アメリカでからまれた話~『猫を棄てる』感想文~

アメリカに一人旅に行ったときに、お金をとられたことがある。
これは武勇伝でもなければ、スリリングな話しでもない。

天気のいいニューヨークの観光名所の近くで起こった話だ。
街が寝静まった夜のことでもないし、怪しい路地裏でもないし、もちろん銃も登場しない。

横断歩道で信号待ちをしていると、ミュージシャンを目指しているという黒人二人組が話しかけてきた。自分たちが作った歌のCDを無料で配っているから、聞いてくれないかと言われ、そのCDを渡してきたのだ。

ちょうど異国でのコミュニケーションに刺激と面白さを感じていたときでもあり、私はこころよくCDを受け取った。すると、彼らはすこしばかり援助(寄付)をしてくれないかと言ってきた。少し面倒なことをなったなと思いつつ、CDは受け取っているし、とりあえず財布から10ドルを出して渡すことにした。しかし、二人はそれを受け取りつつも、少なすぎると言い始めた。もっと必要だ、もっと必要だと言うのだ。そして、気づいたら二人組の仲間らしき人もやってきていて、私は4人に囲まれた状況になっていた。じゃあ、いくら必要なんだと訊くと、財布を見せろといってくる。これはさすがに、マズいと思い、CDはいらない、だからお金も払わないと言った。そして、持っていたCDを突き返した。しかし、彼らはそれを受け取らない。このCDはもうお前の物なのだから、早くお金を払えと言い続ける。

そのとき、私の頭の中は恐怖だったり、緊張だったり、異国ということで言葉がでないもどかしさであったり、色々な感情が巡ってきていた。泣きそうだった。私は持っていたCDを地面に置くと、すぐさま横断歩道を駆け抜けた。信号が赤なのか青なのかも確認していなかった。考えてやったことではない、本能的にこの場を離れなきゃだめだと思ったのだ。彼らが追いかけてきているのかは、わからない。とにかく、ひたすら走り続けた。そして、しばらく走って振り返ると、彼らの姿はもうみえなかった。もう10年前以上の話しである。

昨年、大学時代の友人たちと同窓会があった。十数人が参加しており、毎晩一緒に飲み歩いていた友人もいれば、ほとんど話したともない人もいた。

そんな中、一人の友人が話しかけてきた。お互いの当たり障りのない近況報告が終わると、彼は私のニューヨークでからまれた話が好きだったと唐突に言ってきた。周りでアメリカに行くやつがいたら、必ずお前の話しをするんだ、彼は楽しそうに言っていた。

自分の知らないところで、誰かが自分の話しをしていた。そして、それがニューヨークでからまれた話だったのだ。なんだか、それが少し不思議に、少し面白く感じた。

『猫を棄てる 父親について語るとき』を読んだ。村上春樹氏は父のエピソードとして、父と一緒に猫を棄てにいった話をしている。春樹氏が書いているので、そのエピソード自体がとても魅力的にはみえるのだが、出来事自体は、それほど変わったことでもないように思えた。だからこそ、父とのエピソードとして、数ある出来事中で、これを選んで書いたことがなおさら印象に残る。

春樹氏の父はすでに亡くなっているということだが、ご存命時は、この出来事を覚えていただろうか。また、もし春樹氏の父に、息子に関しての印象的な出来事を書いて欲しいといったら、それはどんなものだったのだろうか。もしかしたら、春樹氏が全く覚えていない、記憶にないようなことかもしれない。

誰かについて語る時に、語られるエピソード。もし、私が父について、母について、家族について、友人について語るとしたら、何を語ろうか。そして、父が、母が、家族が、友人が私について語るとしたら、何を語るのだろう。

そんなことを、読後に考えた。できれば、かっこよくて、魅力的なエピソードがいい。

アメリカでからまれた話なんかじゃなくて。。。

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