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この世ならぬ色/講談社BOX『夜宵』より


 2011年に講談社BOXさんから刊行された「細蟹の市」シリーズの一冊目『夜宵』ですが、2013年に文庫化した際「この世ならぬ色」という章を削らせてもらいました。特に深い意味はなくて、この章がなくても物語が成立すること、また、少しボリュームを減らしたほうが読みやすいのではという判断があったことから、編集さんと協議の上、削りました。
 文庫版には掲載されておらず、講談社BOX版も重版する可能性はないため、この章については、新たに読者さんに読まれる機会は少ないと思われます。それならいっそ私(作者)の手元で公開してしまおう、と思った次第です。
 この件について快く承諾してくださった講談社文庫担当さんに感謝いたします。

そんな人はいないと思いますが
転載・複製・複写・転売など、全面的に禁止です。
無料公開しますが著作権は柴村仁にあります。
よろしくね!

それではどうぞ





この世ならぬ色




 たとえばの話。
 明日自分が死ぬとしても、私はキャンバスに絵の具を重ねているだろう。
 一時間後に世界が滅ぶとしても、私は絵の具をチューブから押し出して、混ぜたり溶かしたりしているだろう。
 私は取り憑かれているのだ。
〈それ〉に触れていられさえすれば、金がなくとも食べるものがなくとも着るものがなくとも、私は安定しているのだ。幸せなのだと言い換えてもいいかもしれない。〈それ〉こそが私の存在を揺るぎないものするのであり、〈それ〉がなければ私は自己を保っていられない。
〈それ〉とは、絵を描くこと、ではない。
〈色〉だ。
 私は〈色〉に取り憑かれている。

 細蟹の市。
 石骨地区の秋祭りが終わってから大晦日までの数週間、湖上の小島で、毎夜毎夜の悪夢のように立つ異形の市。
 裏世界の商人や怪しげな旗師、えげつない好事家や貪欲なコレクターなどが集まって、交々と売ったり買ったりするのだという。どんなものでも売っているのだという。売っていないものはないのだという。
 では。
 そこになら、あるいは。
 私の求めるものも、あるのではないか。

 その夜、私は愛用の一眼レフを携え、粗末な浮橋を渡った。
 林の中の不気味な一本道を辿り、やがて現れたゴーストタウンをしばらく進むと、賑わしく市の立つ区域に至った。思いのほか大勢が行き交っていた。ほとんどの者が仮面をつけるなり布を巻きつけるなりして顔を隠していた。やはり、ただならぬ雰囲気があった。一方で、市というよりは祭りというほうがよさそうな、浮かれた雰囲気もあった。いたるところに赤い提灯がさげられているのも独特だった。突如坂になったり階段になったり幅が狭くなったり広くなったりする油断のならない目抜き通りには、それこそ様々な店が軒を連ねていた。一つとして同じような店はなかった。無数の鳥籠が吊られた店。店舗いっぱいに樽や麻袋を並べて謎のスパイスを量り売りする店。何かの干物を人が立ち入る隙間もないほどみっしりとぶらさげる店。美味そうな甘いにおいが道にまで漂い出す店の中では、猫の額ほどしかないスペースにぎっしりと客が座っており、朦々たる湯気の中でみんながみんな一心不乱に何かを食べていた。大道芸人が辻ごとに立ち、人の多さや窮屈さを気にもせず、無数のボールを手先で操ったり炎を吐いたりしていた。首に紐を結わえられた小猿は、人間が着るような服を着て、猿回しの言うなりに何度も宙返りしていた。
 初めて目にする細蟹の市は、それ自体が一つの生物のように、有機的で流動的だった。
 複雑で濃密だった。
 人肌のにおいのする迷宮だった。
 私はひそかに興奮した。
 これはいい。面白い。街にいたのでは、こんなものにはお目にかかれない。いいインスピレーションを与えてもらえそうだ。創作意欲が刺激される。私はカメラを構え、夢中でシャッターを切った。ヴェネツィアのマスケラを髣髴とさせる壮麗な仮面。街中ではもう見かけないような棒手振の行商人。店と店の間にできたわずかな隙間に頭を突っこんで死体のように横たわる酔っ払い。風俗店の看板を掲げたサンドイッチマン。我が物顔で通りを横断する薄汚れた山羊。客をさがしてうろつく駕籠舁き。出自も属性もてんでんばらばらであるはずのものたちは、しかし赤い提灯のぼんやりしたあかりの中で渾然一体となり、違和感なく共存して蠢き合っていた。
 人の流れを縫って、女が一人、私に近づいてきた。立襟のエスニックな服はアオザイに似ていた。寄木細工の箱を抱えていた。
 いい香りがする。
 女は私のそばまで来ると、頭に引っかけていたベールを払って顔を晒した。今まで見たこともないような美しい女だった。腰まで伸びる髪は、提灯のあかりを受けて銀色に輝くほどに豊かな漆黒。匂い立つような白い柔肌。悩ましく潤んだ瞳は、私でなくても見つめずにはいられないだろう。
 女は幼げな仕種で私の顔を覗きこみ、花びらのような唇を甘く動かした。
「私のこと覚えてる?」
 覚えてるも何も、今初めて会ったのだ。名も知らない。それは間違いない。こんな美人、一度見たら忘れない。彼女はおそらく人違いをしている——しかし私はその真実を告げることを躊躇った。なぜって、ここでバカ正直に「人違いです」などと言ったら、この女は私から離れていってしまう。運よく巡り会えたこの美しい女をおめおめと逃すことは、とても惜しいことのような気がした。
 だから嘘を言った。
「覚えてる。もちろんだ、覚えてる」
「本当? よかった」
 女は微笑んだ。黒雲が割れて陽光が射しこむような、その場の空気を一瞬にして変える力を持つ、極上の笑顔だった。胸が熱くなった。この笑顔のためならなんでもできそうな気がした。
 女は、体いっぱいに懐かしさを滲ませながら、私にすり寄ってきた。
「お変わりなくて」
「ああ、元気だよ」
「病気などしてないかしら」
「健康なだけが取り柄さ」
「よかった」
 女はごく自然に私の手を取った。ほっそりと柔らかな手だった。
「こっちよ。ねえ、あなた。こっちへ来て」
 女はもう、本当に親しい者だけに晒す裸の声を、無防備に投げかけてくるのだった。彼女の安心しきった様子のせいで、私もすっかりその気になってしまい、彼女に手を引かれるまま歩いた。それはあまりに自然な流れだったから、私までも、数年来の恋人と歩いているような気がしてきた。
 彼女が身動きするたび、なんとも言えない高雅な芳香が私の鼻孔をくすぐった。
 少しばかり坂をのぼって、広場に出る。
「座りましょう。座ってお喋りしましょう。ねえ、あれをご覧になって」
 広場の片隅に四阿のようなものがあった。
 粗末な屋根の下では、鶏がらのように痩せた老婆が、呪術師を思わせる手つきで大きな鍋をかき回していた。その隣では、同じように痩せた老人が、何か木の実のようなものを擂鉢で粉末にして、ときどき思い出したように鍋の中に入れていた。
「あれはなんだ」
「お酒です。お飲みになりますでしょ。いただいてきましょうね」
 いかにも甲斐甲斐しく言って、女はいそいそと老婆の前に立った。老婆は無表情のまま杓を動かし、注ぎ口のついた器に酒を満たして、杯と共に女に差し出した。女はそれを受け取ると、私のもとへ戻った。
 白く濁った酒からは、甘やかな香気が立ち昇っていた。
「どぶろくかな。うまいのかね」
「さあ、どうかしら。お飲みになるといいわ」
 私と女は連れ立って広場の一角に設えられた小さな木のテーブルに掛けた。テーブルと言っても、木箱を伏せただけのような、ひどく粗末なものだった。ささくれ立っていたり傾いたりしていて、使い勝手は悪い。周囲には同じようなテーブルがいくつもあり、お面をつけた者たちがこれを囲んで、酒を飲み交わして談笑していたり、顔を伏せて寝ていたり、麻雀らしきものをしていたりした。
 私の正面に座った女は、しなやかな手つきで私の杯になみなみと酒を注いだ。
「お飲みになって」
 私は上機嫌で杯を掴むと、一気に飲んだ。
 香りそのままに甘やかで、果実酒のように口当たりのいい酒だった。しかし、えらく強い。食道から胃の腑にかけて、かっと熱くなった。
 女も、杯に口をつけた。
「おいしいお酒ですわね」
 私は酒に濡れた口元を拭った。
「まあまあだね」
 強い酒が急に入ったためか、荒っぽい気分になっており、ちょっと天邪鬼なことを言った。本当は、こんな美味い酒は滅多に飲めないと思っていた。
 私の無意味な見栄など見抜いているのだろうか。女は微笑みを絶やさなかった。
「でも飲みたいでしょう」
 私は注がれるまま飲んだ。
 私たちが座るすぐそばを、芸人らしき一行が練り歩いていった。
 七人ばかりの一行で、みんな、毛羽立ったぼろぼろの外套を肩にかけ、白鷺の面をつけている。列の先頭に立つ者は、鈴のついた槍を掲げてシャンシャン鳴らしていた。他の者は、楽器や、錘が金細工の香炉になっている振り子を手にしていた。

   とんからり
   とんからり

 一行は奇妙な節の歌を口ずさみながらふらふらと舞い、篝火に近寄ったり離れたりしながら、どこへともなく歩いていった。
 それを見送ってしまってから、後悔した。
「しまった。今の、写真を撮っておけばよかった」
「写真?」
「ああ」
 私はテーブルの上に置いた一眼レフをこつんとつついた。
「今夜は、いい写真がいっぱい撮れた。細蟹の市がこんなに面白いものだったなんて知らなかったよ。こんなことなら、尻込みせずにもっと前から来るんだったな。現像が楽しみだ。きっと仕事のいい資料になるだろう」
「資料?」
「ああ、絵を描くための——」
 言ってしまってから、しまった、と身をすくませた。つい調子に乗って、自分のことを喋ってしまった。これで、私が実は女の知り合いでないことがばれてしまっただろう……
 しかし、女は微笑んだ。
「初めて仕事のお話してくださったわね」
「えっ」
「絵を描くお仕事なさってるのね」
「……あ、ああ、そうなんだ」
 助かった。彼女の男は、彼女に、自分の仕事のことを話していなかったらしい。私としては都合がよいが、それにしても、自分の女にも言えない職業とはどのようなものなのだろう。きっと、ろくでもないものに違いない……
「絵描きさんなのね。素敵ね。あなたらしいわ。あなたのことが知れて嬉しいわ」
 ほっと胸を撫で下ろす。
 そのせいか、私の杯を空けるペースは速くなった。頬が赤らみ、目が据わっていくのが、自分でもわかった。
 女は小さく笑った。
「可愛らしい人」
 私も笑った。
 この上なくいい気分だった。
「それじゃあ、君、私の絵のモデルになってくれるかい」
「いいの」
「勿論だ」
「素敵」
 実のところ、私は普段あまり人物画をやらない。しかし、この女は別だ。こんなに美しい女がモデルに来てくれるならいくらでも素晴らしいものが描ける気がする。
 取りとめもない世間話をいくらかした後、ふと女が訊いた。
「あなた今夜この市にはどんなご用でいらしたの」
「え?」
「何かを買いにいらしたのじゃないの」
 そうだ。
 そうだった。
 忘れるところだった。
「私は」
 杯をテーブルに置いた。
「私は、〈色〉をさがしに来た」
「色?」
「そう。と言っても、ただの〈色〉じゃない。画材屋に並べられているようなものではない、特別な〈色〉を、選ばれた者にしか扱えないような〈色〉を……さがしている。なんでも売っているというこの細蟹の市になら、そのものとはいかなくとも、それに近いようなものが、あるいはヒントになるようなものが、あるのではないかと、そう思って。それでこうしてわざわざ足を運んだわけだが……」
 私はそこでぷっと吹き出した。
 自分で言ってて可笑しくなってしまったのだ。
「おかしいだろう、こんな話。我ながらどうかしてる。自分で言ってて笑えるくらいだ。君も、笑ってくれていいんだよ」
「いいえ。笑ったりしませんわ」
 女の顔はごく真剣だった。あまりにも真剣だったから、つられて私の笑いも引っこんでしまった。
「私、あなたが言うような〈色〉に、心当たりがあるかもしれません」
 こんなうまい話があるだろうか。
 さがしている本人の私でさえそれがどういうものなのかはっきり掴めていない幻のような代物を、今夜初めて会った女が知っている、などということが。
「それは、〈この世ならぬ色〉と呼ばれているのですが」

 この世ならぬ色。

 その名称を耳にした瞬間、どういうわけか、私がさがしていたものはまさにそれだったのではないかという気がしてきた。
 なんという巡り合わせだろう。
 これは運命なのだろうか。
「そんなものが、本当に……あるのかい」
「本当かどうかまでは、ごめんなさい、まだわかりません。私も、話を聞いたことがあるだけだから。ほら、こういう、なんでもありの市ですから。話ばかりの羊頭狗肉、なんていうことも、少なからずあるんですわ。この市では、真贋の判断は自己責任なのです」
「ああ、そう、そうだろうね、しかし……」
 気になる。居ても立ってもいられないくらいに。存在するのならば見てみたい。あわよくば手に入れたい。〈この世ならぬ色〉とは、はたしてどのようなものなのか……
 私の気持ちを察したのだろうか、女は力強く頷いた。
「あなたさえよければ、私、確かめてきますわ」
「え?」
「〈この世ならぬ色〉が本当に存在するのかどうか。存在するなら、それはどのようなもので、どうすれば手に入るのか。私、この市の有力者に、少しばかり、顔が利くんです。その方なら何かご存知のはず。それで、もし本当に存在するなら、私、あなたをそこまでご案内いたしますわ」
「本当かい」
「ええ」
 女は嬉しそうに笑った。その笑顔もまた蕩けんばかりに魅力的なのだった。この女は私に心底惚れているのだということがその笑顔でわかる。
「あなたのためなら私なんでもしますわ」
「嬉しいよ」
「でも少しお時間いただかないと。ねえ、あなた。私を待っていてくださる?」
「勿論だ」
「それじゃあ、早速……ああ、でも、こんなところにあなた一人を放っていくのは忍びないですわ」
 なんとも可愛らしいことを言う。
 私なら平気だよ、と答えようとしたとき、すぐそばから甲走った笑い声が上がった。
 じゃれ合う仔猫のようにもつれあいながら歩いてきた女が二人。二人とも、てろてろ光る素材で織られたキッチュなアイマスクをつけていた。明らかに深酔いしている様子の彼女たちは、私と目が合うなり、あさってのほうを指差した。
「あっちで遊びましょう」
 言った後で、何が面白いのか、けらけら笑ってはしゃぎ合う。
 女たちが指差した先には、壁が取り払われた掘っ立て小屋があり、人だかりができていて、何かの催し物をやっているようだった。
 楽しそうだ。
 すると女は、私に顔を寄せ、甘い囁き声で、嬉々として提案した。
「そうよ。あなた。この娘たちと遊んでらして」
「えっ」
「ただ待つだけの時間というものは長く辛く感じられるもの。でも誰かと楽しく遊んでいればあっという間に時間は経ってしまうでしょう」
「しかし」
「私なら大丈夫。あなたがどこにいてもきっと見つけ出せます」
 女はまるで母親のように優しげな笑みを浮かべ、懐から紙幣を数枚取り出すと、私の掌にそっと押しやった。その紙幣には彼女の体の香りが移っていた。そしてほんのり温かかった。
「行ってご覧になるといいわ」
 私は、女と紙幣を代わるがわる見つめた。
 なんとよくできた女だろう。
 私は頷き、芳しい紙幣を掴んで立ち上がった。
 途端、よろりとよろけてしまった。
 酔いが足に来ている。
 あんな強い酒を何杯もあおったのだから当然だ。
 女は苦笑した。「大丈夫?」
「大丈夫だ」
「差し出口いたしました」
「うん」
「行ってご覧になるといいわ」
「うん。行ってみる。君のほうも、頑張るんだよ」
「ええ。お任せください。それじゃあ、あなた、また後でね」

 熱狂する人々の視線の先で行なわれていたのは、闘鶏だった。畳で囲われた土俵の中で、驚くほど巨大な雄鶏が、怨霊のような声で鳴き、全身の毛を逆立て、相手に飛びかかる。血が舞い、羽毛が散る。そのたびに獰猛な興奮が観客たちを燃えたぎらせる。
 私はいくつかある土俵のうちの一つに近づいた。闘鶏を見るのは初めてだったので興味があった。
 しかし、よくよく見ると、土俵の中にいるのは、どうも、軍鶏ではないようだ。全体的なフォルムは軍鶏に似ているのだが、不自然なほどに大きいし、それに、頭部が猿か人間のようにつるんとしている。霊長類っぽい目と鼻と口があり、嘴がない。だから嘴で突き合うのではなく、砥いで尖らせたような門歯と犬歯で、噛みつき合っている。他の土俵にいるのもすべて同じような謎の生き物だった。人間並みに表情があるようで、勝利したものは壊れたおもちゃのようにゲラゲラ笑っていたし、敵の威嚇に怯えたものはヒイヒイと情けない声を上げて泣いていた。
 なんだろうこれは。
 目の前で繰り広げられていることなのに、なんだか夢の中の出来事のようにも思えた。ぼんやり見ていると、肩に、熱を帯びた分厚い手が乗せられた。
「賭けろよ」
 豚のマスクをかぶった男に、にやついた声と息を吹きかけられた。鳥肌の立った私はその手を振りほどき、逃げるように立ち去った。私をここに誘ったアイマスクの女たちとは、人ごみに入った途端にはぐれていた。でも彼女たちのことなんてもうどうでもよくなっていた。
 酔いのせいか、どうにもかったるい。
 やはりじっとしていよう、と思った。
 座って女を待とう。
 先程のテーブルまで戻ろう。
 私は、謎の生き物が死闘を繰り広げる賭場を離れ、来た道を戻った。
 なんだか心細かった。周りの人はみんな知らない人。彼らに共通しているのは、ただ、炎と酒にのぼせているということだけ。酒臭い。焦臭い。人臭い。私は圧倒的な質量の中に溺れかけていた。
 あの木のテーブルが並んでいる場所をさがすが、どうしても見つからない。この広場の中にあったはずなのに。ああ、そういえば、酒を供していた粗末な四阿も見当たらない。
 さては、あの女は私の幻だったか……
 そうかもしれない。
 だって、あんなに美しく聡明な女、現実にいるはずがない。ましてや、そんな女が私を恋人と間違えて懐っこくすりよってきたり、〈この世ならぬ色〉を手に入れるために奔走してくれたり——そんな都合のいい話、あるはずがない。あれは私の見た夢だったのだ。きっとそうだ。私は酔っているのだ。無理やり納得しようとした。それは切なく哀しいことだった。なんと驚くべきことに、私はあの短時間のうちに彼女に恋をしてしまっていたのだ。夢の中の登場人物に。とんだ笑い話だ。
 ぼんやり立ち尽くしていても仕方ないので、私はふらふらと歩き出し、再び人の流れに合流した。
 宛も無く歩くうちに、なんだか不安になってきた。
 理由の無い漠然とした不安。
 立ち止まり、迷子のような心持であたりを見わたす。私のそばを過ぎ去っていくのはいずれも仮面だ。仮面だ。仮面だ。私はアンソールのあのグロテスクな自画像の中に紛れこんでしまったのか。歩みの遅い私の背中が、急ぐ誰かの肩に強く押された。私は人の流れからあっさりと弾き飛ばされた。もともと覚束無い足取りだったのでうまく制御できず、結局、誰もいない空間までよろよろと足が行った。古い小屋のささくれ立った木の扉に手をつき、吐いた。吐いてしまうと胃のあたりがずいぶん楽になった。そばにあった甕から水を手ですくい、酸っぱい口を漱ぐ。
「あんちゃん、大丈夫か」
 声をかけてくれた誰かに、手を振って答える。
 心地よくもある気だるさが全身を浸していた。まるでたくさん泣いた後のようだった。でもこの数年、泣いた記憶はなかったから、なんだか懐かしい感覚だった。最後に泣いたのはいつだったろう……
 ふとひどく疲労を感じ、まともに立っていられない気がして、壁に背を預けた。
 私の酒気に澱んだ目には、何もかもが歪んで曲がってぼやけて見えた。
 篝火は凶暴なまでに明るく、濃く立ち昇る煙は黒かったり白かったり。人々は何がおかしいのか笑ってばかり。得体の知れないものを美味そうに食っている。濁った酒を飲んでいる。博打を打っている。踊っている。笑っている。怒鳴っている。山羊が横切る。香具師が口上を垂れる。小猿が宙返り。大道芸人が口から火を噴く。火が逆巻いている。熱い。笑っている。小猿が宙返り。回っている。すべてが回っている。くるくるくる。回っている。もつれあって溶け合って、別の何かになろうとしている。

 日本語において、色名がそのまま形容詞として用いられるのは〈赤〉〈黒〉〈白〉〈青〉の四語に限られる。つまり〈赤い〉〈黒い〉〈白い〉〈青い〉である。その他の色を形容詞として用いる場合には、たとえば〈黄色い〉〈茶色い〉のように、〈色〉という一字を挟まなくてはならない。
 これはなぜか。結論らしきものを得るにはまずアカ・クロ・シロ・アヲそれぞれのプロフィールを確認しなくてはならない。
 まずアカ。主に血のような色のことを示すが、緋色・紅色・朱色なども含まれていることが多い。多く、クロと対立する。次にクロ。墨のような色。無彩色、明度ゼロの色。アカが〈明ける〉〈明るい〉から生じたのと対を成し、〈暮れる〉〈暗い〉を語源と考えるのが有力。シロ。可視光線をあらゆる波長にわたって一様に反射することによって見える色。明るくて特別の色がないと感じられる状態。雪のような色。色というよりもむしろ色の脱けた状態を表したものと言っていいかもしれない。そしてアヲ。現在アヲと言えば、一般的には晴れた空のような色を示すが、本来は青・緑・藍から黒と白の中間(灰色)まで、かなりの広範囲を示す色名であり、時には黒・白をも示した。これは、アヲが古くはシロと対立する語であったためだ。シロとは〈顕(はっきりしたもの)〉の状態であり、この場合、アヲは〈漠(ぼんやりしたもの)〉の状態と位置づけられた。アヲの語源は空の色を見ることと関連させる〈仰ぐ〉や、〈藍〉と同根、ということがよく言われているが、アヲが〈漠〉の状態を表す語であるなら、語源は〈淡〉〈泡〉あたりが適当であるように思われる。
 つまり。古代日本においてアカ・クロ・シロ・アヲは、特定の色を示す名詞というよりは、明と暗、顕と漠、というふうに、光の状態を表した言葉にすぎなかった。前者は明度を、後者は彩度を、その概念は当時ないながらも感覚的に表していたものと思われる。
 成り立ちからして〈色〉という概念に依存しておらず、それ自体が光のあり方を表す言葉=状態を示す言葉だったからこそ、〈赤〉〈黒〉〈白〉〈青〉の四色は、形容詞になりえたのだろう。また、後世多く生み出された〈赤〉〈黒〉〈白〉〈青〉以外の色の名前は、すべて、その色を宿した物体、染料や顔料、染色法などに由来している。まず、具体的な物質が先に存在しているという点からして〈赤〉〈黒〉〈白〉〈青〉とは出自が異なる。そのため、これらは〈色〉という一字を伴っていないと、〈色〉を表す言葉にはなりえないのだ。
 日本人にとって〈赤〉〈黒〉〈白〉〈青〉の概念は、きわめて根源的・生理的な視覚情報を示すものであると言える。一方で、古代日本の色彩感覚というのは、ひどく大雑把であったとも言える。
 万葉集や記紀などには、アカ・クロ・シロ・アヲ以外にも色名と思しき語句——〈緑〉や〈丹〉などが見られるものの、基本的に、広く流通した固有の色名としては、やはりアカ・クロ・シロ・アヲの四つがあるのみだった。
 文化意識の低い古代にあって、実生活の中に色を取り入れるという行為は必要性の外であり、またその技術もなかった。色に対する関心が稀薄になり、言語的にも大雑把になったのも当然と言える。しかし当時はそれで事足りていたのだろうし、そもそも存在しないものなのだから、不満を感じることもなかったはずだ。

 時代によって〈色〉の観念は変わる。
 では。
 もしかしたら、今も。
 まだ見ぬ〈色〉があるのではないか。
 すぐそこに、手を伸ばしたら届くような近くにあるのではないか。私たちのほうがその〈色〉を見つける目を持っていないだけなのではないか。時代がその〈色〉を見つける文化レベルに達していないだけなのではないか。
 見えていないだけなのだとすれば、そんなものはないなどと、誰に断言できるだろう。

 私は〈色〉をさがしている。
 ただの〈色〉ではない。
 この世の誰もまだ見たことがないような。まさかこんな〈色〉がこの世にあったのかと誰もが驚くような。既成概念をぶち壊し、見る者すべてをあっと言わせるような。
 そんな〈色〉を、さがしている……

 ばちん!
 頬を強かに叩かれた。
 びっくりして目を開けると、黒衣のような格好をした者が、地面に寝そべっている私を見下ろしていた。
「起きろ」
 舟の櫂のような形の、長く平たい杖を手にしていた。この市にいるほとんどの者がそうであるように、彼もまた面をつけていた。仄白い翁の面——能で使われる翁面とは別物だ。表情が違うし、ヒゲがない。意図的に外しているのだろうか。あるいは、これは翁を模しているわけではないのか。
「な、何を、誰だ、君は」
「私は赤腹衆のサザ。おまえ、面は?」
「めん?」
「なぜ面をつけていない」
「なぜって」
「最初からつけていないのか。どこかで落としたというわけではないんだな」
「そうだけど」
「ではおまえをマドウジと見做す」
「は、マドウ?……」
「行くぞ。立て」
 サザに胸座を掴まれ、ほとんど引っ張り上げられるようにして身を起こしたところで、今さらのように腹が立ってきた。
「放せ」
 私は彼の腕を乱暴に振りほどいた。
 しかしサザは気を悪くしたふうでもなく、ぽつんと呟いた。
「このにおい」
「あ?」
「おまえ、白檀に会ったな」
「ビャク?……」
「女だ。寄木細工の箱を抱えた年増」
 彼のその一言で、朦朧としていた頭がばちっと覚醒した。酔いもどこかへ吹っ飛んだ。
「知ってるのか」
「私が訊いているんだがな」
「そうか……」私は胸を撫で下ろした。「私の他にも、知っている人がいた……そうか。実在する女だったんだな。そうか。よかった……」
「なんだ。夢を見たとでも思っていたのか」
「ああ、そう、そうなんだ、実は。ははは……だって、君、考えてもみなよ、あれほどまでに美しい女が動いて喋って笑っているなんて、ちょっとした奇跡じゃないか、そうだろ……そうか。あの女は白檀という名なのか」
「名など知らん。白檀の香りがするからそう呼ばれているだけだ」
 そういえば、私は彼女からもらった紙幣を一枚も使っていなかった。彼女の香りを宿した紙幣は、私の上着のポケットの中で、匂い袋のように芳香を放っているのに違いない。私はすでに鼻が慣れてしまっていて、その香りがわからなくなっているが。
 彼女が身動きするたび爽やかに漂い出した、くらくらするようなあの芳香——あれは、白檀だったのか。
「名まで美しい」
 私が夢見心地で溜め息をつく傍らで、サザは心底呆れたように溜め息をついた。
「あんな者に心を奪われるな。思う壺だぞ」
「しかしあれは、心を奪われても仕方のない美しさだ」
「わかってないな。この細蟹の市で素顔を晒して歩いているヤツは、よっぽどのバカかマドウジかのどっちかだというのに」
 じわりと怒りを覚えた。
 サザの物言いに、侮蔑の響きを感じたのだ。
 そういえばさっきから彼には失礼なことばかりされている。私に対する態度といい、あの美しい白檀を年増呼ばわりしたことといい——彼は遠慮や礼儀といったものに少々疎いのではないか。
 自然、私の口調も棘々しいものになった。
「彼女がバカだと言いたいのか」
「そうじゃない。逆だ。素顔ではないと言っている」
「素顔でなけりゃなんなんだ。整形か?」
「そんな話はしていない」
「じゃあ」
「化けているのさ」
「はあ?」
「おまえ好みの女に」
「まさか」
「あれだけ濃く白檀を焚き染めているのは、自身の生臭さをごまかすためだぞ。あいつは獲物によって顔を変えるから、顔の肉はホントはもうぐずぐずに崩れているんだ。綺麗に見えるかもしれないが、それはうまいこと化粧して繕ってるにすぎきない」
「あんたの言ってることは意味がわからないな」
「理解したくなきゃそれでもいいが、とにかくこれだけは肝に銘じておけ。あの女狐が示すものは、何一つとして信用してはならない。ご覧なさいと言われても見てはならない。お聞きなさいと言われても聞いてはならない。差し出された杯を口にするなんてもってのほか」
「もう飲んでしまったよ」
「なに?」
 サザを挑発的に見上げ、私は思い切り胸を張って言ってやった。
「それはそれは美味い酒だった。こんな美味い酒がこの世にあったかと泣けたくらいだ。それを絶世の美女にお酌してもらったのだから、私は果報者さ」
「このバカ」
 サザは再び私の胸座を掴むと、無理やり立たせた。
「なんにもわかってないな。さっさと小島から離れろ。橋までついていってやるから」
「はあ?」
「おまえ、このままでは囚われるぞ」
「白檀に?」
「そう」
「はん。だったらもう手遅れだ。私の心はすでに彼女に囚われている」
「寝ぼけるのも大概にしろ」
「うるさい。偉そうに」
 これ以上彼の話を聞く気になれなかった。私はサザの手を振りほどき、さっさと歩き出した。賑々しい広場を出て、ひっそりと静かな路地をずんずん進む。
「待て」
 サザが呼びかけるが、無視する。
 歩きながら、一眼レフのレンズカバーを外した。面白いものがあればいつでも撮影できるように。
 そうだ。次、白檀に会ったら、彼女の写真を撮ろう。普通の顔、真面目な顔、笑顔、横顔、いろんな表情を撮ろう。こういうときためのカメラじゃないか。ああ、なぜすぐに思い至らなかったのだろう。少し浮かれていたのかな……
「ふふふ」
「へらへらしてるんじゃない」
 早足で近づいてきたサザは、私を追い抜きざま、私が肩からさげていた一眼レフを、実に滑らかに掠め盗っていった。
「あっ、おい」
 私の抗議は完全に聞き流し、サザは指先で筐体をなぞって——
「よせ!」
 事もあろうに、フィルムカバーをカパンと開けてしまった。
「ああっ」
 私は悲鳴を上げ、カメラを奪い返そうと掴みかかった。しかしサザはひょいと私の手をかわすと、身を半回転させ、その勢いでカメラをぶん回し、近くにあった大きな甕の中に投げこんでしまった。どぷんと鈍い音がした。その甕の中には水がいっぱいに入っていた。
 私はもう一度悲鳴を上げた。
「おまえ!……」
 水甕に駆け寄り、袖が濡れるのも構わずに腕を突っこんで、冷たい水の底に沈んだカメラを引き上げた。水中用でもなんでもない、ごく普通の一眼レフだ。しかも、フィルムカバーを開けた状態で水没させたのだ。手の中のカメラをどういう角度に傾けても、どこからか水が溢れて滴り落ちた。顔から血の気が引いていくのが自分でわかった。
「なんてことをしてくれたんだ……」
 怒りも哀しみも通り越し、虚脱して、へたりこんでしまいそうだった。
 サザは悪びれもせずに言う。「ここの写真など撮るな」
「そんなの私の勝手だろう!」
「おまえのために言ってる」
「人の仕事道具をふいにしておいてよくもそんな」
「仕事であればなおのことだ。撮ってはいけないものくらい弁えておけ」
「黙れ、口出しするな、素人が……」
「確かに私はカメラに関して素人だが、おまえは細蟹の市に関して素人だ。何度でも言うが、おまえは細蟹の市というものをわかっていない。細蟹の市に集まる連中がどんなにやばいかさえも理解していない。それを写真に撮るということがどういうことかも」
「何を言ってるんだ、こんな、公共の場で」
「それが間違ってると言うんだ。ここは公共の場なんかじゃない。他のどんな場所よりも隠されるべき場所だ」
 そして、人差し指を私の鼻に突きつける。
「おまえは自分がどれだけ危険なことをしたのかわかってない。そのカメラを持ったまま帰ろうとしてみろ。ひと気のないところに入った途端、喉首を掻き切られるぞ。死体も、痕跡もなく消されてしまうだろう」
「お、大袈裟な」
「大袈裟なものか。どいつもこいつも面をつけているからわからなかったかもしれないがな、おまえがカメラを向けた先にいた者は、みんな、おまえに殺意のこもった目を向けていただろう」
「……まさか」
「市や市に来ている者の写真を撮ってはならない。撮った者は殺されても文句は言えない。そういうルールだ」
「そんな、そんなこと許されるわけが」
「許されるんだ、この市では。街の理屈が市で通用すると思うな。ここでは人権よりも市のルールが尊重される」
「……」
「今ならまだ間に合う。カメラは捨てて、さっさと帰れ。私が橋までついていっ」
 妙なところで言葉が途切れた。
 サザが私の眼前に杖をかざしたのと、その杖に、ブーメランのように飛んできた肉厚の刃物がゴツンと突き立ったのは、ほぼ同時のように見えた。
 しばし、何事が起きたのか理解できなかった。
 よくよく眺めてみれば、私のまさに目と鼻の先で、鋭利な刃がビリビリと震えている。サザが咄嗟に杖を立ててくれなければ、この刃は私の首に喰いこんでいただろう——
 胃の口を氷の手で握られたような戦慄が押し寄せてきて、文字通り腰が砕け、私は今度こそ本当にその場にへたりこんだ。
 刃物は杖の中程までがっつりと喰いこんでいた。ちょっとやそっとでは抜けそうにない。サザは使い物にならなくなった杖をぽいと投げ捨てると、へたりこむ私を庇うような位置に立った。
「そら見ろ。言わんこっちゃない」
 じめじめと暗い路地の奥に、男が一人、こちらを向いて立っていた。
 顔にはガスマスクをつけていた。両目に嵌めこまれたまん丸いグラスが、どこからか届く提灯のあかりを照り返して鈍く赤く光っていた。
 サザは先程までと変わらない淡々とした口調で言った。
「こいつのカメラは壊れた。写真はもうない」
「撮ったという行為それ自体がまずいのです」
 男もまた淡々と答えた。ごついガスマスクをつけているせいか、声がくぐもって聞き取りにくい。
「尤もだが、ここは私に免じて退いてくれ」
「それはできません。私はもう金を受け取ってしまった。仕事は仕事です」
 男のごつい上着の中から何かが滑り落ち、湿った地面にばらばらと広がった——それは、長々しいワイヤーだった。ワイヤーの端に取り付けられているのは、刃物。先程投げつけられた刃物とおそらく同じものだ。鋭く尖り、両刃で、私の掌ほどもある。
「それにしても、ふむ、赤腹衆が護衛しているとは想定外ですね。これは別途料金をもらわないと割に合いません」
 サザは怯むことなく繰り返した。「退いてくれ」
「それはできません。逆に訊きたいですね。サザよ。あなたはなぜそんなバカを守るのですか」
「彼はマドウジだ。赤腹衆はマドウジを保護しなければならない」
「損な役回りですね」
 サザは答えず、腰を落として袴の腰板に挟んだ短刀に手をかけた。そして、私にだけ聞こえるような声で、素早く囁いた。
「ここから離れろ」
「え」
「あいつはたぶんすごく強いから、おまえのことは守りきれないと思う。黒胞衣もないし」
 とんでもないことをさらりと言う。
「じゃ、ど、どうすれば」
「広場まで走れ。白鷺の面をつけた者がいるはずだから、匿ってほしいと言うんだ。私の名前を出せばいい。他の誰にも話しかけるな。白鷺以外は信用してはならない。行け!」

 悪い夢を見ているんだ。
 でなければ一体こんなことが起こるだろうか。命を狙われるなんて、そんな、映画か小説の世界でしか起こりえないようなことが。ありえない。夢だ。すべて夢だ。サザも。ガスマスクの男も。赤い提灯も。すべてすべて夢だ。現実じゃない。私は今自宅の布団の中で、浮橋を渡って細蟹の市に行くという夢を見ているんだ……
 全力で走りながらそんなことを考えていた。
 暗い路地を一気に抜けて、熱気の充満する広場に躍り出た。無数の篝火のおかげで、明るい部分と暗い部分がはっきり分かれ、コントラストの強い世界。そこに蠢く仮面をつけた者たちが、一斉にこちらを見た。
 無数の仮面が私を見ている。しかし私のほうからは彼らの顔が見えない。どんな顔をしているのか。どんな目で私を見ているのか。サザの言葉を思い出す。おまえがカメラを向けた先にいた者は、みんな、おまえに殺意のこもった目を向けていただろう——
「ひィ」
 恐怖に駆られて、再び駆け出した。
 白鷺の面をつけた者をさがさなければ。白鷺だ。白鷺。しらさぎに匿ってもらわなければ。しらさぎのめん。それはどんなめんなのだ。しらさぎってどんな生き物だったっけ?
 私は闇雲に広場を駆けた。
 どこだ、しらさぎは。
 どこにいる……
 あさっての方向を見て走っていたせいで誰かにぶつかり、よろけたところでまた別の誰かにぶつかった。バカ野郎と怒鳴られ、それ以上からまれる前に慌てて駆け去る。幾度かそういったことを繰り返し、ふと、無力感に駆られて足を止めた。
 無理だ。
 見つけられない。
 私に対して殺意を抱いているかもしれない無数の仮面の中からたった一羽の白鷺をさがし出すことは、絶望的なまでに難しいことのように思えた。
 それでも怖くてじっとしていられない私は、広場を後にし、目抜き通りの階段を駆け下りた。この目抜き通りをまっすぐ下って、ゴーストタウンを抜ければ、あの暗い一本道に出ると思っていた。
 帰ろう。
 私のことを助けてくれる者が見つからない以上、長居は危険だ。こんな悪夢のような市はさっさと後にして、家に帰ろう。
 そう考えた。
 しかし、気づくと、駆け下りていると思っていた階段をいつの間にか駆け上がっていて、やがて階段も消えてだらだらとした上り坂になっていた。
 おかしい。これって、もしかして、逆方向なんじゃないか? 私は市の奥へと向かってしまっているんじゃないか? この道は目抜き通りじゃないのか? わからない。しかしとにかくこの道は違う。別の道を行かなくては。そう思って路地に入れば、そこはもう迷宮以外の何ものでもなかった。進めば進むほど暗く狭く臭くなっていく。また間違えた。ここも違う。出よう。出なければ。だがすでに自分がどっちから来たのかわからない。やけに静かだ。水滴が落ちる音さえ響き渡る。ときどきカサカサと音がするのは鼠か何かが走り回っているのだろうか。夜空を見上げるが奇妙なくらいに真っ暗で星も見えない。背後に人の気配が立った。もしや、あのガスマスクの男がサザを振り切って追いかけてきたのではないか——そんな恐ろしい考えがよぎって、私は情けない悲鳴を上げて後退り、しかし足がもつれて無様に尻餅をついた。
「あなた」
 美しく芳しい女が立っていた。
 寄木細工の箱を抱えた女。
 私は子供のように彼女に縋りついた。

「怖かったのね。お可哀想に」
 白檀に手を引かれて潜りこんだのは、路地の突き当たりにひっそり佇む小さな小さな劇場だった。表玄関は板がめちゃくちゃに打ちつけられていたので、脇の勝手口から入る。白檀が手にするランタンのあかりの中に浮かび上がったのは、ごくささやかな規模のホワイエ。かつてはここで、開演を待つ人々が会話を弾ませたり、観終わった感想を言い合っていたりしたのだろう。今は鼠一匹いないが。
 建物自体は他の廃屋と同様に古く朽ちて傾いていた。床のパネルは剥がれているし壁はヒビ割れている。しかし、不思議と埃は積もっていなかった。
 白檀に促され、スプリングがへたれた一人掛けのソファに腰掛ける。まともに座れるようなソファが他になかったので、白檀はローテーブルに腰掛けた。
 すかさず白檀が杯を差し出した。
「お飲みになって」
 そう言われてみれば、走り回っていたせいか、喉がカラカラだ。有難い。本当によくできた女だ。私は杯を受け取り、ぐいと呷って、危うく噎せ返りそうになった。
「酒じゃないか!」
 甘やかな香りの白く濁った酒。先程広場で飲んだのと同じ味だ。酒が通り過ぎていった喉や胃がカッカと熱くなり、くらっと目に来た。
「いけませんでしたか。ごめんなさい。お好きと思ったものですから」
「普通、こんな状況で酒を差し出すか」
「ごめんなさい」
 白檀は哀しそうに項垂れた。
 その顔を見て、罪悪感に襲われた。彼女が私を想ってしてくれたことなのに。私ときたら、怒鳴ったりして。
「まあ、いいよ、この酒は美味いから……」
 などと呟いてから、ふと、サザの言葉を思い出す。

 あの女狐が示すものは、何一つとして信用してはならない。
 ご覧なさいと言われても見てはならない。
 お聞きなさいと言われても聞いてはならない。
 差し出された杯を口にするなんてもってのほか——

 バカバカしい。
 酒を飲んだくらいで、何が起こるというのだ。体調が悪くなるわけでも、ましてや毒を盛られているわけでもない。ただただ美味いばかりの酒だ。気持ちよく酔うだけだ。
 残りの酒を一気に飲み干した。そうすると、アルコールの作用か、ふわふわと浮かれた心地になった。急に気が楽になり、恐れや不安といったようなものが薄まっていく。
 そうだ。気にすることはない。あんな、顔を晒して話もできないような野郎の言うことなんか。
 私に笑顔を見せて甲斐甲斐しく手を差し伸べてくれるのは、今目の前にいる彼女、他でもない白檀だ。私は彼女だけを見て、彼女の言うことだけを聞いていればいいのだ……
「悪かったよ、怒鳴ったりして。酷い目に遭ったんでちょっとイライラしてるんだ」
「酷い目って、どうなすったの」
 広場で白檀と別れてから起こったことを、かいつまんで話した。酔って寝ていたら赤腹衆のサザという男に叩き起こされたこと。カメラを台無しにされたこと。ガスマスクの男に殺されかけたこと。
 白檀は「まあ」と口を手で覆い、怯えるように眉を曇らせた。そんな何気ない仕種も可愛らしい。
「本当に、わけがわからないよ。とんだ災難だった。細蟹の市が、まさかこんなに危険なものだったとは。どいつもこいつも……そうだ。君さ、この市の有力者に顔が利くと言ってたよね。なんとかならないかな。つまり、写真を撮ったくらいで命を狙うなんて、そんなバカなことを、やめさせてほしいんだ」
「わかりました。なんとかしましょう」
「頼むよ、ホント」
「任せてください」
「君は頼もしいな」
「ねえ、あなた」
 耳にふうっと息を吹きかけられたような、なまぬるい声だった。
 白檀はローテーブルから滑り降りて床に跪き、私の膝に手をのせた。そのくすぐるような感触に、寒気に似た快感が尻から背筋を這いのぼってきた。白檀が上目遣いに私を見やる。なんだか甘く妖しい空気が漂う。
「私ね」
「ああ」
「〈この世ならぬ色〉を見つけましたよ」
「……本当に!?」
 白檀は微笑みながら頷いた。床に置かれたランタンが、美しい顔の陰影を深くする。
 その手は私の膝頭を撫でるともなく撫でている。なんだか頭の中もこの指でなぶられているような気がする。
「どこに……どこにあるんだ」
「ここに」
「え?」
「ここにありますわ」
「ここって。何もないが」
「見えていないだけです」
 ふっとランタンのあかりが消える。
 周囲が闇に包まれる。
「えっ」
 女の体温が離れる。
 気配が遠ざかってしまう。
 私は闇の中に取り残された。
「おい、白檀? おおい」
 返事はなかったが、物音がした。
 ホールのほうから……
 私は立ち上がり、真っ暗な中をおそるおそる進んだ。ついさっきまでランタンの強いあかりを間近に見ていたせいか、なかなか目が闇に慣れない。
 手をうろうろと彷徨わせながら、湿ったような感触の古い絨毯を一歩一歩踏みしめて、音のしたほうに寄っていく。やがて、分厚い扉に指先が触れた。防音加工されたホールの扉だ。掌で押してみる。動かない。蝶番が錆びて開きにくくなっているのかもしれない。肩を当て、体重をかけて押すと、がぱっと開いた。たたらを踏みながらホール内部にまろびこむ。
 左右を大きな窓に囲われているため、外のわずかなあかりが入ってくる。辛うじて物の輪郭が見えた。
 天井は高いが、こぢんまりしたホールだった。百人も入ればいっぱいになってしまうだろう。階段状になった十列ばかりの観客席の向こうには、慎ましい舞台があった。醤油で煮染めたような緞帳が下がっている。
 静かだ。
 静かすぎて耳が痛くなるほどに。
 薄っぺらい背もたれがぞろぞろと並ぶばかりの観客席の只中に、女が立っていた。
 朧なあかりの中、彼女の白い肌が浮かび上がって見える。
「白檀?」
「ここにありますわ」
「何が」
「あなたが望んだもの」
「〈この世ならぬ色〉?」
「そう」
「どうしてこんなところに」
「私さがしましたもの」
 周囲を見渡してみる。しかし特に変わったものは見受けられない。壁があり天井があり観客席があるばかり。如何せん暗いので、色彩もはっきりしない。
「どこに? わからないよ。こう暗くちゃ……」
「いいえ。見えるはず」
「わからない」
「いいえ」
 そうして白檀は、抱えていた寄木細工の箱を開けた。

「ご覧なさい」

 と同時に。
 鉄筆で引いたような細く鋭い光が、暗いホールの壁といわず天井といわず、あらゆる場所を縦横無尽に走り、それが交差する場所ではストロボのような閃光が放たれた。ホール全体が煌々と照らし出される。床板の隙間のあちこちからは、透明感のある鉱物が六方柱状に結晶しながら、にょきにょきと人の背丈ほども生えて燐光を放ち、朽ちた天井は極彩色のステンドグラスに変わって、乙女が眠り竜が守るヘスペリデスの園を写し出し、星座早見盤のように悠然と大回転し始め、そんなガラスの園から津波のように溢れ出たのはロダンの彫刻を思わせる老若男女の生々しい裸体で、彼らはぐにゃぐにゃとくんずほぐれつしながら、回転する天井をつたって、ねじれる壁を滑り落ち、波打つ床にまで垂れてきたところで赤ん坊に変成し赤ん坊はその頭頂部から花を咲かせて縮んで消えた。
「なんだこれは」
 いつの間にかすぐそばまできていた白檀が、私の胸にしなだれかかってきた。私は白檀を抱きとめた。爽やかな芳香が私の中に満ちる。
「世界の匿された機構ですわ」
「なんだって」
「世界という薄皮一枚の真下では、この輪廻が止むことなく繰り返されております。普段は見えていないだけです。あなたは今まさに真理を目の当たりしているのですわ。この光景は選ばれし者のみが目にできるもの、この世ならぬ視点なのです」
「なんてことだ」
 私は再びホールに目をやる。
 輪廻がのたうち回るホールを。
 色の坩堝だった。
 どの色も、これまで見たことがないものばかりだ。
 あの結晶の色はどうだろう。あの花の色は。あの肌の色は。あんな色があったのか。私だけでなく、きっと、この世の誰も見たことがない。あんな色があったのか……
 ああ、あの色!
 あの色も!
 あの色も!
 あの色も!
 やがて鯨の啼くような声が響き渡り、それが開始のブザーだったかのように舞台を覆っていた緞帳がゆるゆると上がって、その隙間から、固体でもなく液体でもなく、とにかくなんだか柔らかい肉のようなものどもが大量に溢れ出てきて、それは観客席を押し流さんばかりだった。
 その肉の色。
 あれはなんだ。
 どうすればあんな色が作れるのだ。
 私は感動のあまり震えた。
 力が抜け、その場にへたりこんだ。
 目に入ってくる色のいちいちが、私の脳細胞を烈しく痺れさせた。刺激があまりにもあまりにも強く、そして止め処ないので、もはや処理しきれない。この世ならぬ光景の奔流に私はなす術もなく振り回され掻き回され乱されるだけ。色や色や色が思考を支配してもう破裂しししししししそうだ。その感覚が得も言われず快感だった。私はいつの間にか涙を流していた。そして、口の端から涎を垂らしていた。足があたたかくしめ湿しめしめ湿った。
「素晴らしい。素晴らしいよ。こんな色、見たことない。あれも、あれも……ああ、この世のこととは思えない」
 私の肩に優しく手を置いた白檀が囁く。
「この世のものではありません」
「へえ?」
「人の世にいたのでは人の世の色しか見ることはできません。あなたが求めているのはこの世ならぬ色。そうでしょ」
「ああ、そうだ……きっとそうだったんだ……」
「でも、残念ね」
「何があ」
「あなたは今ここにある色を一つとして手には入れられないの」
「どうしてえ」
「だってあなたはこの世の人ですもの」
「でも、でも、あれが欲しいよ。あれが欲しいよお。どうすればいいんだよ」
「どうすればいいか。それを訊くのが人間」
 堂内では、相変わらず、豪華絢爛な謎の輪廻が短時間のうちに何度も繰り返されている。
 舞台から溢れて土砂崩れの跡みたいになっていた秩序ない肉の河から、洗練された造形の何かがすらりと立ち上がった。天鵞絨のような滑らかな毛皮を持つ巨大な虎だった。背には、逞しい黒人青年を乗せていた。虎はのっしのっしと闊歩し、私のすぐそばまでやってきた。ビターチョコレートから彫り出されたかのような見事な体格の黒人青年は、小脇に抱えていたものを取り出した。それは新聞紙ほどもある巨大な革張装丁の書物だった。のそりと広げれば、そのページに描かれているのは、フラスコの中に座る白いドレスの女。そのページの印刷は見る間に薄れ、隆起し、白檀の顔になった。彼女は目からインクの涙を流し始めた。
 ページの中の白檀が言った。
 哀しいわ。
 白檀が哀しいなら私も哀しい。私は涙をこらえながら本の中の彼女の頬に触れ、涙を拭ってやった。
「何を哀しいと言うんだ」
 それでも彼女はまださめざめと泣くのだった。
「教えてくれ。なぜ泣いているんだ」
「私はこの世の者ではないのです」
 ああ、やはり。
 薄々そうではないかと思っていた。
 だって、こんなにも美しく、こんなにも神秘的な女、とても、この世の者とは思えない……
「私はこの世の者ではないから、私ならあなたに〈この世ならぬ色〉を差し上げることができます」
「本当かい」
「ええ。でも、そのためには、あなたは私のものになってくださらなくちゃいけません」
 なんだ。
 そんなことか……

「なるよ。なる。私は君のものだ。こんな誓いは今さらだ。出会ったときから私は君に囚われている。私はもうとっくに君のものだ。君の好きにするといい」

「言ったわね」
 そう囁いたのは、ページの中の白檀ではなく、私の隣に立つ白檀。
 彼女は私の顔を覗きこんで微笑んだ。すると、目尻や口元にぞわりと縮緬のような皺が寄った。その皺寄せで頬の一部にヒビが入り、パキパキと漆喰のように剥がれた。腐臭が漂った。
 ふとあたりを見わたすと、そこは闇と静寂に包まれた小さな演劇ホールだった。壁があり天井があり観客席があるばかり。この世ならぬものは何一つとしてない。黒人青年を乗せた虎も。肉の河も。花を咲かせる赤ん坊も。天井のステンドグラスも。六方柱状の鉱物も——私の心を震わせ乱し狂わせたものは、何もかも消えてなくなっていた。
 私は暗いばかりで何もないホールの真ん中で、ぼんやりと口を開けて失禁しているのだった。
 へたりこんでいる私の傍らで、白檀は顔を上向け、魚の腹のように白い喉を晒し、大口を開けて笑った。体を揺するごとに顔の表皮はパラパラと剥がれ落ち、鼻は崩れ、唇はめりめりと耳まで裂けて血塗られたように真っ赤な口腔がさらけ出された。朽ちた歯車が軋み合うような哄笑が夜の底に長く長く響いた。

 ではおまえは私のものよ。
















 暗い。
 なぜこんなに暗いのだろう。

 ……ああ、そうか。
 目を閉じているのだ。
 目を開けなければ。

 どういうわけだか、目を開けにくい。
 それでも無理に開けようとすると、ぺりぺりと、瞼にこびりついている何かが引き攣る音がした。そのせいで、なんだかもう目を開けることが億劫になってしまった。
 もういい。
 瞑ったままでいい……

 ひどく疲れていた。
 全身に力が入らない。
 思考もはっきりしない。

 どれほどの間、じっとしていただろう。

 あるとき、声が聞こえてきた。
 聞き慣れた声だった。
 これは……
 サザと白檀だ。
 あの二人が、そう遠くないところで、会話している。

「うまくやったものだな」
「ええ。ええ。やったわ。上物よ。なかなか出ない良品よ。こんなに若くて健康な男だもの。どんなに細かく刻んだって、どの部位にもきっと良い値がつくわ。でも手こずったわ。なんせ、サザ、あなたが邪魔するのだもの」
「マドウジを保護するのが私の仕事だ」
「そうね。でもこの男はもうマドウジではなくてよ。私の商品よ。夜宵さんだって認めたわ。だってこの男が自分の口で言ったのだもの。私はあなたのものだ、と」
「わかってる」
「ねえ、サザ。そんなに落ちこむことないわ。あなたはちゃんと仕事したもの。ただ、私のほうが一枚上手だったというだけのことよ。ねえ、そうでしょう。そういうのは仕方のないことだわ。それに、この男がマドウジかどうかは、正直、微妙なところだったわ」
「おまえに労われるとはな」
「だってあなたは頑張ったもの」
「殺し屋を雇ったのもおまえか」
「あれは違うわ。誰が雇ったかは私も知らない。でも、誰が雇ってもおかしくない。この男が自ら蒔いた種よ。自業自得というやつ。それで追い詰められるのだから可笑しいわねえ」
「市のことを知らなかっただけだ」
「だからってこの男の傲慢さが許されるわけではないのよ。ねえ、知ってる? この男が欲したものを。〈この世ならぬ色〉ですって。この世にしがみついて生きる者の分際で〈この世ならぬもの〉を見よう得ようだなんて、おこがましいこと。こんな傲慢な男、滅多にいないわ。ねえ、そうでしょ。違って?」
「わからんな」
「ああ、サザ。そんなに悄気こまないで。大丈夫よ。私、彼をきちんとしたところへ売りさばくから。自分で仕入れた商品には最後まで責任を持つから。ね?」

 足音が近づいてくる。
 私は、まとわりつく倦怠感をどうにか堪えて、ようやくぺりぺりと目を開けた。
 見覚えのある黒いブーツが視界に入った。
「私の言うことを聞かないからこうなる」
 私はサザに顔を向けようとした。しかし首が動かなかった。どこかに固定されているらしい。眼球だけを動かし、冷たげな仄白い翁面を見つめた。
 サザは膝を折って屈み、さらに背を丸めていた。そうすることでやっと私と目線が同じ高さになった。どうやら私の顔は異様に低い位置にあるらしかった。
 私は、今、どういう姿勢でいるのだろう。自分の姿が見えないので、自分が今どのような状態なのか把握できない。寝かされているわけではないようだが、では、座っているのだろうか。それとも……
「値札を下げられた以上、おまえは商品だ。私にはどうしてやることもできない」
 思うところあって、私は、サザのその言葉に応えようとした。しかし、どういうわけか、うまく声が出なかった。舌も唇もカラカラに渇いて引き攣っていた。息を吸いこむと喉の辺りでひゅうひゅうと空気が漏れる音がした。喋るという、これまで苦もなくこなしていたはずの行為が、今はひどく大儀だった。
 苦心しているのが伝わるのだろうか、サザはかなり長い間、私が何か言うのをジッと待ってくれていた。
 そして、何度目かの試みで、私はようやく声を出すことができた。

 ——幸せだ。

「なら、いい」
 サザはそう呟くと、立ち上がってどこかへ去った。首を動かすことのできない私には、サザがどこへ行ったのか窺い知ることはできなかった。入れ替わりに、白檀の香りのする女が私の前に屈んだ。女は、実に嬉しそうな顔をして、幼い子どものような仕種で私の顔を覗きこんできた。
 相変わらず、美しい。
 なんて美しいのだろう、この女は。
 哀しくなるほど美しい……
 女は耳朶をくすぐる甘い声で囁いた。
「私のこと覚えてる?」

 ああ。
 覚えてる。
 私にこの世ならぬ色を見せてくれた女だ。

「これからも見せてさしあげるわ。いろいろな色を見せてさしあげるわ。あなたの手足は四方へ旅立ち、骨は巧みに加工され、血は妖婦の肌を磨き、目玉や性器や臓物は秘薬の基となるでしょう。あなたは多くの人から有難がられるの。素敵ね?」

 ああ、素敵だ。
 楽しみだ。
 私は幸せだ。






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読んでくださってありがとうございました!

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ぱくたそ(www.pakutaso.com)さんから
お借りしています。

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