サブレ(後編)/短編集『4Girls』より
サブレ(後編)
放課後、チセに「ドーナツ食べに行かない?」と誘われた。
「秋の新商品がおいしそうだから、食べてみたいの」
私は帰宅部だし、今日はこれといって用事もないし、あのドーナツ屋さんの秋の新商品を食べてみたくもあったので、「いいよ」と答えた。ミナモさんのことは気になるけれど、でも、家にいたところで私にできることは何もない。
帰りがけにチセに誘われるのも初めてなら、学校の外でチセと二人っきりで行動するのも初めてだった。しかし不思議と二人の間にぎこちなさはなかった。
駅前通りにあるドーナツ屋さんの二階席に、向かい合って座る。
チセは開口一番に言った。
「あのさ、私さ、ヨシマチ先輩とは、ちゃんと付き合ってるから。イワサコとはしっかり別れたから」
しっかり別れたというのがどういうことなのか私にはいまいちピンと来なかったが、新商品のドーナツをもくもくと食べながら「ふうん」と頷いておいた。
「だから、私がヨシマチ先輩に殴られたとか、部室に連れこまれて複数人にやられたとか、そういうのはみんな根も葉もないの。そういう噂が一人歩きしてるのは不本意なの。ヨシマチ先輩は、ちゃんと優しいもの。あと、私、尻軽じゃないし。というか、今までに付き合ったことがあるのはイワサコとヨシマチ先輩の二人だけなのに、どうして尻軽とか言われちゃうんだろう。ねえ、ちょっと、私の話、聞いてる?」
「うん」
「どう思う?」
「なんで私にそんな話するのかなって思う」
するとチセはしゅんと俯いた。「誰かに知っておいてほしかったっていうか。みんなに誤解されたままって、いやじゃない?」
チセはマグカップの把手をつれづれとなぞった。その指の動きはなんだか潤いがあって、とても女の子らしかった。チセの指はキレイだ。縦に長い楕円形の爪。先生たちがうるさいからマニキュアは塗っていないけど、磨いていたりはするんだろう。ツヤツヤと照って、桜色のキャンディみたいだ。
「私一人に打ち明けたところでみんなは誤解したままだよ」
「みんなは、もういいよ。みんなに言ってもムダな気がするから。話が分かるヒトにだけ、分かっておいてほしい」
チセの今日の言動はやや支離滅裂であり、理解しがたい部分もあったけど、まるで共感できないわけではなかったし、だいたい、筋道立った理論的な恋愛話をする女子などは女子と呼んではいけない気がするので、女子としてはこんなもんだろうなと思い、とりあえず「ふうん」と頷いておいた。
日の入りがずいぶん早くなった。
チセとドーナツ屋さんでダラダラとしゃべっていたら、いつの間にかすっかり日が暮れていて、私は慌てて帰宅の途についた。坂を足早に上りながら、自分が住んでいる古くて汚くて狭い建物を見上げてみる。
五階、自分ちの窓は暗い。
誰もいないのだから当然だ。父は仕事。母は、この時間、パートに出ている。
しかし、その隣——
五〇三号室のベランダ。
暗がりに、小さな、本当に小さな赤い灯火が一つ、ぷかりと浮かんでいる。ミナモさんがベランダに出て、いつものように一服しているのだ。ほの赤く燃えるタバコの火が、呼吸に似たリズムで強くなったり弱くなったりしている。
ホタル族という言葉があるけれど、確かにあれは、ホントに蛍みたい。
次の瞬間、たかがタバコの火が蛍のように見えたことも、自分ちの窓が真っ暗であることも、自分がセーラー服を着ていることも、今が日の短い秋であることも、すべてが儚く物悲しいことであるような気がしてきて、居ても立ってもいられず、私は駆け出した。坂を駆け上がり、マンションのエントランスに飛びこみ、エレベーターに飛び乗って、廊下を駆け、もどかしく鍵を開けて部屋に入り、カバンを投げ捨てて、ベランダに向かう。
ゼェゼェ言ってるといかにも不審なので、無理やり息を整える。
仕切りの向こうから、ごろごろと低い声がする。
「あのビル、マンションになるらしいぞ」
線路向こうの、建設中のビルのことだろうか。
どうでもいい話だ。
でも私は今、どうでもいい話がしたい。
深刻な話はしたくない。
本当は、したほうがいいんだろうけど。
「……ずいぶん高い」
ねえ、ミナモさん。
この前、警察が来たんだよ。
あなたを捜していたよ。
「そうだな。駅の目の前だし、かなりするだろうな。入居するヤツはセレブさまなんだろう。貧乏人を高層から見下ろすなんて、厭味だよな」
「え。私、家賃のこと言ったんじゃないよ。建物の高さのことを言ったんだよ」
「左様でございましたか」
警察のヒトは、たぶん、マンション全戸を回ったよ。
このマンションだけってことはないと思う。
近所一帯にも聞き込みしてるはず。
これからどうするの?
「大人ってやーね」
「ごめんね」
ねえ、ミナモさん。
あなたは何をしたの?
あなたは危険な犯罪者なの?
「あのマンション周辺、一気に陽当たりが悪くなるな」
「そうね」
警察にあなたのこと訊かれたけど、私、何も話さなかった。
知らないフリしたよ。
それは正しいことだった?
「日照権とかで揉めるんじゃないか」
「ここは陽当たりよくていいよね」
「そうだな」
今、すべてを話したほうがいい?
私が今疑問に思っていること、全部、訊いたほうがいい?
柄にもなく気を回して思い詰めたせいだろうか、さほど優先順位の高くない、しかしよく考えてみればデリケートな疑問が思いがけず急浮上してきて、私の口をついて出た。
「おじいさんはどうしてるの?」
ミナモさんは、一瞬、口を噤んだ。
どうということのないはずのその沈黙に、私はなぜかひやりとした。
ミナモさんは煙を吐くように答えた。「死んだ」
「……いつ」
「ついこの間。病気だったけど、でもあれは寿命だ」
「…………」
「だから僕はここに来た。この部屋はじいさんの持ち物で、じいさんが死んだら僕がもらうことになっていたから」
「そう、なの」
「そうなんだ」
ベージュ色の仕切りの向こうで、彼が立ち上がる気配がした。
私は声をかけられなかった。
カラカラカラ、パタン。
その日以降、ミナモさんは姿を見せなくなった。
○●○
室温に戻したバターを泡立て器で練り、砂糖を混ぜ、空気を混ぜるようにしながら、白っぽくなるまでとにかく混ぜる。甘い香りが立ってきたら卵黄を加えて混ぜて、それから薄力粉と塩をふるい入れ、今度は泡立て器ではなくゴムベラでさくさくと切るように混ぜる——
ミナモさんがベランダに出てこなくなって三日が経った。
ほんの三日。
されど三日だ。
初めて顔を合わせて以来、三日も間が空いたことなんてなかったのに。
どうしてミナモさんは顔を出さなくなったんだろう。私は何か怒らせるようなことをしただろうか。考えられる原因としては、やっぱり、ミナモじいさんの話。あれは、口に出しちゃいけなかったのだろうか……それとも、まさか、とうとう警察に捕まった? でも、そんな話、新聞にもテレビにも、近所のオバサンの井戸端会議にさえ出てこない。マンションはいつもと変わらず平静だった。にもかかわらず、私は不安でしょうがない。なんだかおかしいことが起こっているような気がしてならない。このままぼんやりしていたら、取り返しのつかないことになるんじゃないか……いや。よくよく考えてみると、私とミナモさんの交流は、それ自体が異常なことだったかもしれない。女子高生と引きこもり失業者の生活サイクルが何日も続けてぴったり同じなんて、そもそも、そこからして、おかしかったのかもしれない。何かが普通じゃなかったのかもしれない。何かが狂っていたのかもしれない……
さくさく混ぜる。粉っぽさがなくなってもしっかり混ぜないと、後で切るとき困ることになる。
生地を均等に二つに分けて、ラップに包む。台に押し付けるようにゴロゴロと転がして、それぞれ直径四センチほどの棒状にする。そして冷蔵庫に入れ、一晩寝かせる。生地を寝かせるというのは、地味だが大事な過程だ。食べたときの歯ごたえや舌触りが全然違ってくる。
この生地がオーブンで焼きあがっていくときの甘い香りや素朴なキツネ色を思い浮かべるだけで、胸が躍るのだ。
いつもなら。
今日ばかりは心が浮き立たなかった。苛立ちさえ感じる。手の中にある、この、できたての生地が、なぜだろう、ひどく疎ましい。ブニブニした淡黄色の物体。喫煙者の黒い肺。室温に戻したバター。ピンク色の肺。凍った卵白。新商品のドーナツ。クスクス笑い合う女の子たち。支離滅裂な恋の話。男と女の怒鳴り声。キリンの頭上に輝くルビーの冠。桜色の爪。秋の蛍。くたびれたサンダル。甘いにおいをさせている私。何事にも興味なさそうにしている私。ベランダから飛び降りそうに見える私。全部まとめて思いっきりゴミ箱に叩きつけてやりたい衝動に駆られる。
バタムとドアを閉め、冷蔵庫に閉じこめてから、溜め息をつく。
私は、この先、あの生地を焼くことがあるだろうか。
あの生地は冷蔵庫の中で放置され続け、腐っていく運命なんじゃないだろうか。
翌日。
学校にはいつも通りに行ったが、何をしていても身が入らなかった。友だちとのおしゃべりも、授業も、何もかも上の空。ぼんやりと窓の外ばかり見ていたので、英語の授業のとき、先生に注意されてしまった。私は、普段、なんの問題もない優等生で通っているので、先生に怒られるという事態に慣れていない。だから、みんなの前で注意されたことが無性に恥ずかしくて、いたたまれなくて、消えてしまいたいような気持ちになった。そのうち「どうして私はここにいるんだろう」という、哲学的な境地に至りかねない疑問もわいてきて、しまいには「私はこんなところよりももっと他にいなきゃいけないところがあるんじゃないか」という気さえしてきた。
だから、というわけでもないのだが。
休み時間のチャイムが鳴るやいなや、自分の机に引っかかっていたカバンを掴み、教室から飛び出した。
戸口の前でぶつかりそうになったのは、チセだった。
チセは最近とてもキレイだ。以前からそれなりに可愛い娘ではあったけど、最近は特に、瑞々しく輝いている。今だって、彼女の滴るようなキレイさに、不意を衝かれてギクリとしてしまった。これは、彼女が恋をしているせいなのか。
チセは目をまん丸にして「どこ行くの」
「帰る」
「え、でも」
「帰る」
チセが何か言うのが聞こえたが、私は足を止めなかった。
曇り空の下、ひと気のない道を、黙々と歩く。
帰りついた五〇四号室には、当然、父も母もいない。
夏休みでもないのに、平日の、こんな陽の高い時間に家にいるのは、なんだかヘンなカンジだ。これといってするべきこともなく、自分の家なのに所在無い。
冷蔵庫を開けて、何も取り出さずに閉め、
新聞を広げて、ろくに読まずに畳み直し、
テレビをつけて、まともな像を結ぶ前に消し、
居間のソファでしばらくぼんやりした。
静かな部屋に背を向け、フラフラとベランダに出た。
見下ろす街も、このマンションも、無人であるかのように静まりかえっていた。
狭いベランダの中で、五〇三号室の側に可能な限り寄り、なけなしの集中力を掻き集め、耳を澄ましてみた。しかし、何も聞こえてこない。ならばと仕切りから顔を出し、身を乗り出して、隣戸を執拗に覗いてみる。
五〇三号室は、ガラス戸も、その向こうのカーテンも、ぴったり閉じられていた。ヒトの気配は、まったく、ない。
ガッカリするのと同時に、バカらしくなった。
……もう、いいや。
もう何かを期待したり待ったりするのはやめよう。
だって、こんなの、おかしいもの。
もうやめよう。
もう部屋に戻ろう。なんだか寒いし。
ガラス戸に手をかけ、足首をカクカクさせてサンダルを振り落とそうとしたとき。
五〇三号室から、物音がした、気がした。
まさかね。気のせいだ。そう思いつつも、私はサンダルを履き直し、先程と同じように仕切りから顔を出して隣を覗いた。が、無論、相変わらずヒトの気配はない——
いや。
下のほう。
薄いブルーのカーテンをわずかにたくしあげて、ごろっとした男の裸足が覗いている。
それを発見しただけで、頭の中を血液が巡り始めた。
「ミナモさん?」
呼びかけてもピクリとも動かない。
聞こえていないのだろうか。
もしかして、寝てる?
しかし、よくよく見れば、彼は、絨毯も敷かれていないフローリングの床に、直に寝転がっているようなのだった。いくら彼が引きこもりの変わり者とはいえ、あんな硬くて冷たそうなところで昼寝もないだろう。今日は朝からずっと曇天で、陽が射していないから、日光浴というわけでもないだろうし。
ということは、これは——
胸に黒い不安が押し寄せてきた。
「ミナモさん」
何かが起きているのではないだろうか。
取り返しのつかない何かが。
すぐにでも駆けつけなければならないのではないか。
そう思った瞬間、私の頭はかつてないフル回転を始めた。
玄関に回るのはもどかしい。それに、きっと五〇三号室のドアは施錠されているだろうから、無駄足になってしまう。一刻も早くこの状況を打開したいのに。私はベランダを仕切るベージュ色の板を見つめた。そこには黒いゴシック体で「非常時にはここを破って隣戸に避難できます」「非常口となりますので物を置かないでください」と書かれてある。
ミナモさんは、以前、言っていた。
——ここ、破っていいからね。
あの発言は「もし閉め出されて、万が一そのまま放置されたら」という仮定付きだったけど、でも今は、非常時だから。だから。だから私は、ベージュ色の仕切り板を、サンダルの靴底で思いっきり蹴飛ばした。パカーンという音が、灰色の雲でフタをされた街にくぐもって響いた。仕切り板は、覚悟していたよりもずっと軽い力で破ることができた。自分で開けた穴をくぐり、五〇三号室のベランダへ。
幸い鍵のかかっていなかったガラス戸を引き開けて、サンダルを脱ぎ捨てながら、冷たいフローリングの室内に転がりこんだ。他人の家のにおいがした。
「ミナモさん」
揺り動かすと、ミナモさんが呻き声を上げた。
死んではいない。
「ねえ、大丈夫? どうしたの?」
「……ら、った……」
「え? 何?」
「はら、へった」
「え?」
「腹減った」
なんだそれ。
私は脱力してへたりこんだ。「やめてよね、もう……」
「お願いだ……何か、食べさせて、ください」
「どれくらい食べてないの?」
「ええっと……米だけで一週間すごして、でも米も四日前になくなって……それで、固形物は二日間くらい食べてない、かな」
「嘘でしょ」
「いや、ホント……」
「なんで若い男が飽食の現代日本で餓死しそうになってるのよ」
「……外へ買い物に行かなかったから」
ギクリとした。
ミナモさんは、自分が警察から追われていることを知っている?
だから部屋から出られなかった、いや、出なかった?
それで買い物に行けなくて、食料が尽きて、こんなことに?……
私がぐるぐると思案していると、ミナモさんは「へへ」と、カサカサに荒れた唇にうっすら笑みを載せた。「なあ、聞いてくれよ」
私は少し身構えた。「何?」
「タバコも一週間前になくなっちゃってさ……つまり、一週間、吸ってないんだ。これって、禁煙成功ってことじゃないかな。へへ……」
つまりはそういうことなのだ。
タバコがなくなったから、ベランダにも出てこなかった。
それだけのこと。
「なーんだ。バカじゃないの。心配して損した……」
ブツブツ言いながら私は自分ちに戻り、冷凍庫にあったクリームソースのパスタを電子レンジにぶちこんだ。解凍している数分の間に、インスタントのスープを電気ポットのお湯で溶かす。煮物の鍋を火にかけて、少し温める。これは昨日の夕食の残りだ。それと、三個残った袋入りのロールパンも、一応、持っていこう。
これらをまとめてトレイに載せ、五〇三号室に持ちこみ、居間の真ん中の座卓に置いた。
「どうぞ」
不明瞭な声でお礼らしき言葉を述べながら、ミナモさんは食べ物のにおいに引き寄せられるように身を起こし、這うようにしてどうにか座卓まで辿り着いた。箸を取ったところでふと顔を上げ、私をザッと眺めて「ホントに高校生だったのか……」
「は?」
「セーラー服だ」
「セクハラ! いいからさっさと食べなさいよ」
「はい」と縮こまって返事して、ミナモさんは食べ始めた。最初は、胃が驚くのを避けるためか、ずいぶんスローペースで食べていた。しかし、だんだんと一口が大きくなっていく。パスタがあっという間に消え失せる。煮物も、結構あったのに、もう半分もない。
彼の食べっぷりを見ていて、私は不安になった。
だって、この調子では、きっと足りない。
食料を、もっと持ってきてあげないと。
でも、冷蔵庫の中のものをヘタに使うと、お母さんに訝しく思われてしまう。冷凍パスタはだいぶ前に購入した備蓄食料だからなんとかごまかせるにしても、煮物とロールパンがすでになくなっているのだ。これ以上は「おなか空いたから私が食べちゃった」と言い訳できる範囲を超えてしまう。
どうしよう。
私がミナモさんにあげられる食料というと——
「ねえ。甘いもの好き?」
ミナモさんは顔を上げ、口の中いっぱいにロールパンを詰めこんだまま、口をあまり開けない喋り方で「人並みに」と答えた。
「じゃあ、ちょっと待っててくれる?」
返事を待たずに、私は五〇三号室を飛び出した。
再び五〇四号室に走って戻った私は、台所に駆けこむやいなや、オーブンのツマミを回した。それから、冷蔵庫から生地を取り出す。よく休ませて安定した生地。ひんやり、しっとり。掌に馴染む。
ラップを外し、生地にザラメ糖をまぶす。
ザラメ糖をまぶすという過程は、実はなくてもいいんだけど、私はあったほうがいいと思う。まず見た目がキラキラしてキレイになるし、それに、噛んだとき口の中でカリッと甘さが弾けるのだ。
生地を均等な厚さに切って、クッキングシートを敷いたオーブンの天板に並べる。
百八十度で、十五分——
「何持ってきたんだ。すげえいいにおい」
五〇三号室に戻ると、ミナモさんは身を乗り出して、私の手元を覗きこんだ。
座卓の上を見ると、煮物もロールパンもキレイになくなっていた。
できたての焼き菓子を前に、子どものように目を輝かせる。「クッキー?」
「ううん。これは、サブレ」
「どう違うの」
そう言われると困る。
私は首をかしげた。
「まあいいや。へえ。食っていいの」
「いいよ。どうぞ」
待ってましたと言わんばかりにミナモさんはサブレを一つ手に取り、ぱくりと頬張った。さくさくさく。小気味のいい音がする。自分以外の誰かが、自分の作ったサブレを食べているのを見るのは、なんだか不思議な気分だった。
ミナモさんは目を閉じ、唸るように言った。
「うまい」
そのたった一言で、頭蓋骨の中が、じわーんと熱く痺れた。
嬉しい。
「そう?」
「うん、うまいよ」と言いながら、次の一つに手を伸ばす。
こういうときはどういう顔をしていいか分からなくて、私はオロオロと俯いた。
「ミナモさん、餓死しかかったから、今はなんでもおいしく感じるのよ……」
「うーん、それを差し引いても、うまいと思うよ。僕はこういうのあんまり詳しくないけど、でもこれは相当うまいんじゃないかな」
頬が赤くなっていくのが自分で分かった。
頭の中がぽっぽとして、自然、口が軽くなる。
「あのね、今日のはプレーンだけど、いろいろバリエーション、あるのよ。ココアパウダーいっぱい入れてココアサブレにしたり、ゴマとかナッツ入れても、おいしいんだ……」
ミナモさんは食べる手を止めずに、私の言葉にいちいち「へえ」「そうか」と頷いてくれた。そんなミナモさんを見て、あと少しだけ残っているクロッカンも持ってくればよかった、と、ほんのり後悔する。
ぱくりぱくりと食べ続け、早くも半分を消費しそうになった頃、口の中をサブレでいっぱいにしながらミナモさんは立ち上がった。「これにはきっとコーヒーが合うだろうな。淹れてくる」
「あれ。コーヒーはあるのね。食料はなくても」
「ああ。コーヒーならあるんだ。でもあまり飲まなかった。空腹にコーヒーを流しこむと、胃に穴が開きそうだったから」
「そうだね」
「君も飲むか」
「うん」
そうして私は居間に一人になった。
……そういえば、私、男のヒトの部屋にいるんだわ。
急に落ち着かなくなって、そわそわとあたりを見回す。
この五〇三号室はもともとミナモじいさんの部屋だったから、ところどころに、いかにもおじいちゃんっぽいものが置いてあった。お経の本とか、年季の入った習字道具とか、黄ばんだハガキの束とか。
あと、目につくものといえば、文庫本。コミックス。などなど——そうだ。いつだったか、ミナモさんは五〇三号室に引きこもって「本読んだり、撮り溜めてたビデオ観たり」していると言っていた。あの証言は本当だったのか。
それと、汚い。
廊下に、燃えるゴミの日に出しそびれたのであろうゴミ袋が、いくつか転がっていた。空き缶や空きペットボトルがいっしょくたに放りこまれたビニール袋なんかも。この地区では、缶とペットボトルは分別しないと持っていってくれないんだけどな。
なんか、ゴキブリとかいそうだな……
恐々としながら部屋の中を見わたして、ドアのわきに、ドラムバッグがあるのを見つけた。小さな子どもなら余裕で入れそうな、大きなものだった。
明らかに普段用ではない大きなカバンを部屋の動線上に出しっ放しにしている理由として考えられるのは二つ。近々旅行に行く予定があるか、それとも、旅行から帰ってきてそのまま放置しているか。
ミナモさんは引きこもりだから、旅行とは縁がなさそうだけど……
なんとなく気になって、ドラムバッグの中を覗きこんでみた。ファスナーが開けっ放しだったから、中身がすぐに目に入った。詰めこまれていたのは、大量の一万円札だった。
「うわ」
間違いなく、どう見ても、福澤諭吉だった。
千円札でも五千円札でもない。
「……ホンモノ?」
いや、まさか。
テレビドラマとかに小道具で使ったりするフェイクのお札だよね。
だって、ホンモノだとしたら、これ、一体いくらくらいになるんだろう。小さな子どもなら余裕で入れそうなほど大きなドラムバッグをパンパンに膨らませる一万円札というのは……
背後に気配が立った。
振り返ると、湯気の立つマグカップを両手に持ったミナモさんが、部屋の口に立って、私を見ていた。
喉の奥でヒッと息が詰まった。「ご、ごめんなさい」
ミナモさんは、私にずいと詰め寄ってきた。
私は思わず身を硬くしたが。
ミナモさんは、無言のまま、私にマグカップを差し出しただけだった。
「……あ、ありがとう、ございます」
私は指先が震えそうになるのをこらえながら、どうにかそれを受け取った。
ミナモさんは座卓の向こう側に座ると、何事もなかったかのように、ふうふうと湯気を吹き飛ばしながらコーヒーをすすり始めた。おなかが膨れたためだろうか、さっきの死にそうな様子とは打って変わって、余裕たっぷりの佇まいだった。
私はおそるおそる訊いた。「……私を殺す?」
ミナモさんは「はい?」と眉をひそめた。「なんだそりゃ」
「だって、見たし」
「確かに見られたけど、別に殺しゃしないよ。物騒だな」
「あの……このカバンの中にあるのって、おカネ、だよね」
「もちろん」
「ホンモノ?」
「ホンモノだよ」
「これ、いくらくらいあるの」
「約一億」
「いちおく……」
テレビなんかではよく聞く単位だけど、実感は湧かなかった。
というか、一億円って、たったこれっぽっちなんだ。もっともっと見上げるほどの山積みになってるイメージがあったけど……と、一億という数字に実感を持てない私は、ぼんやりとドラムバッグの中身を見つめた。
「ほしい?」
「え」
「あげようか。食べ物のお礼として」
そう言って、ミナモさんは小学生男子みたいにニヤリと笑った。
今度は私が眉をひそめる番だった。「ずいぶん簡単に言うね」
「複雑な話じゃないから。で、どう? ほしい?」
「いらない。なんか、やばそうだもん」
ミナモさんは「確かに」と軽く頷き、コーヒーをすすった。
私もコーヒーを一口ちびりと飲んだ。「……ねえ、ミナモさん」
「うん」
「この前、警察のヒトがうちに来たよ」
「そうか」
「ミナモさんの写真を見せられた。この男をこの付近で見かけなかったかって訊かれた」
「それで?」
「知らないフリしておいた」
ミナモさんは座卓に両の肘をついた。「庇うと君も犯罪者になっちゃうぞ……って、未成年だとセーフなんだっけ?」
「このおカネのせいで警察に追われてるの?」
「まあそういうことだね」
「このおカネはどうしたの?」
「どうしたと思う」
「盗んだ?」
「勤め先からちょろまかした」
ミナモさんは頬杖をついたまま、くつくつと低く笑った。
「すごいだろ」
と言うその声は、笑っているのになんだか痛々しかった。
自虐的っていうのかな。
ベランダの仕切り越しに私とのんきな会話をしていたあのヒトとは別人みたいだ。
「このおカネ、何に使うの?」
「何にも」
「使わないの?」
「使うつもりはない。今までも、一切手をつけていない」
「どうして?」
「使えないよ。汚いカネだもの」
「おカネはみんな汚いんでしょう?」
ミナモさんが言ったのよ。
——世界で一番汚いものってなんだと思う?
——カネだよ。
——ヒトの手から手へと渡っていくカネってものは、つまり、どうしたって、恐ろしく汚くなるものなんだよ。
私、この話、実はすごく納得したのに。
「もちろん汚いけど、でもそういう汚さじゃなくて、うーん」
「比喩的な意味?」
「そう、だな。うん。たぶんそうだ……あのさ。このカネは、汚い場所から、汚い動機で、汚い手段を使って、奪ってきたものなんだ。この時点でもうずいぶん汚いんだけど、一枚でも使ったが最後、僕は、カネに触れた手だけでなく、ヒトとしての尊厳までも汚してしまう気がするんだ。意味分かる?」
「なんとなく」
「僕は、今だってそんなに大した人間ではないけど、むしろ、すでにかなり落ちぶれてしまっているけど、ヒトとしてやり直せる余地がギリギリ残っているところで辛うじて踏み止まっていると思うんだ。でも、このカネを使うと、最後の一線を越えてしまって、もう戻れなくなってしまう気がする。だから、使えない。怖くて使えない。額が額だから、使えばなんだってできるとは、分かっているんだけど。たとえば、海外逃亡するとか、家を建てるとか、新しい戸籍を買うとか、そういうことがいくらでもできるとは思うんだけど……僕の言ってる意味、分かる?」
「つまりこれは、ミナモさんにとって、すでにいらないおカネってこと?」
ミナモさんは「まあ、うん、そうかな」と、ふにゃふにゃ俯いた。「どちらかというと、持て余してるくらいだ」
「そう」
私はベランダに目を向けた。
私が入ってきたときから、カーテンは開きっ放しになっていた。色褪せたカーテンとベランダのてすりが額縁となって、空の一部を切り取り、絵画のように仕立て上げている。灰色の分厚い雲を背景に、蛍のリズムで瞬く赤い光。あれは、キリンの頭上に輝くルビーの冠。
「じゃあ、捨てちゃおうよ」
ミナモさんは「は?」と顔をあげた。
私はベランダの外を指差した。
「あのビルの上から、景気よく撒いて、捨てちゃおう。バカ高い家賃を払えるセレブたちが高みから貧乏人たちを見下ろす前に、私たちで、一億円を降らせるの。ねえ。そうしよう。きっと気持ちいいよ」
とあるベンチャー企業の経理担当だったミナモさんは、帳簿の数字を操作し、会社から約一億円を横領。目的を果たしたので、辞表という名の紙切れ一枚をペロッと出して、逃げてきたのだという。
「社長がカンベっていうんだけどさ」
このカンベという男、その昔、ミナモさんのお父さんとおじいさんが代々守っていた食品加工会社の経理担当をしていたのだが、なんとこいつも、会社のカネを横領したのだという。このことが発覚したときには時すでに遅く、大金もカンベも消えた後だった。
「カンベはこのときのカネを元手に会社を興したんだな」
大きな負債を抱えたミナモさんの会社は一気に傾いてしまい、数年後には倒産。それまで中流以上の生活を送っていたミナモ家も、坂道を転がるようにあっという間に没落していくことになった。
「笑えるのが、母親が解雇した役員と駆け落ちしたこと」
妹はグレてどこの馬の骨とも知れぬ男と蒸発。お父さんは借金返済に走り回り、心労でノイローゼになり過労で倒れ、そのまま帰らぬヒトに。おじいさんはすっかり気抜けしてしまって、唯一手元に残ったこのマンションに隠居。
残されたミナモ青年は、彼の人生をめちゃくちゃにしたカンベに復讐を誓った。やがてミナモ青年は、名前を変え経歴を偽り、カンベの会社に潜りこんだ。自分や家族が味わった辛酸を、カンベにも思い知らせるために——
と。
肩からあの大きなドラムバッグをさげたミナモさんは、事ここに至った来歴を、セレブビルに至る道すがら、淡々と語ってくれた。
「つまり、ミナモさんは、自分の家族がやられたことをカンベにやり返した、ということね」
「そういうこと」
「それ、ホントの話? 作ってない?」
「作ってないよ。失礼な」
引きこもりのミナモさんはこのあたりに土地勘がないので、私のあとからついてくる形になっていた。人目につかないよう、なるべく大きな道を避け、住宅街の間を縫うような細い道ばかりを選んで歩いたから、まともに行くよりもずいぶん時間がかかった。
やがて、目指すセレブビルが見えてきた。
こうして間近で見上げてみると、やはり、かなり高層だ。それはそうと、エレベーターってもう設置されているのだろうか。まだついていなかったら、自力で昇ることになるけど——
「ありきたりに聞こえるかもしれないけど、不幸というものは往々にしてありきたりなものなのだよ」
「ふうん。まあ、そうかもね」
「分かってくれるか」
「うん。私の抱えてる不幸もありきたりなものだもの」
「そうなの?」
「そうなの」
だからさ、パーッと撒き散らしちゃおうよ!
きっと気持ちいいよ!
作業員たちの目を盗んで潜入し、最上階へ。ルビーの冠を載せたキリンをかつてないほど間近に見ながら、ドラムバッグのファスナーを一気に開き、すまし顔の福澤諭吉を何人も鷲掴みにして、この高層ビルのギリギリふちに立ち、あのマンションのベランダとは比べ物にならない高さから街を見下ろして、強風にあおられて転げ落ちそうになりながら、カネなんか吐いて捨てるほど持ってるくせにケチくさいセレブどもに成り代わって、「こんな汚いものいらない」「くれてやる」と喚きつつ、枯れ木に花を咲かせたじいさんのように、私とあなたで。
紙幣の雨を降らせるんだ。
そして、顔を見合わせて笑おう。
街はにわかに騒然となるだろう。
しばらくしたら、警察が来るだろう。
ミナモさんは捕まるだろうけど、私も一緒に捕まるだろう。
マスコミも寄ってくるだろう。
両親や友だちは、なんて言うかな?
ひと気のない路地の真ん中で、私は足を止めた。
ミナモさんがついてきていないことに気づいたからだ。
振り返ると、ミナモさんは少し離れたところで突っ立っていた。
私はその数メートルを駆け戻った。「どうしたの」
ミナモさんは微笑んだ。「やっぱり、ビルには行かない」
「なんだと。怖気づいたか」
「いいや」
「一億円が惜しくなったか」
「そうじゃない」
「じゃあどうして」
「僕はまず先にあっちに行こうと思う」
彼が指差した先にあるものを見て、心臓が止まりそうになった。
警察署。
この道は周辺住民しか通らないような裏道なので、大通りにある警察署は、一部がどうにか垣間見える程度なのだけど、でも、あれは確かに警察署だった。交通安全のスローガンが書かれた垂れ幕がかかっている。
「どうして? ここまで来て」
「ここまで来たからだ」
そうしてミナモさんは警察署に進路を変え、さっさと歩き始めた。
私は慌ててそれを追った。
「自分勝手なんだから!」
裏道を抜け、大通りへ。
大きな交差点に差しかかって、ミナモさんは足を止めた。
信号が赤だったのだ。
ここを渡れば、警察署の正面玄関はもうすぐそこだ。
……何か言わなきゃ。
そう思っていると、ミナモさんが「あのね」と口を開いた。
「あの五〇三号室、あのベランダは、僕にとっては檻だった。檻と言っても、優しい檻だ。自分から進んで閉じこもっていたくなるような、甘い香りのする檻」
ああ。
私も、いつも、似たようなことを思っていた。
ベランダの柵は檻のようだ、と。
自分は檻の中から外を見つめる囚人のようだ、と——
「退屈で窮屈で、とてつもなく孤独だけど、その代わりにとても穏やかだった。誰にも文句を言われない。誰にも傷つけられない。誰の目も気にすることなく、自由に過ごしていい。ゆっくりと腐っていくような感覚に陥ることもあったけど、この檻の中でなら、腐り落ちるのもいいかもしれないと思っていた」
信号が赤から緑に変わる。
私とミナモさんは交差点に入った。
「でも、やっぱり、檻は檻なんだ。長くいていい場所じゃない」
渡りきったところで、ミナモさんは足を止めた。
それから私を真っ直ぐに見た。
黒縁眼鏡の奥の目は優しい。
このヒトは、髪をきちんとセットして、ヒゲもきちんと剃って、きちんとしたスーツを着たら、たいそうカッコよくなるんじゃないだろうか。カンベの会社にいたときは、横領を企んでいるにしても、上からも下からも信頼されて慕われる、できる男だったんじゃないだろうか。
そんなことを思わせる眼差し。
「ここまで連れてきてくれて、ありがとう」
「……連れてきてない。ミナモさんが自分で勝手に来たんじゃない」
「でも、ありがとう」
ミナモさんの気が変わることはなさそうだった。
では、本当に、ここでお別れなんだな。
そう思うと、鼻の奥がじわじわと熱くなってきた。私は、身近なヒトとの別れというものを、幸いにして、これまで経験したことがなかった。だから今、どんな顔をしていいのか分からない。何を言っていいかも。
数秒の葛藤の後、私は笑ってみせた。できるだけふてぶてしくに見えるように。私は哀しんでいないということを示すために。
「仕方ないなあ。じゃあ、行きなさいよ」
「ああ。行ってくるよ」
「キレイな体になって帰ってくるのよ」
「うん。帰ったら、またあのサブレを作ってくれよ」
「いいよ。作ってあげる。食べに来てね」
ミナモさんは笑顔で頷き——
きびすを返そうとして、半端なところで足を止め、また私に向き直った。
「そういえば、君の名前、聞いてなかった。教えてくれるか」
ふふふ。
涙が滲みそうになる目元を無理やり歪ませ、ニヤニヤ笑ってみせた。
「なんだよ」
「ねえ。初めて会ったとき、ミナモさん、私に、君はほのかに甘いにおいがするって、言ったでしょ」
「言ったかな」
「言ったよ。そのあと、女の子ににおいがどうこうって言ったらセクハラになるんだっけとか言って、私に謝ったじゃない」
「ああ。そういや、言ったかも」
「私、セクハラだとは思わなかったけど、少し驚いた。それと、ちょっとだけドキッとしちゃった。ただの偶然だって、分かってはいたけど……だってね。あのね。私の名前は、ほのかというの」
ミナモさんは目を丸くした。「ほのか」
「うん」
「いい名前だな」
「でしょ」
「君らしい」
そうしてミナモさんは今度こそきびすを返し、一度も振り返ることなく、一億円が詰まったでかいドラムバッグを携えて、警察署に入っていった。私はそんなミナモさんの背中が消えるまで、いや、消えてからも、ずっとそこに突っ立っていた。
ベランダタイム、終了。
カラカラカラ、パタン。
●○●
この日も両親はケンカを始めた。けれど、私はベランダには逃げず、台所に入って、諍いの声を聞きながら、生地を丸く抜いて、オーブンの天板に並べる。
二百度で十五分。
その間に、生クリームとバターで、クロテッドクリーム風のバターを作る。
焼きあがったばかりのスコーンを、皿に移す。クロテッドクリームもどきと、冷蔵庫の中にあったジャムもトレイに載せて——ふうっと一つ大きな息を吐いてから、私は居間に向かった。
トレイをテーブルにドカッと置く。
両親はギョッとした顔で私を見た。
私は努めて冷静に言った。「食べてみて」
「どうしたの、急に」「ほのか、今大事な話してからあっちに」
私はあつあつのスコーンを一つ手に取り、ぱかりと二つに割って、片方を父に、もう片方を母に突きつけた。ここまでされてはさすがに食べないわけにはいかないと見えて、二人とも、大人しくスコーンを口にした。
それを見届けてから、私は自分の分のスコーンを手に取り、中央で割った。ほこっと香ばしい湯気が上がって、鼻腔をくすぐる。
まずは、クリームもジャムもつけずに、素のまま、ぱくりとかぶりつく。
外側はさっくり。中はふかふか。
甘さも焼き加減もちょうどいい。
「うん。いい出来」
私は自信満々の顔を両親に向けた。
「どう?」
「……うまいよ」「そうね。おいしい……」
「でしょ。クリームとかもつけてみて」
ディップしやすいように、トレイを両親のほうに押しやる。
——これで何かが解決すると思っているわけではない。
でも、こうしたかった。
たぶん、ずっと前から。
「スコーンは、オーブン出したての、ほかほかのところを食べるのがいいんだよ。これからもときどき作るからね。食べてくれる?」
翌日。
学校で、チセに、サブレとクロッカンの詰め合わせを手渡した。
気合いの入ったプレゼントではないから、特別なラッピングはしない。蝋引きしてある素朴な柄の紙袋に適当に詰めて、口を二回折っただけ。
家に帰ってから食べてくれればいいと思っていたが、チセはその場で開封して食べ始めた。
サブレを一つあっという間に食べ、二つ目を口に放りこみ、三つ目を手にしたところで、驚きで目をキラキラさせながら、弾んだ声でチセは言った。
「すっごくおいしい。ほのかが作ったの? すごいね!」
私は顔を上げ、フフンと胸を張ってみせた。
「でしょ」
ことさらに芝居がかった仕種なのは、照れ隠しのため。
包み隠すことが苦手なチセは、褒めるときも手放しだ。
「すごいなあ。私こういうの全然できないから、作れる人、尊敬する。なんでこんなうまくできるの? お菓子作りって難しくない?」
「難しくはないよ。私にできるくらいだもん」
「そうなのかな。なんかすごく複雑で手間がかかるってイメージあるよ」
「そうだね、それは確かにそうかも」
お菓子を作るのって、とにかく面倒臭い。
まず、調理器具を用意しなくちゃいけないし。
材料を量るときは目分量厳禁、一グラム単位でキッチリ量らなくちゃいけないし。
一般家庭だと、レシピに載っているような立派な製菓器具や横文字の材料が都合よく準備できなかったりするから、それだけでやる気がなくなったりするかもしれない。
それに、後片付けも面倒。
でも慣れてくると、そういうの全部ひっくるめて——
「楽しいけどね」
私はニヤッと笑ってみせた。
チセも「ふうん?」と小首をかしげて笑った。「なんか、ちょっと意外だな。ほのかがそこまでハマってるなんて。ホントに好きなんだね」
「うん」
私、お菓子作りが好きなんだ。
食べてくれた誰かが「おいしい」と言ってくれるのも、
その瞬間の嬉しそうな顔を見るのも、
とても好きなの。
おわり
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ぱくたそ(www.pakutaso.com)さんから
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