「真面目すぎると成果はでにくいよね」ってお話。
ボクはわりと真面目なタイプの人間だと思っている。
たとえば、仕事でいうと、「求められた結果を出すためにはどうすればいいか?」とか、「チームの結束力をあげるにはどうすればいいか?」とか、そういうことをずーっと考えてる。
これって一見すると「真面目で一生懸命仕事に取り組んでいる」ように見えるんだけど、実は「成果に繋がりにくい」ことに気がついた。
...目の前のことしか見えなくなるのだ。
「いやいや!それってそれだけ集中しているってことでしょ!いいことじゃん!」
という意見が返ってきそうだけど、「目の前のことに集中している」と「目の前のことしか見えていない」というのは天と地ほどちがくて、「視野」と「視点」に大きな差がある。
どういうことか。
これを理解するには、イソップ寓話の「三人のレンガ職人」がわかりやすい。
一人の男が道の脇で難しい顔をしてレンガを積んでいた。
旅人はその男のそばに立ち止まって、
「ここでいったい何をしているのですか?」
と尋ねた。
「何って、見ればわかるだろう。レンガ積みに決まっているだろ。
朝から晩まで、俺はここでレンガを積まなきゃいけないのさ。
あんた達にはわからないだろうけど、暑い日も寒い日も、
風の強い日も、日がな一日レンガ積みさ。
腰は痛くなるし、手はこのとおり」
男は自らのひび割れた汚れた両手を差し出して見せた。
「なんで、こんなことばかりしなければならないのか、
まったくついてないね。
もっと気楽にやっている奴らがいっぱいいるというのに・・・」
旅人は、その男に慰めの言葉を残して、歩き続けた。
もう少し歩くと、一生懸命レンガを積んでいる別の男に出会った。
先ほどの男のように、辛そうには見えなかった。
旅人は尋ねた。
「ここでいったい何をしているのですか?」
「俺はね、ここで大きな壁を作っているんだよ。これが俺の仕事でね。」
「大変ですね」
旅人はいたわりの言葉をかけた。
「なんてことはないよ。この仕事のおかげで俺は家族を養っていけるんだ。
ここでは、家族を養っていく仕事を見つけるのが大変なんだ。
俺なんて、ここでこうやって仕事があるから家族全員が食べて
いくことに困らない。大変だなんていっていたら、バチがあたるよ。」
旅人は、男に励ましの言葉を残して、歩き続けた。
また、もう少し歩くと、
別の男が活き活きと楽しそうにレンガを積んでいるのに出くわした。
「ここでいったい何をしているのですか?」
旅人は興味深く尋ねた。
「ああ、俺達のことかい?
俺たちは、歴史に残る偉大な大聖堂を造っているんだ!」
「大変ですね」
旅人はいたわりの言葉をかけた。
「とんでもない。ここで多くの人が祝福を受け、悲しみを払うんだぜ!
素晴らしいだろう!」
旅人は、その男にお礼の言葉を残して、
また元気いっぱいに歩き続けた。
(引用:ママとキッズの智慧のスクール“ジャックと豆の木”)
ボクの状況は、「2番目のレンガ職人」に近い。
真面目すぎると、目の前の仕事に一生懸命になる。来る日も来る日も、それはもうひたすらに「一生懸命」レンガを積み上げる。
そして、「レンガを積むこと以外」はみえなくなる...!!
これが真面目すぎることの弊害だ。
この「三人のレンガ積み」の話はわりと有名なので、知っている人も多いかもしれない。事実、ボクも以前から知ってはいた。
「なにが目的なのかを忘れちゃうと、2番目のレンガ職人になっちゃうから気をつけないとな」
と、理解していたはずだった。
でも気がつくと「2番目のレンガ職人」になっている。
それは、「真面目さ」が「2番目のレンガ職人」につながることを理解していなかったのが原因だと気づいた。
「2番目のレンガ職人」と「3番目のレンガ職人」の最も大きな違いは「目的意識」であることは間違いない。
しかし、その「目的意識」を持つには、「いいぐあいに力が抜けている状態」が大切で、力が抜けていないと全体像をみる余裕がなくなる。
「3番目のレンガ職人」をみてみて欲しい。
どうみてもいい感じで力が抜けている。このひとが1日中ただひたすらにレンガを積み上げているようには思えない。
きっと、ある程度レンガを積んでは、これまで積み上げたレンガの周りをグルグル回って全体を見直したり、少し街を出歩いてほかの大聖堂をみて参考にしてみたり、レンガじゃなくて他の素材を試してみたりと、いろいろしているはずだ。
これは「余裕」がなきゃできない。
そんで、「余裕」をもつには「力の入れどころ」と「力の抜きどころ」を理解する必要があるんだけど、真面目すぎる人は「全部に力を入れようとする」から、結果として「余裕」がなくなり、「目的意識」をわすれ、「成果」がでにくくなっちゃうよねってこと。
ある程度の「適当さ」があったほうがいいね。
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