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サブレ(前編)/短編集『4Girls』より


 2011年にメディアワークス文庫さんから刊行された『4Girls』という短編集に載っていたうちの一編です。本書は絶版になりましたので、私(作者)の手元で公開してしまいます。
 10年近く前に書かれたものになるので、少々時代遅れなところもありますが、あえて手直ししておりません。また、一記事にするにはちょっと長かったので、前編・後編で分けてあります。
 少しでも楽しんでいただければ嬉しいです。

そんな人はいないと思いますが
転載・複製・複写・転売など、全面的に禁止です。
無料公開しますが著作権は柴村仁にあります。
よろしくね!

それではどうぞ



サブレ(前編)



 くたびれたサンダルをつっかけてベランダに出た。
 なまぬるい風が首筋を撫でていった。
 坂の上にあるマンションの五階だから、見晴らしはいい。
 古くて汚くて狭いマンションだが、見晴らしだけはいいのだった。
 しゃがみこみ、ベランダのてすりにもたれる。
 ベランダの柵は、檻のようだ。
 とすれば、自分は、檻の中から外を見つめる囚人だ。
 時々、そんなことを考える。
 眼下に広がるのは、郊外の耕作地まで続くそこそこの規模のベッドタウン。学校も商店も病院も警察署も揃っている。基本的に家と学校を往復するだけの毎日を送る私は、この街から出ることはほとんどなかった。
 黄昏の底で、駅前の商店街がぎらぎらと発光している。建物のシルエットの間を流れ星のように通過していく電車。あの駅で停車しなかったから、あれはきっと快速だ。
 不規則に並ぶ黒や紺や臙脂の瓦屋根がどんぐりの背比べをしている中、西の方角に一際高くそびえ立つのは、線路向こうで建設中のビル。マンションになるのか商業施設になるのか、私はまだ知らないが、完工すればこの辺りで一番高い建物になることは間違いなかった。
 建設途中のビルのてっぺんには、キリンのように首の長いクレーンが一機、乗っかっていた。ここからでは遠すぎて稼動しているかどうかもよく分からないが、きっと毎日せっせと建材を上げ下ろししているのだろう。頭のてっぺんの赤いランプを、ルビーの冠みたいに光らせて。
 いつもとたいして代わり映えのしない風景。
 明日もきっとこの風景が広がっている。
 次の日も、その次の日も。
 私は重い溜め息をついた。
 変化のなさに絶望しているわけでも退屈しているわけでもない。ただそこに広がっているから見ているというだけの話。壁にかけられた絵を見ているような気持ち。自分はあの中に入っていけないだろうという諦め。触れてみたい気もするけど触れたって意味がないことを知っている。近いようで遠い。遠くから見ているだけというのは、ちょっぴり寂しい気もするけれど、自分からは何もしなくていいので楽だ。
 ふと、苦いにおいが鼻を突いた。
 タバコの煙?
 珍しいにおいだった。私の父も母もタバコは吸わない。
 どこから流れてきたのだろう。
 私は視線を巡らせ、そして、息を呑んだ。このマンションのベランダは、隣室と一続きになっており、ベージュ色の仕切りで区切られている。その仕切りの陰から、見知らぬ男が顔を覗かせていた。
 背が高く、黒縁の眼鏡をかけ、火のついたタバコを軽く咥えている。そこはかとなくだらしない雰囲気なのは、うっすら生えた無精ひげのせいだろうか。まだ若いようにも見えたし、それなりに歳を喰っているようにも見えた。これといった特徴のないありふれた容貌なだけに、年齢を察しにくかった。
 それにしても、怪しい。
 怪しすぎる。
 隣の五〇三号室には、ミナモさんという偏屈そうなおじいさんが一人暮らしをしているはずだ。なぜこんな若い男がいるのだろう。誰だろう。ミナモさんの家族だろうか。ミナモさんの身内なんて、今まで一度も見たことなかったけど……
 無言のまま身を強張らせていると、おもむろに男が言った。
「虐待されてるのか」
 ごろごろとした低い声。
 あまりにも唐突な問いに、思わず「は?」と訊き返してしまった。
「いや、よく聞くから。ニュースとかで。子どもをベランダに閉め出して放置、みたいな。ネグレクトっていうんだっけ」
 男は、しかし、発言の内容とは裏腹に、心から心配しているふうでもない淡々とした口調だった。もしかしたら本人も、本気でネグレクトなどとは思っていないのかもしれない。
 男は口の端から煙を細く吐いた。「通報したほうがいいかね」
「……いい。やめて」
 男は「あっそう」と言って顔を引っこめた。
 そしてそれ以上何かを言う気配はなかった。
 なんとなく、気に障った。
 変なヤツ。閉め出して放置? そんなわけないだろ。こちとら高校生だぞ。
 私は背が低く童顔なので、普段から幼く見られがちだったが、これはあんまりだ。
 私は仕切りに向かって言った。「閉め出されるほど子どもじゃないです」
「ふうん。いくつ」
 これは、歳を訊いているのだろうか。
 私は自信のなさそうな小さな声で「十五」と答えた。
 男はもう一度「あっそう」と言った。興味など微塵もないことが声にありありと表れていた。私が九歳と答えても十九歳と答えても、おそらく返事は「あっそう」だっただろう。
 途方に暮れるような心持ちでベージュ色の仕切りを見つめた。そこには黒いゴシック体で「非常時にはここを破って隣戸に避難できます」「非常口となりますので物を置かないでください」と書かれてあった。この仕切り板は、薄く弱く作られているのだろう。それこそ、女性や子どもの力でも破れるように。
 では、隣の男は、こちらに乗りこもうと思えばいつでも乗りこめるのだ。
 そんなことを考えて、一瞬、空恐ろしくなった。しかし、あの無気力そうな男はそんな面倒な真似はしないだろうとも思った。
 仕切りの向こうから、また声がした。
「もし閉め出されて、万が一そのまま放置されたら、ここ、破っていいからね」
 私が今まさに注意書きを見つめていることを察したわけではないだろうが、タイミングの悪い一言だった。
「閉め出されないったら」
「どうかな」
 なんだよ「どうかな」って。
 失礼なヤツだ。
 私はそれこそ子どものようにぶんむくれた。
 もう一言言ってやろう、と口を開き——
「ところで、君、ほのかに甘いにおいがするな」
 そう言われて、固まった。
 棘々しい言葉たちが喉元で泡のように消えた。
 悪戯がバレそうになったときのような動揺が体を駆け巡った。
「おっと。女の子ににおいがどうとか言ったら、セクハラになるんだっけ」
 え。そうなの?
「やらしい意味じゃないから。気を悪くしないでくれよ」
 もちろん。
 そんな、気を悪くするだなんて——
 伝えるべき言葉をうまく見つけられずにオロオロしていると、仕切りの向こうから、ベランダの戸が開閉する音がした。
 カラカラカラ、パタン。
 彼が部屋に引っこんでしまって、私は安堵したようなガッカリしたような。

 これが彼との初対面。
 わりと強烈な第一印象だった。

 彼と次に会ったのは、拍子抜けするほど間を置かず、翌日のことだった。

 いつものようにベランダへ出て、しゃがみこみ、てすりにもたれかかっていた。前日と似たような時間帯だった。夕食後。太陽が沈みかけている頃。薄紫の空に、そこだけ色を抜いたかのように白い三日月がかかっていた。ぼんやりしていると、またしても、苦々しいタバコのにおいが鼻についたのだった。
 ベージュ色の仕切りに近づき、その向こう側、隣のベランダを覗くと、昨日の黒縁眼鏡がそこにいた。安っぽい折りたたみ椅子に無気力そうに腰掛けて、灰皿片手にぼんやりとタバコをふかしていた。
 目が合ったので「ケムいんですけど」と文句を言うと、男は素直に「すみません」と謝った。が、まったく申し訳なさそうではなかった。タバコを消そうともしない。しかし、あまり腹は立たなかった。男が着ているTシャツにプリントされたキャラクターがやけに可愛らしくて、タバコの煙よりも男の失礼さよりも、そちらのほうが気になった。
「ねえ。そのTシャツ」
「ん?」
「可愛いね」
「はあ。どうも」
「どこで買ったの」
「もらい物」
「ふうん」
「可愛いか? これ」
「可愛いよ」
「十代のコの感覚はよく分からんな」
「ねえ。おじさん。ここに住んでるの」
「住んでる。おじさんはやめてほしい」
「でも、さっきの、十代のコの感覚がどうたらっていう発言は、この上なくおじさんっぽかった」
「そうかな」
「あなたもミナモさんって名前?」
「うん、まあ」
「おじいさんの親戚?」
「まあ、そう」
 曖昧に返答して、ミナモさんは深く煙を吐いた。
 あまり突っこんだ話をしたくなさそうな面持ちだった。
 だから、微妙に当たり障りのなさそうな話題にすり替える。
「最近引っ越してきたんだよね」
「うん、まあ、最近」
「全然気づかなかった」
「荷物少なかったし」
「近所に挨拶した?」
 するとミナモさんはことんと項垂れた。「それは、してません、すみません」
 その声は、後ろめたそうに縮こまっていた。
 良識を持っていないわけではないらしい。
「ダメな大人なもんで」
 自分のことをダメと評する大人に会ったのは初めてだった。
 なんだか微笑ましい気持ちになった。「うちに迷惑かけないならいいよ」
「かけないように気をつけます」
 変な大人だなあと思いながら私は仕切りから離れ、元のようにてすりにもたれかかった。頭の中で今の会話を反芻し、やっぱり変な大人だなあ、と思った。
 九月。日中はまだまだ夏のような暑さだったが、このくらいの時間になると、さすがに涼しい。今日は朝から晴天だったので、空に雲はほとんど見られない。ただ、刷毛で刷いたように薄く広がる雲が一筋、明るいサーモンピンクに輝きながら、夕陽に向かって伸びるばかりだった。
 タバコの煙がまた鼻についた。
 私はそのままの姿勢で訊いた。「おじいさんに嫌がられるんでしょう」
「ん?」
「タバコ。外で吸えって言われるんでしょう」
「……ああ、いや、まあ、そうかな。直接言われたわけではないんだけど、タバコ嫌いの老人の部屋でお構いなしにガバガバ吸うのもどうかと思うしね。それに、部屋で吸うと、やっぱ汚れるからね。クロスとか、電気の傘とか」
「いいことなしだね。タバコやめればいいのに」
 ミナモさんは「そうなんだけど」とか「それができれば」とか、ごにょごにょと不明瞭な声で呟いた。
「ふん。まあいいけど。吸殻そのへんに捨てないでよね」
 いくつも年下のはずの私の尊大な言葉に「はい」と律儀な返事を寄越し、一本を吸い終わったらしいミナモさんは、部屋の中に戻っていった。
 カラカラカラ、パタン。
 ふと気づいた。
 そういえば、最近、ミナモじいさんを見かけていない。
 もともと頻繁に顔を合わせるわけではなかったけど。
 具合でも悪くなったのかもしれない。だから、あの孫(息子ではないだろう)が面倒を見に来たのかもしれない。
 きっとそうだ、と、私は一人で納得した。

     ●○●

「そういえば、昨日のラバニュ観た?」
「観た観た! サカジュンかわいそすぎるよね」
「あの女マジ死ねってカンジじゃない?」
 今期人気のドラマのことで、女子は盛り上がっていた。
 朝の教室。ホームルーム前の、いつもの光景。
 うちのクラスの女子は、もちろんそれなりにグループは形成されているけど、わりとみんな分け隔てなくしゃべるほうだと思う。
 それでもやっぱりリーダー的な娘はいる。マナミとユリコだ。
 今だって、マナミとユリコが中心となって、ドラマの今後の展開について熱っぽく討論していた。
 朝早くに起きて、楽ではない通学路を一生懸命歩いてきて、その末にやっていることが毒にも薬にもならないおしゃべり、というのも、なんだかなという気がしないでもないが、しかし、女子コミュニティに所属する者にとって、こういうおしゃべりは、休み時間ごとの連れションと並んで重要なノルマなのである。
 話の流れが、ドラマの主演を務める若手俳優に向いたときのこと。
 チセという娘が「あっ」と顔を上げた。「いけない。そういえば、グラマーの教科書持ってくるの忘れてた」
 他の娘が「また?」と笑う。
「やばいなあ。ちょっと、三組から借りてくるよ」
 そう言ってチセが教室を後にした、その途端。
 マナミが身を乗り出し、声を低くして「知ってる?」と囁いた。その目線は、教室を出て行ったチセを気にするように、戸口の方にチラチラと向けられている。
 ——あ、やだな。
 これから目の前で繰り広げられるであろうことをそれとなく察して、私は暗い気持ちになった。もちろん、そんな感情は毛ほども顔に出さないけれど。
 ユリコをはじめとする他の女子は「何なに?」と興味津々で身を乗り出す。
「同じ塾に通ってる娘から聞いちゃったんだけどね。夏休みの終わりにさ、みんなでカラオケ行ったじゃん? サッカー部のヒトらと合流して。その日に、チセってば、ヨシマチ先輩に自宅つれこまれて、やられちゃったかもしれないんだって」
「ええっ。ヨシマチ先輩って、あの?」
「そうそう。悪い噂ばっかりのヒトなのにさあ、バカだよね。のこのこついていくから」
「イワサコくんの問題も片付いてないのにね。ホント、尻軽なんだから……」
 クスクス笑うマナミとユリコ。女子たち。そして私。
 今の今までなんの翳りもなく和気藹々とおしゃべりしていたというのに、輪から外れた途端、掌を返したように、この扱い。さっきまでの仲睦まじさは巧妙な演技だったのだと言わんばかりの変わり身の早さ。そうして、チセが輪の中に戻ってくると、慌てるでもなくたちまち仲良しの仮面をかぶり直し、何事もなかったかのように自然に迎えて、おしゃべりを再開するのだ。
 いじめではない。馴れ合いでもない。なんとも不可解で不愉快な体制。これを目の当たりにするたび、私は心底ぞっとする。しかし、女子の間ではわりとよくあることなのだった。仲良しグループを形成したりトイレに毎回一緒に行ったり、表面的にはべったり依存し合っているように見えるかもしれないが、その実、女子というものはものすごく冷徹で功利的なのである。
 私も本当はトイレに行きたかった。
 でも、席を立つことができなかった。だって、今ここで席を立てば、私のいなくなった輪の中で、「ねえ。知ってる? あの娘って……」と、私を面白おかしくネタにした会話が持ち出されるかもしれない。臆病な私の被害妄想かもしれない。確実にそうである、という保証はないのだから。しかし、そうではないという保証もない。
 こういう、悪い意味での女子臭さに、私は、女子でありながら、いつまで経っても馴染めない。
 馴染める気がしない。
 馴染みたいとも思わないが。
 でも、馴染んだフリだけでもしておかないと、いろいろやりにくいから。
「ふう」
 溜め息は聞き流される。
 同い年が詰めこまれた狭い教室の中では、溜め息など珍しくもないのだ。
 ——今日、家に帰ったら、お菓子を作ろう。
 唐突にそう思った。
 お菓子作りは、私のほとんど唯一の趣味だった。
 クラスの友だちには言っていない。彼女らに話題を提供したくないから。
 特に、お菓子作りというのは、私の大切な領域だから。
 踏み荒らされたくない。誰にも。

「ただいま」
 返事はない。
 家の中には誰もいない。父は仕事。母は、この時間、パートに出ている。
 通学カバンを放り出すなり台所に入り、材料と調理器具を引っ張り出した。着替える間も惜しい。制服の上にエプロンを着けて、作業開始。キッチンスケールで、きっちりと材料を量る。もう何度も作っているから、各材料の分量は、すっかり暗記してしまった。
 一昨日の夕食に出たカルボナーラのおかげで、充分な量の卵白が確保できていた。冷凍保存しておいた卵白を、今日、一網打尽に使用して、クロッカンを作るつもりだ。
 クロッカンとは、メレンゲ菓子の一種。卵白が都合できたときにだけ解禁されるレシピの一つだ。今日は、アーモンドをたっぷり入れて、ゴツゴツの岩みたいなクロッカンにするのだ。
 解凍した卵白をボウルにあけ、小気味よい唸り声を上げて回転するハンドミキサーでぐんぐんかき混ぜる。砂糖を何回かに分けて加えながらかき混ぜ続けると、やがて、ふわふわのメレンゲになっていく。メレンゲに角が立つようになったら、アーモンドプードルと薄力粉と砂糖をふるい入れる——
 お菓子を作るのは、好きだ。
 なんたって、成果が分かりやすい。食べてみて、おいしければ成功、まずければ失敗。この上なくシンプルじゃないか。上達度も、一目瞭然、一口瞭然。
 おいしいと嬉しいし楽しい。だから、一時期は「将来はお菓子を作るヒトになりたい」と考えたこともあった。でも、すぐに「自分には無理だ」と思い直した。なぜって、自分はレシピ本に書かれていることを淡々とこなしているだけだから。レシピに書かれている以外のことはやろうともしないし、思いつかない。応用力も独創性もない。誰かに指示されなければ何も成せない人間に、クリエイティブな職業は勤まらないだろう。
 お菓子作りは、あくまで趣味。いいカンジの肩書きを持つヒトが書いてくれた、いいカンジのレシピに従って、時たま気分が乗ったときに作ることができれば、それで充分だ。
 ざっくり混ぜたタネに、ローストしてから大まかに砕いたアーモンドを投入し、最後の一混ぜ。
 これをオーブンの天板に並べて、じっくり焼くこと二十五分——
 アーモンドがゴロゴロ入ったクロッカンの完成。
 焼きたてを、一つ、頬張ってみる。大粒のアーモンドが口の中で香ばしく弾け、さくさくメレンゲが舌の上で甘く溶けていく。
「うん、いい出来」
 思いのほか大量にできてしまった。でも、それなりに日保ちするはずだから、ちょっとずつ食べればいい。
 これだけの量を全部一人で食べきるには、何日くらい要るだろう。湿気やすいお菓子だから、念のため乾燥剤を添えて密閉容器に入れておくけど、日を置くと風味が損なわれてしまうなあ。
 甘いものが好きなカレシでもいれば、消費も早いのだろうけど。
 でも私は誰かのためにお菓子を作っているわけではないし。
 まぁいいか。

 私はしょっちゅうベランダに出ていたし、ミナモさんはしょっちゅうベランダでタバコを吸っていたから、私とミナモさんはしょっちゅう鉢合わせした。そのたびに、少し会話した。世間話とさえ言えないような、本当にささやかな、どうでもいい会話だった。

 クロッカンを作ったその日も、ベランダでミナモさんと鉢合わせした。
 仕切り越しに、ミナモさんが尋ねてきた。
「立ち入ったことを言うようだけど、君んちのお父さんとお母さんのケンカ、いつもすごいね」
 私はいつものようにてすりにもたれかかっていて、ミナモさんはいつものように折りたたみ椅子に座ってタバコをふかしていた。
「聞こえてるんだ……そうだよね。聞こえるよね」
「まあ、壁の厚いマンションではないからね」
 私の両親は、感情的になって怒鳴り合うようなケンカを、ここのところ頻繁にしていた。傍らで聞いている限り、怒鳴り合うきっかけも、その内容も、常にくだらないものだった。空虚で即興的だった。
 両親のケンカが始まると、私はいつもベランダに避難していた。自室は、ドアも壁も薄いので、居間の声が筒抜けになってしまう。外出する気力はない。ベランダに逃げこむしかないのだった。私がしょっちゅうベランダに出るということは、それだけ両親がしょっちゅうケンカしているということだった。
 そんな日々が続いたせいか、いつしか、何もなくてもベランダに出ることが習慣になっていた。
 ここが家の中で一番落ち着く場所になっていた。
「……うん。すごいよね。ここ最近は特にね。いつでもギスギスしていて、ホントにすごくどうでもいいことでケンカを始めるの」
「ふうん」
「ご迷惑おかけしてます」
「いや、いいけど。四六時中ってわけではないし」
 その言葉に引っかかるものを感じた。
「ミナモさんはもしかして四六時中部屋にいるの」
 ミナモさんは悪びれもせず「うん」と頷いた。
「働き盛りの若い男が室内で一日中ゴロゴロと何をしてるの」
「何って、本読んだり、撮り溜めてたビデオ観たり」
「えええ、やだあ、うっそォ。仕事は?」
「してない」
 もしかしたらそうじゃないかとは思っていたけど。
 いざ本人の口から聞くと、なんだか、軽く失望してしまう。
 大人には、やっぱり、社会の中で働いていてほしい。
「失業者かあ」
「失業したんじゃない。自分から辞めてやったんだ」
 失業者ではないか。
 私はフンと鼻を鳴らした。「いいわね。暇で」
「なんだ、イッチョマエに。君は忙しいのか」
「もちろんよ。高校生は気の休まるときがないものよ」
「ほおう。それはそれは」
「何よ」
「いやいや。お互い大変だなと思ってね」
 カラカラ……
 ガラス戸が開けられる音。
 今日のベランダタイムは終了、か。
 私はこっそりと物足りなさげな溜め息をついた。
 が。
「甘いものでも食べた?」
「えっ」
 不意をつかれて、私は急にどぎまぎし始めた。
 なんて答えればいいんだろう。
「なんか、おいしそうなにおいするんだよな。ふわふわと」
「甘いもの……た、食べた」
 ナッツがたっぷり入ったクロッカンを、
 サクサクなのに舌の上で甘くとろけるクロッカンを、
 さっきいくつか食べました。
 というか、作りました。
 ミナモさんは小さく笑った。
「やっぱりね」
 カラカラ、パタン。
 そんなににおうだろうか。
 あたふたと自分の髪や服の裾を鼻に押し付け、においを嗅いでみた。でも甘い香りなんかしなかった。自分のにおいは自分では分からないのだろうか。
 ミナモさんは、鼻がいいのかな?

 翌日も、私とミナモさんはベランダで鉢合わせした。
「そういえば、最近、蝉が鳴かなくなったね」
「まあもうだいぶ涼しいからな」
「唐突だけど、ミナモさんは指がキレイね」
「ホントに唐突だな」
「きっと、働いてないからね」
「それは関係ないんじゃないか。指の形なんて昔から変わってないよ」
「いいなあ。指がほっそりしてて長い人。羨ましい。私の指は丸っこくて短いから」
「それはそれでいいんじゃないかい」
 カラカラカラ、パタン。

 その翌日はハズレてしまったが。

 しかし、その次の日には鉢合わせできた。
「ミナモさんは、ちゃんとお洗濯できてる?」
「まあまあ」
「ちゃんとごはん食べてる?」
「そこそこ」
「ちゃんとお風呂入ってる?」
「なんだ、君は、さっきから。僕のオカンか」
「心配してあげてるんじゃない」
「そりゃどうも。でも、そっちこそ大丈夫なのか」
「何が?」
「いや、だから、ご両親」
 確かに、今日のケンカは一段とひどかった。
 私は、ずっと疑問に思っている。
 実の娘から見ても修復不可能に思えるほど劣悪な関係に陥っていながら、なぜ彼らは毎日律儀にここに帰ってきて、同じ釜の飯を食べ、ひとつ屋根の下で眠るのだろう、と。さっさと別れてしまえばいいのに、と。
 だって、これ以上はもう時間の無駄だ。
 それとも、まだ愛しているから毎日こうして怒鳴り合うのだろうか。
 ——そんなバカな。
 彼らはお互いに、自分のことは棚に上げて相手の欠点を執拗につつき、過去の些細な失敗をことさらに取沙汰して、どうにかして相手の心を折ろうとしていた。人間は憎しみ合えばこんなことまで言ってしまえるのだ、と思わず感心してしまうほど残酷な言葉の応酬を、飽きもせず繰り返していた。傍で聞いているほうが気が滅入った。
 だから、ベランダに逃げる。
 私の意識から閉め出す。
 ガラス戸をカラカラパタンと閉めて。
 この狭苦しい檻の中で。
 てすりにもたれて、街を見下ろしながら、溜め息をつく。
「こんなに仲が悪いのに離婚しないのは、私がいるからかな」
「は?」
「たとえばね、たとえばの話だよ、私がここから飛び降りて死ねば、二人は別れられるかな」
 仕切りの向こうに反応らしい反応はない。
 私は一人で喋り続けた。
「たとえば。私が死んだら、あの二人は私の死を哀しんでくれるし、お葬式を出してくれるし、泣いてくれると思うの。でもその後は、きっと、二人が一緒に暮らす理由がないね、二人でいても辛いことを思い出すだけだね、ってことになると思うの。一緒にいないほうがお互いのためだねって結論を、誰かに強要されることもなく、すんなり出せると思うの。私が死ねば、あの二人は手っ取り早く幸せになれるんじゃないかな……」
「どのみち君には関係ないことだ」
「えっ」
「だってそれは君が死んだという前提ありきの話だろう。君は死んでるんだろう。死人は残していった人間のことなんか気にしなくてよろしい」
「そうかしら……」
「そうだよ。だから、飛び降りるなよ」
「飛び降りないよ。たとえばの話って言ったでしょ」
「初めて会ったときな」
「え?」
「君とここで初めて会ったとき、虐待なのかとかネグレクトなのかとか適当なことを言ってお茶を濁していたけど、実のところを言うと、僕には、君が今にも飛び降りそうに見えたんだ。目の前で死なれちゃ困ると思ったから、不審者と間違えられる危険を冒してここから顔を出し、君に声をかけたわけだ」
 飛び降りそうに見えた? 私が?
 私、そんなにあからさまだった?
「……飛び降りないったら」
「うん。そうだったみたいだな。これからもそうであってくれ」
 カラカラカラ、パタン。

     ○●○

 今週の教室掃除はうちの班だった。清掃終盤、私は一人でゴミ捨てに出た。ゴミ捨て場で中身をぶちまけ、ずいぶん軽くなったゴミ箱を片手に下げて、帰宅に向けて足取りが軽くなっている生徒たちをかわしながら、教室に至る廊下をダラダラ歩いていると、後ろから呼び止められた。
 チセだった。
「私がいないところで、私とヨシマチ先輩とのことを面白おかしく言ってるでしょう」
 心臓がギュッと引き攣ったような気がした。
 条件反射的に嘘を言った。「言ってない」
「嘘。ダメだよ、ごまかしても。分かるんだから」
 私が知っている「女子の生態」に基づくと、通常、女子は自分が陰口を言われているという事実に直面したとしても、それを直視しようとしない。完全無視して耐えるか、「気のせいだ」「他の誰が言われても自分だけは言われない」「言われるようなことは何もしていない」と思いこもうとする。
 のだが。
 しかしチセは私をまっすぐ見据えて言う。
「ヒトのことあれこれ言うのがそんなに楽しい? 高校生にもなって、くだらないと思わないの? あんたたちのやってること、まるで小学生だよ」
 頬をほんのり赤くして言い募るチセ。
 彼女のその姿に、私の胸はなぜ震えた。
「何よ、集団でないと何もできないくせに」
「…………」
「ねえ、ちょっと、なんか言いなさいよ」
「……直接言ってくれて嬉しい」
「は?」
「陰でコソコソ言うんじゃなくて、面と向かって私に私の悪口言ってくれて、助かる」
 チセは気味悪そうに私を見た。「何それ。あんた、変」
 私はチセの目を見た。「私だって、陰でコソコソ言うの、いやだもん」
「そんなこと言って。あんただって参加するくせに」
「そりゃ、するよ。だってしないといろいろ後腐れがあるじゃない。面倒だよ。そうでなくても面倒なのに」
 するとチセは口を尖らせて俯いた。「まあ、分かるけどさ」
 チセが黙ったので、私は歩き始めた。
 今はまだ掃除の時間なのだ。私が戻らないと班のみんなも掃除を終わらせることができないから、私は何を措いてもひとまず教室に向かわねばならない。
 チセは、つかず離れずの距離を保って、ついてきた。
 そして、ボソボソした声で言った。「やっぱ、あんたって、変わってるよ」
「どういうふうに」
「周囲に合わせてはしゃいでるけど、実は何事にも冷めてて、全然興味なさそう」
「何それ」
「そう見える」
 第三者から、自分はどう見られているのか。
 あまり知りたくないような気もするけど、でも、気になる。
 ——私ってどう見られてる?
 取り立てて言及するほどのこともなく、いたって普通なのだろうか。人目を引くほど変わっているのだろうか。周囲とは違う雰囲気を発しているのだろうか。存在がかすむほど馴染んでいるのだろうか。甘いにおいを振りまいているのだろうか。今にも飛び降りそうに見えるのだろうか。
「それって、あからさまに?」
「いや。あんたはうまく擬態してる。ほとんどの娘は気づいてないと思う。でもそれはきっと他の娘が自分の擬態でいっぱいいっぱいだから」
「だからチセは他の誰でもなく私に話しかけたの?」
「え。どうかな。うん。そうかも」
「チセが気づいたのは、チセは擬態してないから?」
「そう、なのかな。自分で自分のことは分からない」
 チセとこんなにじっくり話したのは初めてだった。
 しかも、こんな話題で。
 なんだか、変なカンジ。
 私は階段をトントンと昇ったが、チセは階段の前で足を止めた。彼女は掃除当番ではないし、それに、通学カバンをすでに手にしている。わざわざ教室に戻らなくても、もうこのまま帰ってしまえるのだ。
 チセは私を呼び止めて、念押しするように言った。
「もう一つ、他の娘とあんたの違うところは、あんたは何にも執着しなさそう、というところ。他の娘は、逆に、執着しまくってるからね。いろいろなものに」
「そうかな」
「そうだよ」
 いいや。
 そんなことない。
 私の執着は深い。

 この日も、私とミナモさんはベランダで鉢合わせした。
 仕切りの向こうを覗いて、私は顔をしかめてみせた。「また吸ってる」
「僕ぁ、これでも節煙してるほうだよ。一日に三本以上吸わないようにしてるし」
「本数は関係ないよ。タバコばっか吸ってるとね、肺が真っ黒になっちゃうのよ。知ってる? 喫煙者の肺ってすごく汚いんだから」
 保健体育の教科書に載っていた参考写真を思い出す。喫煙者の肺と非喫煙者の肺が並んでいて、その違いは一目瞭然だった。非喫煙者の肺はムチムチのピンク。喫煙者の肺はボソボソのドロドロで、まだらに黒い。グロテスクで生々しくて、インパクトの強い二枚の写真。
 しかしミナモさんはしれっと答えた。「世の中、キレイなもののほうが少ないよ。だから尊ばれるんだろ」
 うわあ。キレイ事。
 と、いつものノリで憎まれ口を叩こうとした。
 しかし、やめておいた。
 その通りかもしれない、と思ったので。
 ——世の中、キレイなもののほうが少ない。
 その言葉を心の中で唱えながら、眼下に広がる街を眺めた。
 駅の方角から電車の音の混じる風が吹いてきた。
 最近、風が急に冷たくなったような気がする。
「世界で一番汚いものってなんだと思う?」
 仕切りの向こうから問いかけられた。
 なんだろう。私は首をかしげた。キレイなもののほうが少ないならこの世の中は汚いものだらけだろう。そんな中で特に汚いものというと……
「ヒトの心、とか」
 言うのと同時に嘲笑が浮かんだ。ヒトの心、だってさ。クサいな。友だちの輪の中で言っていたらきっと冷やかされるフレーズだ。
 しかしミナモさんはバカにしなかった。「いい答えだ」
 ちょっと嬉しい。「そう?」
「でも、ハズレ」
「なんだ。じゃあ、正解は?」
「カネ」
 これまたずいぶん平凡な解だ。
 少し拍子抜けしてしまった。「それ、比喩で言ってる?」
「そう取ってもいい。でも、実際にも、かなりばっちいものだ」
「実際?」
「うん。カネっていうのは、大抵の場合、一箇所に留まることなく巡り回っているものだろう。何人も何人も何人も、数え切れないくらいの手に触られていく。どんな人間がどんな手で触ったか分からないじゃないか。便所した直後の手で触れたかもしれない。ゴミをあさった手で触れたかもしれない。血のついた手で触れたかもしれない。そうでなくても人間の手というのは菌だらけだ。ヒトの手から手へと渡っていくカネってものは、つまり、どうしたって、おそろしく汚くなるものなんだよ」
 なーんだ。汚いって、そういう意味か。
 趣に欠けるなあ。
 まあ、ミナモさんにロマンチシズムを期待するのが間違っているのかもね。
 私は軽く溜め息をついてみせた。「そりゃね、確かにそうかもしれないけど、でも、そんなのいちいち気にしてられないよ」
「そうかね」
「うん。私は気にしないよ。だって、おカネに触らなきゃ、何も買えないんだから」
「そうだな。君は正しい」
 仕切りの向こうで、ミナモさんが立ち上がる気配がした。
「ふあーあ」
 間延びしたあくび。
 きっと背伸びもしているだろう。あの長い手や足をぐぐーっと伸ばして、子どもみたいに。そういう気配がする。
 あくびは伝染するものだ。
 口の奥がむずむずして、こらえきれず、私も、声を出さないようこっそり、あくびした。すると。
「今、あくびした?」
 そう言ったミナモさんの声は笑みを含んでいた。
 私は面喰らった。「何よ」
「なんだ。ホントにしたのか」
「あっ、カマかけたのね」
「難しい言い回し知ってるなあ」
 カラカラカラ、パタン。
 いつものように戸を開閉する音がして、ミナモさんは部屋の中に入ってしまった。
 私はふてくされててすりにもたれた。でも顔はにやけている。
 私はこの関係を楽しんでいた。
 隣に若い男が越してきたことや、その若い男と時々ベランダ越しに会話していることを、私は誰にも言わなかった。学校の友だちはもちろん、同じ部屋に住む親にさえ言わなかった。言ったらなんだかややこしいことになるような気がしたのだ。まったりと穏やかなこの時間が、まるごと奪われるような気がしたのだ。
 秘密の関係ってのが、なんか、いいよね。
 ミナモさんのことは、誰に訊かれたって言わないつもりだった。
 お菓子作りと同じだ。誰にも踏み荒らされたくない、私の領域。

 だから、警察と名乗る二人組のおじさんが訪ねてきて、ミナモさんと分かる写真を出しながら「この付近でこういう男を見かけませんでしたか」と尋ねてきても、そ知らぬ顔で「見てません」と言うことができた。

 玄関の呼び鈴が鳴ったのは、学校から帰ってすぐ、部屋着に着替え終えるか終えないかというタイミングだった。着古したTシャツにジャージという、この上なくくつろいだ格好で玄関に出ると、二人組のおじさんに、警察手帳と一葉の写真を提示されたのだ。
「この付近でこういう男を見かけませんでしたか」
「見てません」
 このヒト、何をしたんですか。
 どうして警察が捜してるんですか。
 そう訊きたかった。でも、訊いたらきっと怪しまれてしまうと思った。あちらは捜査のプロで、こちらはただの高校生だ。隠そうとするほど態度に不自然さが出て、悟られなくていいことまで悟られてしまうに違いない。現に今、心臓はバクバク鳴っているし冷や汗は滲んでいるし、私はすでに相当動揺しているのだ。余計なことは言わないほうがいい。そう思い、口を噤んでいた。大人に対して無愛想な態度を取る高校生なんてザラにいるのだから、こうしているほうが、いくらかマシなはず。
 刑事さんが去った後、ドアを閉めると、施錠するより何より先に、すぐさまドアに耳をくっつけた。刑事さんの足音がドアの前を離れ、階段のほうに移動していくのが分かった。
 このマンションの五階には、四世帯が入っている。私の部屋は五〇四号室で、角部屋だ。エレベーターホールのほうから順に回っていったなら、他の三部屋はもう訪ねてしまったはずだ。
 五〇三号室も訪ねたのだろうか?
 そうだとしても、ミナモさんは顔を出していないに違いないが。
 ミナモじいさんが応対したのだろうか?
 そういえば、ミナモさんったら、初対面のとき、私に「通報する?」とか言って困らせたくせに、通報されて困るのは自分のほうじゃないの……
 ミナモさんは、今、部屋にいるのだろうか? いるとしたら、あの刑事さんたちを居留守でやりすごしたのだろうか? 私が刑事さんたちの応対をしたことや、ミナモさんの写真を見せられたことを、ミナモさんは気づいているのだろうか? 私が刑事さんにミナモさんのことを話したと思って不安になってやしないだろうか?
 ——私、ミナモさんのこと知ってたけど、刑事さんたちには何も言わなかったよ。私、誰にも何も言わない。これからも言わない。だから心配しないで。
 そう伝えたかった。
 しばらくしてから、廊下に誰もいないことを見計らって、五〇三号室のチャイムを押した。しかし反応はなかった。五〇四号室に戻り、ベランダから身を乗り出して五〇三号室を覗いた。が、電気はついておらず、ヒトの気配もしなかった。
 いない? 出かけているのかな? それとも、居留守?
 途方に暮れながら、部屋に戻る。

 警察に追われているなんて。
 彼は一体何をしたのだろう。


後編へつづく



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