擬音がふさわしい勢いで、抹茶色の体液が流れ出る。「うわ」と思わず声を上げてしまった。だってまさかあんな色だとは思わなかったので。
 板前は、私の存在など気にも留めず、黙々と作業を続けていた。とめどなく溢れ出る抹茶色の液体を、大きな杯で受け止めている。色が色なので、一見、薄茶のようだ。やがて板前は、ふちまで満ちた杯を「どうぞ」と妊婦さんの前に置いた。
 ぎょっとした。
 まさか、あれを? なんの処理もせず? 流れ出たものをそのまま飲むのか?
「先生。もう出ましょう」と言うが早いかヒコタは席を立った。
「え。でも」
「先生」ぎろりと睨まれる。こいつが怖い顔をすると本当に怖い。
 なんだよ、と弱々しく反発しながらも、私は大人しくヒコタのあとについて店を出た。

 部屋に戻ってからもヒコタはなんだかそわそわうろうろしていた。「ねえ先生。ここホントに先生が予約した宿ですか。なんだか変じゃないですか」
「そうかな」
「先生だっておかしなものを見てるでしょう」
「あーそうなんだよな。今日は特に眼精疲労がひどいみたいで。あれだ、長時間運転したせいだと思う。でも私の場合、仕方ないんだよ、こればっかりは。毎日パソコンを見てなきゃならない仕事なんだから。職業病ってやつだ」
「そうではなく……いや、もういいです。話しても無駄な気がする」
「なんだよ」
「ちょっと様子を見てきます」
「様子? なんの?」
 ヒコタは返事もせず、部屋を出て行ってしまった。
 静かな和室にひとり取り残された私は、蛍光灯の白々しいあかりのもと、子供のように膝を抱えた。ふと思いつき、スマートフォンを取り出して、ネット検索する。鯉の生態について。無数にヒットするが、とりあえずウィキペディアを見ておけばよかろう。
コイ − Wikipedia
「食性は雑食性で、水草、貝類、ミミズ、昆虫類、甲殻類、他の魚の卵や小魚など、口に入るものならたいていなんでも食べるほどの悪食である」だって。うん、そういうイメージだ。あとは「口に歯はないが、のどに咽頭歯という歯があり、これで硬い貝殻なども砕き割ってのみこむ」——ふうん。歯はないのか。そう言われてみれば見たことないような気がするな。じゃあ、ということは、鼻を食いちぎることはできないのでは? 鼻が喉まで届くとは思えないし。あ、でも、指なら食いちぎるかもしれないな。指が奥まで入ったら。貝や甲殻類を砕けるんなら指だって砕けるだろう。
 そこまで読んだところでスマートフォンを置き、抱えた膝に顔を伏せた。
 酒のせいだろうか。なんだか、ひどく体が重い。さほど飲んだわけでもないのに。
 我慢できず、ごろりと横になった。座布団を引き寄せ、枕にする。
 目を閉じると、すーっと眠りに落ちた。眠るにしても、ほんの少しだけのつもりだった。だって、あまりのんびりはしていられないのだ。ここへは原稿を進めるために来たのだから……

 一匹の鯉が、私に向かってしきりに口をパクパクさせている。
 その鯉は、上等のスーツと上等のブーツを身に着けている。
 赤ワインのグラスを手にしている。
 やけに甲高い声で、止め処なくしゃべる。
「へえ。先生、まだあの雑誌で書いてるんですか。へええ。知らなかった。僕もうあそこで書いてないんで。今どうなってるんですか、あの雑誌って。売れてるんですか? いや売れてはいないでしょうね。全然話聞きませんもの。今はどこも厳しいですしね」
 どうやらここは、某出版社のパーティー会場だ。
 しかしどういう経緯で私が出席することになったのか思い出せない。
 私が黙ったままでも気に留めることなく、鯉は歯のない口をパクパクさせ続ける。
「あれもねえ、コンセプトは悪くないと思ったんですけどねえ、やっぱりあんまり奇抜なのはダメですね。文学ってのは、やっぱり伝統ある場所で書かないとその価値がわかってもらえないものなんですよ。書いたことのある人間にしかわからないことですが」
 なんだか既視感のある会話だ——この鯉と非常によく似た身振り口振りの男と、以前、こういうパーティーで、こういうふうに立ち話をした気がする。
 しかし、まあ、似たようなやつはどこにでもいる。
 私よりも若くて私よりも売れているやつなんて、いくらでもいるのだ。
「僕が今連載してる雑誌はね、伝統があるだけあってなかなかのものですよ。なんせ編集者がよく教育されてますし、いい雑誌ってのは読者の目も肥えてるんですよね。先生も、いいもの持ってるんですから、いつまでも下のほうで燻ってないで、もっとチャレンジしてみたらいかがですか。もうキャリア長いんだから。デビューして十二年でしたっけ。すごいなあ、僕の倍だ。あ、ツテがないんなら、僕から編集長に掛け合ってみましょうか。あの編集長は気難しいことで有名ですが、僕の言うことなら聞いてくれるので」
 鯉の言うことなんかまともに取り合ってられない。
 私は「はは」と曖昧に笑うだけに留める。
 制止するものがないので、鯉はますます調子づく。
「先生はね、もっと自信持たなきゃダメですよ。ガツガツ行かなきゃ。あ、そうそう。今度、僕のデビュー作が映画化するんですけど——あ、これオフレコでお願いしますね。発表はまだ先なので——この前、撮影現場に行ったんです。締め切りが重なってて忙しかったんですけどね、やっぱり一度は行っておかないと、と思って」
 そのうつろな目は、私を見ているようで見てはいない。
 つまり、相手は誰でもいいのだ。
 虚栄心(はら)を満たしてくれさえすれば。
 しゃべるだけしゃべって満ち足りたのか、鯉は唐突に私のそばを離れ、すいーっとどこかへ行ってしまった。が、新たな人影を見つけると、また口をパクパクさせ始めた。見苦しいが、仕方がない。あいつは鯉だから。水面で口をパクパクさせることで浮力を調節したり餌を獲ったりする生き物だから。
「まーた自慢してるよあのひと」
 私のすぐそばに、別の鯉が立った。
 色や模様が違うので、別の鯉だとわかる。鯉というのは、群れてはいても一体一体に個性があるから、見分けがつきやすいのだ。
 こちらの鯉も負けず劣らずの勢いで口をパクパクさせていた。
「困ったひとですよねえ。口を開けば自慢話だ。どうでもいいことでさえああして自慢話っぽく語れるのは、ある種の才能ですよね。ほら、あの顔をご覧なさいよ。ふんふんと頷いて、相手の受け答えをよくよく聞いてるような顔してますが、頭の中では、さて次はどんな自慢話をしてやろうかって、そればかりを考えてるんですよ。しかし考えてみれば哀れな話じゃないですか。常に誰かに、いいなあ、すごいなあ、って言われてないと、気が済まないんですから」
 本当によくしゃべる。
 パクパク、パクパク、パクパク……
 疲れないのだろうか。
 黙って聞いているだけの私のほうが疲れてくる。
「たぶん、ああいう立場になるまで、誰かに褒められたり羨ましがられたりっていうことが、人生の中であまりなかったんでしょうね。だから今の状況が嬉しくってしょうがないんですよ。でも、正直、ああはなりたくないもんですよね。そう思いませんか。ね。まともな人間ならみんなそう思いますよね。ね。先生もそう思うでしょ」
 わかったようなことを言っているが、こいつもさっきの鯉と変わらない。
 群れているくせに、自分の欲を満たすことばかり考えている。そういう生き物だ。
 私はうんざりしていることを隠すことなく言った。「あんたもまともな人間には見えないよ」
 鯉はあっさり頷いた。「それもそうだ」
 そして、大きな口を一層大きく開け、私の頭をパクリと呑んでしまった。
 パーティー会場のど真ん中でなんてことを。担当編集者もいるのに。
 しかし、これは、私が悪いのだ。私が油断したのがいけない。うっかり顔を出してしまったから。だから呑みこまれてしまった。お母さんは「それ以上顔を出しちゃダメ」と警告してくれたのに。自業自得だ。なるべくしてなったのだ。そうこうしているうちに私の頭は、ずるんずるんと喉の奥のほうに引きずりこまれ、やがて石臼のような歯でバリバリと砕かれてしまった。これが噂の咽頭歯か。貝や甲殻類を砕くことのできる咽頭歯は、やはり、ひとの骨も砕くことができるのだ。
 ——鼻を食いちぎられるどころじゃなかったよ、お母さん。
 お母さん。
 お母さんも呑まれたときこんな感じだった?

   ピリリリリリ
   ピリリリリリ

 飛び起きた。
 静かな和室に響き渡るこのサイレンのような音がなんなのか、どこから聞こえてくるのか、しばらくの間、寝起きの頭ではわからなかった。自分のスマートフォンが着信しているのだということにようやく気づいたときには、コールはとっくに切れていた。普段、電話がかかってくることなんて滅多にないから、着信音も聞き慣れていないのである。
 再び静寂を取り戻した和室の中。夢から現へ引き戻されたショックで心臓を痛いくらいにドキドキさせながら、座布団の下に隠れていたスマートフォンを手に取る。着信履歴を見ると、未登録の番号だった。間違い電話だろうか?
 留守録にメッセージが入っていたので、おそるおそる再生してみる。
 まず、穏やかな男性の声で、山影亭の何某ですが、と名乗った——この時点でハテナと首をかしげる。だって、おかしいじゃないか。山影亭に泊まっている私の携帯電話に山影亭の従業員が電話をかけてくるなんて。話があるなら直接言いに来ればいいのに。
 メッセージの内容も不可解だった。「お見えにならないようなのでキャンセルとさせていただきます」なる旨である。なんだそりゃ、どういうつもりだ、私はとっくにチェックインしているじゃないか……とさらに首をかしげつつ、この宿に入ってから今までのことを思い返し、そういえば、宿名を一度も目にしてないな、といやな予感に駆られた。
 焦る指でブラウザを立ち上げ、山影亭のホームページを確認する。そこに掲載された写真をよく見ると、案の定と言うかなんと言うか、私が今いるこの宿とは外観がまったく違っていた。部屋や和食屋の様子も違う。思わず「げえ」と呻いてしまった。
 どうやら私が今いるこの宿は、予約していた山影亭とはまったく別の宿であるらしい。ヒコタが懸念した通りだった。おそらく、山道のどこかで行くべき道を間違えたのだ。つくづく自分の方向音痴がいやになる。……いや。それにしたって、こんなこと起こるか、普通? 何かがおかしい。何かが。何かってなんだ——ああ、くそ。寝起きのせいで思考がはっきりしない。視界もまだぼやけている。しっかりしなければ。
 手の甲で目をゴシゴシこすりながら、考える。
 これからどうしよう。こういう場合はどうするのが最善なのだろう。今からでもフロントで事情を話したらなんとかなるだろうか。逸る気持ちを抑えつつ、振り返り、息を呑んだ。私の背後に、一体いつの間に入ってきたのか、この部屋付きの仲居さんが立っていた。
 かなり驚いたものの、「……あ、もしかして、布団を敷きに?」
 仲居さんは答えず、蛍光灯の白いあかりを後光のように背負いながら、ほがらかな笑顔で、鉈を振り上げた。
「え」
 反射的に横へ転がった。ほぼ同時に、鉈が、どん、と座卓に突き立った。回避が遅れていたら腕が落とされていた。俎上の鯉のかしらのように。
 冷たい戦慄が全身を駆け抜ける。
 仲居さんは、笑顔のまま「あらあら」と小首をかしげた。「暴れると味が落ちるんですよねえ」などと言いつつ鉈を引き抜き、再び振りかぶる。
 なんだこれは。
 悪夢の続きか。
 それとも私の小説世界が具現化したのか。
 なんの罪もない人々が理不尽な状況下でゴミのように死んでいく話が……
 そのとき、開いたままになっていた扉から、何かが矢のように駆けこんできた。ヒコタだ。ヒコタは躊躇うことなく仲居さんに飛びかかると、その横っ面に強烈なパンチを喰らわせた。私も過去一度喰らったことがあるが、ヒコタのパンチはかなり痛い。仲居さんもこれには仰天したらしい。甲高い悲鳴を上げてのけぞった。ヒコタはさらに追い討ちをかけ、目にも留まらぬ素早さで、三四発、顔に当てた。相手が女性でも容赦なしだ。仲居さんは顔を腕で庇いながらどうにか立ち上がると、転がるように部屋から逃げていった。
 私は慌てて扉を閉め、鍵をかけた。
「なんだありゃあ!」と叫ぶ以上に、自分の心臓の音がドクドクとやかましい。
 息を切らしてさえいないヒコタはさっと私を顧みた。「先生。先生はやっぱり間違えたんです。早くここから出ましょう。これ以上ここにいちゃいけません」
「仲居が鉈で!」
「先生早く荷物を」
「仲居が! 俺を捌こうと! 鉈で! これは一体、ど、どういう……ヒコタ、ここは山影亭じゃないぞ! うわ、うわああ」
「とりあえず落ち着いてください」
「なんなんだ、ここは!」
「宿泊もできる食事処ですよ。ただし食われるのは人間のほうですが」
 言っている意味がわからなかった。「うん?」
「たぶん、この店は昔からこの土地でそういう商売をしてるんです。ここに限らず、山の中とか林の中にはね、たまに、あるんです、こういう店。さ、早く逃げましょう。食われたくはないでしょう? わたしも先生を食わせたくはありません」
「……なんで人間が食われるんだ」
「そりゃあ、精がつくからですよ。人間ほど精を溜めこんでる生き物なんて他にいませんからね。因業そうなオッサンが特に喜ばれると聞きますが……おや、なに不思議そうな顔してるんです。人間だって精をつけるためと言って鰻とかスッポンとかすごいもの食べるじゃありませんか」
「でも」
「春ってのは、いわゆる繁殖期ですから。産んだりなんだりってときには、普段以上の精をつけなくっちゃいけません。だから、こういう食事処の需要が高まるんです。さっきも料理屋にひとりいたでしょう、見るだけで痒くなるような女がハラボテで」
「でも……でも、彼女は、ここへは鯉を食べに来たと……」
「そりゃ隠語でしょ」
「いんご」
「人間も鯉も、死の際には顔に白い布を掛けられますから」
「……ここは、バケモノ屋敷か」
「あははは」
 なぜ笑う。
 ヒコタはにやにやしながら言った。「まったく違うとは言いませんけどねえ。でも、プロの作家なんだったら、もうちょっと、ハッとするような斬新な表現をしたらどうです」
 できねえよ。
 だから売れないのか?
 とにかく逃げなければ。今にも抜けそうな腰に鞭打って座卓に這い寄り、ノートパソコンを鞄にぐいぐい押しこんだ。それ以上荷物を広げてはいなかったので、脱出準備完了だ。
 ヒコタはさっと窓辺に上がった。「ここから出ましょう」
「えっでもそっち生簀」
「フロントや厨房の前を通りたいんですか。わたしはいやですよ。ここしかないんです」
 でも、でも、と言っているうちにヒコタはさっさとガラス窓を開け、生簀のふちに下りてしまった。そこからさらに端まで一息で跳んで、ひらりと地面に着地する。やつの身軽さが羨ましい。こちとらノートパソコンを抱えているのだ。バックアップを取っていない原稿データが入ったノートパソコンを。だが躊躇っている場合ではない。私も窓辺から足を伸ばし、生簀のふちに下りた。ひんやりと湿ったコンクリートの硬さが、薄手の靴下越しに伝わってくる。我ながら危なっかしい足取りでよろよろと端まで行って、危なっかしく屈みこみ、地面に敷かれた簀子に下りようとした。で、ちょっとバランスを崩した。日頃の運動不足が祟った。よろけないよう体を低くし、ふちに手をつく——と、墨のような水面から、いくつもの顔が浮かび上がってきた。恐怖に歪んだ男たちの顔が。
「なああ、助けてくれよお」
「俺も連れてってくれよ頼むよお」
「食われたくねえぇ」
 水面を噛むように、がぶがぶ、がぶがぶ、口を開閉させる。
 ——鼻ヲ食イチギラレルワヨ。
 これを目と鼻の先にしてしまった私は思わず「ぎゃっ」と叫んでのけぞった。その拍子に足を滑らせた。バカンと高い音を立てて、尻から簀子に落ちる。「いてえ」
「ちょっとちょっと先生」ヒコタが駆け寄ってきた。「どんくさすぎるでしょ」
「……なんなんだ、あいつらは!」
「ものわかりの悪いひとだなあ。とっくに気づいてるものだと思っていたけど。あのね、あれは、いわば先生のご同類です」
「え」
「この店にうっかり迷いこんでうっかり泊まっちゃったひとたち。寝入ったところで手足を切り落とされ、〈鯉〉にされて、〈客〉が来るまでこの生簀で飼われるんです」
「……ヘタしたら私もあいつらみたいにされてたってのか」
「だーから、そうですって。最初からそう言ってるのに。聞きゃしないんだから」
 そうだ。ヒコタは最初から言っていた。
 ——先生、こりゃあ鯉じゃありませんよ。
「ひどい」我にもあらず涙目になった。「ひどい。ひどい話だ。こんなことが」
「ひどいだなんて。それはあなたがた人間の理屈でしかありません」
 ヒコタの声ではなかった。和食屋にいた若い店員の声だ。この暗がりの中、意外なほどすぐ近くに、狐目の彼は立っていた。抹茶色の和服風制服、白い前掛け。大きな掬網を手にしている。
 私にはその網が私を捕らえるための道具に見えた。「ぎゃああ!」
 店員は相変わらず無表情だった。「だってここはすっかりうちの領域なんですから。うちにはうちの理屈がありますから。うちから言わせてもらえば、勝手に入りこんだほうが悪いんです。招かれてもいない上に予約もしないというのなら、それはもう〈客〉ではありません。〈客〉でないなら敵か餌です」
「そんなむちゃくちゃな」
「そういうものなんです。でも、まあ、出て行くんなら止めませんけどね、別に」
「えっ」
「こっちとしてもね、あまり体力消耗したくないんです。なんせ繁忙期ですからね。揉め事は御免です。それに、今の時期、十日も待てば、すぐに他のお間抜けさんが迷いこんできますから。春ですからね、みんなボーッとしちゃって、普段なら迷いこまないようなところにうっかり迷いこんじまうんですよ。あなたみたいに。それより、そこ、さっさとどいてもらえませんかね。もう次の〈客〉が来てるんです。早く次のをお出ししなくちゃならないんです」
 私はカクカク頷きながら、這うように簀子から下りた。
 入れ替わりで簀子に立った狐目の店員は、慣れた手つきで掬網を生簀に突っこんだ。生簀からは、激しい水飛沫と共に、〈鯉〉たちの抗議の声が上がった。そして断末魔の悲鳴。やめろおお。いやだああ。これを聞きたくない一心で、私は尻の痛みも忘れて立ち上がり、走った。草を蹴り、小枝に顔を打たれながら、夜の山を走って、走って——まっすぐ駐車場に向かっているつもりだったのだが、
「先生、どこ行くんです!」ヒコタに呼び止められた。
「え、だから、駐車場」
「駐車場はこっちですよ! そっちは、」
 和食屋の表玄関。
 屋号の入った台灯籠には弱々しいあかりが灯っており、これのそばに、女がぽつんとひとりで立っていた。私は思わず足を止めた。
 あの髪型。あの体型。あの佇まい。
 見間違えるはずもない。
「……お母さん」

 私には母の記憶が数えるほどしかない。
 私がまだ物心つく前に、事故で亡くなったためだ。
 その事故というのは、ベランダからの転落。
 ちょうど今の時期。ベランダに鯉のぼりを取り付けようとして、誤って転落したのだ。
 昼寝をしていた幼い私は、サイレンの音で初めて事故が起こったことを知った。
 よく晴れた日だった。
 玄関から出てみると、救急車のランプであたりが真っ赤に染まっていた。
 首をありえない方向に曲げて倒れる母の体に、一緒になって落ちた黒い真鯉が絡んで、母はまるで巨大な鯉に呑まれているように見えた。
 だから私は鯉のぼりというものが好きではない。巷に溢れる鯉のぼりを見たくなくて、この時期にはいつも、カンヅメをするようにしている……

「先生!」
 ヒコタの声ではたと我に返る。
 ヒコタはぷりぷりと怒っている。「またボーッとして!」
「……だって……お母さんがあそこに」
「はあ!? 何言ってるんです、違うでしょう、よく見なさい!」
 よく見る。台灯籠のそばに立つ女を。長い黒髪。子供のように背が低く、手も足も枯れ枝みたいに痩せ細っているのに、おなかだけがぷっくりと大きい……あれ?
 ホントだ。違う。母じゃない。
 見間違いだ。似ても似つかない。……うわあ、お母さんじゃないひとを「お母さん」って言っちゃったよ。恥ずかしい。幼稚園児が先生を間違えて呼ぶならともかく、いい歳をした男が名前も知らない女性を指して「お母さん」だなんて。どこも似ていないのに。なぜ母だなどと思ったのか——
 私は手の甲で目をこすった。「が、眼精疲労が」
「またそれですか。いい加減にしてください。大体あんた、目がいかれるほどパソコン見てないでしょう。すぐ集中切れてさぼるんだから。あんたごときがひどい眼精疲労を患ってるなら世の中のデスクワーカーのほとんどは失明してますよ」
 ひどい言い草だ。私だって頑張っているのに。思わず言葉をなくす。
「でも、たしかに、あまりいい兆候じゃありませんね。そもそもここは人間の領域ではないんですから。これ以上ここにいたら心のほうが先にやられてしまうかも。先生は特にメンタルが弱いし。早く離れましょう」
 ヒコタが一息にそう言った直後、妊婦さんが「ああ」と身をよじった。何事かと見やると、前屈みになった彼女の足の間から、ピンポン玉くらいの大きさの、クリーム色の丸いものがボトボトと湿った音を立てて落ちた。
 なんだ、ありゃ。
 ヒコタが「ひいい」と震え上がった。「卵だ! 産みやがった!……」
 卵?
 そうしている間にもその丸いものは次々と落ち続け、最終的には二三十個も落ちた。落ちた分だけ、彼女の胎の膨らみは小さくなった。
 しかし、まだ残っている。
「うわあ、やだやだ、あいつだけはやだ。見てるだけで痒い。先生、早く行きましょう!」
 ヒコタがこんなに怯えているのを見るのは初めてだ。
 わけがわからず、私はほとんど呆気に取られていた。
「私の可愛い子供たち」女は跪くと、自分が産んだものをゴロゴロとかき集めた。「ああ、でも、もうちょっと。まだ足りないわ。まだ足りない。血が足りない……」
 女が顔を上げる。長い髪が流れ、初めて顔が露わになる。
 大きく見開かれた双眸を、きゅうっとこちらに向ける——
 黒目がない。
 たった今彼女が産み落としたものに似たクリーム色の丸いものが嵌まっているだけだ。
「足りない」
 足から頭まで駆け抜けるように肌が粟立った。
 そのとき、裏から、狐目の店員が戻ってきた。彼が手にする大きな掬網の中には、大きな〈鯉〉が納まっていた。〈鯉〉のかしらには白い晒しが巻かれていて、おそらくそのせいですっかり大人しい。死んだようにぴくりともしない。
 店員は、女と卵を見とめるなり、顔をしかめた。
「ちょっとちょっとお客さん、ここで産んでもらっちゃ困りますよ」
 言い終えるか終えないかというところで、女は狐目の店員に跳びかかった。
 私からすれば幸いなことに、店員からすれば不幸なことに、あとから現れた店員のほうが、僅差で女に近かったのだ。それでも、かなりの距離がある。にもかかわらず、まさにひとっ跳びだった。予備動作も音もなかった。信じられない跳躍力だが、しかしこれで腑に落ちたような気もした。
 そうだ。
 たしか、自分の身長の何倍もジャンプすることができるんだっけ……蚤って。
 そういう情報を、ネットで見かけた気がする。うろ覚えだが。
 あれでは、姑に蚤呼ばわりされるのも仕方ない……
 店員と鯉と蚤女は、いっしょくたになって転がった。ぎゃあっ、ぎゃっ、というのがそれぞれ誰の悲鳴なのか、わからない。彼らは暗闇の中で複雑にくんずほぐれつしていた。鬼たちの狂乱を目の当たりにして、私はただ立ち尽くすばかりだ。
「先生!」
 ヒコタが呼んでいる。本気で苛立っている声だ。これ以上ぐずぐずしたら、今度は私の顔面にパンチが飛んでくるだろう。
 あとはもう振り返らなかった。絶対に振り返らないと決めた。必死で走り、ようやく見えてきた愛車に縋りつくように駆け寄る。運転席に収まって、震える手でどうにかエンジンをかけ、靴を履いていない足でアクセルを踏んだ。ヘッドライトはサーチのままで、無我夢中で夜道をぶっ飛ばした。途中で、あ、これって飲酒運転になるのかな、と不安になったが、今さらどうしようもない。停まるわけにはいかない。
 酒のことを思い出すのと同時に、和食屋で口にした嘗物のことも思い出した。あの味噌の色は、そういえば、あの生き血の色と似ている。ってことは、あの「味噌」ってのは、もしかすると、味噌は味噌でも蟹味噌とか脳味噌とかそういう意味での「味噌」だったのでは?……そう思い至り、ウッと吐き気がこみ上げてきたが、いや待て、あれはあれでなかなかいい味だった、酒のアテにはちょうどよかった、と思うと、まあいいや、という気になった。だって食べてしまったものはしょうがないじゃん!

 未明だったので道がすいていたこともあるが、行くときは半日かかった道のりを、休憩を入れることもなく一気に、数時間で走り抜いてしまった。驚異。長時間の運転がまったく苦にならなかった。生命の危機に瀕したというストレスが刺激となって、自分史上かつてないほどに集中力が高まったのだと思われる。なんせ、一度も道を間違えなかった。往路と同じルートを辿っただけだから迷わないのは当然といえば当然だが、しかし方向音痴の私にしてみれば、これはちょっとした快挙である。このレベルの集中力が執筆のときにも発揮されればいいのだが。
 自宅に到着したときにはすっかり夜が明けていた。
 徹夜の気だるさにぼんやりしながら、とりあえずまずノートパソコンが無事であることを確認。それからようやくドアを開けた。外に出て、早朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸いこみ、凝り固まった腰を左右に捻って、そして——見た。見てしまった。向かいの家のベランダに、鯉のぼりが飾られているのを。
 高さ数十センチ程度のこぢんまりとしたものだが、真鯉がいて緋鯉がいて、矢車もあれば吹流しもついている、一丁前の鯉のぼりだ。
 私は両手で顔を覆い、へなへなと運転席に腰を下ろした。
 もういいです鯉のぼりは。
 もう見たくない。こりごりだ。
 しかしこの国の人々は、あいつを愛している。
 一家団欒を慶ぶための象徴であるあいつを。
 飾らずにはいられない。見上げずにはいられない。
「……なあ。鯉のぼりを飾る親の気持ちってどんなだと思う」
「ええ? どんなって」ヒコタはとっくに車内から出て、あたたかな陽の当たるボンネットに座っていた。「うーん、そうですねえ。わたしにはよくわかりませんけど、でもああいうのは何かしらの祈りがこめられてるんでしょうから、愛情の表れと思っていいのでは」
「だよなあ……」
 そうだったんだよな。
 そう思いたい。

 黄河の上流に竜門と呼ばれる激流があり、この難所を昇りきることができた鯉は竜と化す。登竜門という言葉の由来となったこの故事から、鯉は立身出世の象徴とされ、江戸中期より、男子の成長と武運長久を祈願する端午の節句に際し、縁起物としてこれを模った幟を立てるようになった由。

「ねえ先生」
 ヒコタはボンネットの上で、長い尻尾をぱたんと揺らした。
「旅に出るときはまたわたしを連れてくんですよ。きっとですよ」
 私は顔を上げた。「うん?」
「今回のことでもわかったでしょう。あなたの方向音痴は本当にひどい。どこへ迷いこむか知れたもんじゃない。知らない土地にひとりで行ったりしたら帰れなくなっちゃいます。今まで何もなかったのが不思議なくらいだ。だからね。旅に出るときは、わたしみたいのを一緒に連れて行ったほうがいいんです。今回だってわたしは結構役に立ったでしょう?」
 まあ、そうなのだが。
「おまえを同行させるとなると、山影亭みたいに、ペット可の宿泊施設をさがさないといけないのが手間なんだよな」
「たとえそうだとしてもそれで生きて帰れるならずいぶん得な話じゃありませんか」
 うあー、と一声鳴くと、ヒコタはそばのブロック塀に飛び移り、あっという間に立ち去ってしまった。
 ヒコタは私に飼われているのではない。行動のすべてを把握しているわけではないが、おそらく飼い主らしい飼い主があるわけではなく、基本は野良なのだと思う。
 そう。でもたしかに、ヒコタの言う通りだ。私の方向音痴はひどい。どこへ迷いこむか知れたもんじゃない。今回だってかなり危なかったのだ。
 しかし、とりあえず生きてるんだから、まあ、よしとしよう。
 予定はかなり狂ってしまったが、とにかく原稿は仕上げなければ。私があの宿から命からがら持ち帰った原稿は、読み捨てされるだけのゴミみたいな小説(もの)でしかないのかもしれないが、それでも誰かの暇つぶしになれるなら、きっとその存在にも意味がある。
 じゃ、ここはもういっちょ、死ぬ気で踏ん張りますか。
 まだ生きている私は晴天の下でひとつ伸びをする。

 今日は五月五日。
 こどもの日だね。
 子供の人格を尊重し、子供の幸福を図り、母に感謝する日だよ。



おわり


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読んでくださってありがとうございました!

ヘッダーの画像は
ぱくたそ(www.pakutaso.com)さんから
お借りしています。

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